小城城(おぎじょう)

小城城の基本情報

通称・別名

桜岡城、(小城陣屋、小城藩邸)

所在地

佐賀県小城市小城町字西小路他

旧国名

肥前国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

鍋島元茂

築城年

元和3年(1617)

主な改修者

主な城主

鍋島氏

廃城年

明治時代前期

遺構

堀跡、石橋

指定文化財

再建造物

説明板

周辺の城

千葉城(佐賀県小城市)[1.9km]
陣の森城(佐賀県小城市)[6.0km]
佐留志城(佐賀県杵島郡)[8.6km]
高木城(佐賀県佐賀市)[9.3km]
古湯城(佐賀県佐賀市)[9.6km]
梶峰城(佐賀県多久市)[10.5km]
佐賀城(佐賀県佐賀市)[11.0km]
水ヶ江城(佐賀県佐賀市)[11.4km]
帯隈山神籠石(佐賀県佐賀市)[13.7km]
姉川城(佐賀県神埼市)[14.2km]

小城城の解説文

小城城(おぎじょう)は佐賀県小城市に存在した平城。

概要
小城市小城町の平坦地に位置する。正式には城ではなく館(陣屋)だが、小城城と呼ばれる。元和3年(1617年)に小城藩の藩祖・鍋島元茂が築いた。代々の藩主が居城とし、明治維新の際に解体された。

参考文献
角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典 41 佐賀県』、角川書店、1982年

小城城の口コミ情報

2021年09月14日 龍馬備中守【】
金田環濠[小城城  周辺城郭]



佐賀県の小城市、三日月町にある【金田環濠】♪
現、三日月町の南部平坦地で嘉瀬川と祇園川の合流点下流南岸に、北側と西側は福所江川が南流する場所に立地します☆
江戸時代には小城郡の三日月郷の内にあり正保絵図に村名が描かれ小城藩に属しました☆

中世の歴史詳細は不明ではありますが、集落内には『日子神社』『粟島神社』『天満神社』が残ります♪日子神社に関しては南北朝時代の建武年間に高田城にいた千葉胤泰が創建していて、ヤハリこの辺り一帯は肥前千葉氏が領していた事が判ります☆因みに、この千葉胤泰が築いたとされる高田城の場所は未だに不明で良く分かっていません☆何個か候補地『長神田里高田、遠江ヶ里・久本ヶ里を惣名高田と 称し、社ヶ里を下高田と称する説など』はあるものの…ハテナ?の様です☆因みに遠江ヶ里、社ヶ里の付近はこの金田環濠からは目と鼻の先にある位の場所♪直線1キロあるかな〜?位の距離感になっています☆コレは…
しかも遠江ヶ里、社ヶ里は高田城の最有力地である様です♪仮にもこの場所が高田城ならば…金田環濠に何も無かったとは言わせないw
有力家臣の屋敷と言っても良い位に綺麗な濠が残るし…はたまた遠江ヶ里、社ヶ里の西方の守りだったのか??もしくは、城下的な意味合いを持つ集落だったのか?妄想が先行しますね☆真相は闇の中〜wあ〜あ高田城☆ロマンがあります♪
高田城の件も含めてもう少し突っ込んで調べてみますね☆

因みに遺構としては金田公民館の辺りを中心に環濠集落は比較的良好に環濠が残ります☆
圃場整備は入っている場所もありますが、あの濠の回し方は恐らく何かから身を守る為の…濠であると考えます☆

2021年09月13日 龍馬備中守【】
立石環濠[小城城  周辺城郭]



佐賀県の小城市にある【立石環濠】♪国道34号線に貫通する様な形で濠を形成します☆多くの歴史詳細は不明ではありますが、集落内には千葉胤貞の子・千葉胤継 が開山したと伝えられる光旭寺が残ります☆
これは戦国初期は千葉氏の領域であった証拠でしょう☆この立石環濠には妙長寺、天満宮、光旭寺と3つに渡る寺社が存在しています☆寺社がある=栄えた証拠でしょうね☆
更に集落の近くには「千葉殿の森」と呼ばれる所がある様なのですが、イマイチ場所は特定出来ませんでした☆
この肥前千葉氏とは桓武平氏の末裔の一族で千葉氏の支族の一家となります♪
千葉氏は元々は下総国(現千葉県北部と茨城県西部)から元寇襲来時に九州の防衛(異国警固番役)の為に派遣されて、そのまま肥前国に土着しました☆
千葉宗胤を祖としていて肥前千葉氏と呼ばれます☆
この肥前千葉氏は室町時代に全盛期を迎えます♪この頃に日本を訪れた李氏朝鮮の使臣・申淑舟の著書の『海東諸国記』には肥前国の最大の勢力として千葉氏の名が挙がってます☆
戦国時代初期に肥前千葉氏は東西両家に分裂しちゃいます☆コレにより弱体化☆
少弐氏の介入を受け、その養子を当主として受け入れる事を余儀なくされるほど衰退しちゃいました☆
龍造寺氏に攻め込まれて少弐氏が滅亡した時には東千葉家の当主・千葉胤頼は実兄の少弐冬尚と共に自刃☆残った西千葉家は龍造寺氏に仕えていて、その部将として活動しました♪
龍造寺隆信の死後(沖田畷の戦い)は龍造寺家の後を任され実権を握った鍋島直茂が一時期、西千葉家の千葉胤連の養子だった縁もあり重用され江戸時代には鍋島姓を与えられて佐賀藩に家老として仕えました☆

この肥前国の元寇襲来後の歴史は肥前千葉氏無くして語れません♪
肥前千葉氏の分家としては…肥前石井氏、肥前徳島氏、鴨打氏、円城寺氏、江藤氏など戦国期に活躍した家柄を輩出しています☆それは江戸、明治を超えて現代にも生き抜かれています☆本当に凄い事ですね♪時代の流れを読み切り生き抜く強さは見習いたいものですね♪

2021年09月12日 龍馬備中守【】
持永城[小城城  周辺城郭]



佐賀県の小城市の牛島町にある持永城♪別名を今川城と呼びます☆
南北朝時代に今川貞世(了俊)は足利義満の命で南朝勢力討伐の目的で九州探題として下向してきました♪今川貞世は、この時代の武将であり守護大名です☆九州探題の赴任中は備後、安芸、筑前、筑後、豊前、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩の守護も兼ねました☆
法名は了俊(りょうしゅん)と名乗り今川了俊の方が有名かもしれません♪
今川貞世は肥前支配を養子である今川仲秋に任せました☆
今川仲秋はこの地を九州探題の拠点として活動🏃‍♂️今川仲秋は小城の肥前千葉一族の千葉胤泰の娘を妻にしていて、その子孫達はこの地に残ります☆
その5代目・今川秋景の時に肥前千葉氏の被官になり『持永』姓を名乗っていきます☆

戦国時代に入ると千葉教胤は、同肥前の在地豪族、高木氏達と共に佐嘉郡の今川胤秋の新庄(鍋島町)にある居館を突如、攻撃します☆コレは今川胤秋も九州探題と組んで千葉教胤を討つとのうわさが流れた事により攻め込んだものでした☆
突如、千葉氏の攻撃を受けた今川胤秋は千葉家中の中村胤明、岩部常楽の両将を寝返らせて、千葉軍を追い払い和睦し無事難を逃れました☆でもでも、この戦によって今川氏は大いに勢力を減退させ、姻戚関係により結ばれていた今川・千葉両家には深い遺恨が残る事になります…☆
そして、ついには今川胤秋は千葉教胤に対して挙兵、同じ足利一門である九州探題・渋川教直と連合して千葉領内の小城郡に攻め込みました☆
でも千葉教胤の反撃は探題渋川氏、今川連合軍を押し返しました☆今川胤秋は返り討ちにされて戦死…☆渋川氏は退却を余儀なくされ今川氏の所領は千葉氏に併合される事に至ったりました☆
その後、今川国治の孫で今川胤秋の子・今川義秋が今川旧臣を集めて再度の挙兵!!
佐嘉郡植木(鍋島町植木)で千葉軍に鎮圧されて、今川義秋は討ち取られ肥前今川氏は事実上滅亡しちゃいました☆

その後、持永氏の家系は千葉氏滅亡後は戦国大名龍造寺氏に臣従しました☆
持永城は清泉寺の南に本丸があった様です☆ここに『今川持永城本丸趾』の石碑が建っていて、その近く、芦刈水道の北側に築山が残っていて持永氏の墓と伝わります☆

2021年09月11日 龍馬備中守【】
江里環濠[小城城  周辺城郭]



佐賀県の小城市にある【江里環濠】♪佐賀平野北西部、祇園川の西部に位置します☆江戸時代には樋口ヶ里村として描かれています☆

樋口刈、大曲とも呼ばれ、この地は五条ヶ里、江里ヶ里、立石ヶ里、江口ヶ里と分かれていて江里環濠は樋口村の枝村となっています☆
枝村の五条ヶ里(現三日月町大字樋口字五条)の五条は…ピンときました☆
そうです♪条里制に伴う地名が残る五条ヶ里☆
この江里ヶ里での歴史は…
南北朝時代、『関東御教書』には恵里村と出てきていて、この江里ヶ里の事だと思われます☆『肥前国恵利弥次郎兼綱後家蓮阿並 千葉太郎宗胤代行蓮等申、恵利村名主職事、注進状披露之処、彼等訴訟所被棄置也者、山代亀丸知行不可有相違之状、依仰執達如件』とあり恵利村という村名が出てきます♪

恵利村名主職は、山代亀丸のものとなりましたが関東下知状には恵利村の代替えとして筑後国に山代亀丸は土地を貰ったとも記されてます☆

集落を縫う様にクリーク(濠)が回り込み現在もその名残を残します☆

2021年09月10日 龍馬備中守【】
樋口環濠[小城城  周辺城郭]



佐賀県の小城市にある【樋口環濠】♪佐賀平野北西部、祇園川の西部に位置します☆

樋口刈、大曲とも呼ばれ、この地は五条ヶ里、江里ヶ里、立石ヶ里、江口ヶ里と分かれていて樋口環濠は樋口村の中心的な集落となります☆

大きな歴史詳細は不明ですが確かに集落内を濠が守っています☆

樋口環濠は戦国時代初期に開山された妙顕寺や本蓮寺跡(現在はなし)などが集落に残っていて、今に歴史を伝えます♪

現在は住宅が密集するエリアにはなりますが
樋口公民館や妙顕寺の周辺には濠跡が残ります☆

2021年09月08日 龍馬備中守【】
壬生遺跡[小城城  寺社・史跡]



佐賀県の小城市にある【土生(はぶ)遺跡】♪小城と言えば…小城城、千葉城などがありますが、中世よりももっと昔の話☆

小城に人が住みはじめたのは約2万年前の旧石器時代の事で小城市の三日月町、織島地区の遺跡で多量の石器が出土しています☆
縄文時代、弥生時代の遺跡もこの小城地区には多く分布し土器や石器が出土してたりします☆そんな時代から人の気配を見せている小城エリア♪凄い事ですね☆
竪穴式住居が復元ながら天晴れ☆
リアルです♪更に手作りになっていて地元愛に溢れています♪

弥生時代になると遺跡の数は増えていき土生遺跡に代表される貴重な遺跡も見つかっています☆この時代に多くの人が集落を形成し住み始めたと考えられますね♪

土生遺跡は一部、国史跡に指定されていて遺物としては土器、石器のほかに鍬・鋤などの木製農耕具が出土していて狩猟採集が盛んだった事が伺えます♪中でも朝鮮系無文土器に青銅製鉇(日本で1番最初に出土)、鋳型、木製の踏鋤が出土している事から遠く海外との繋がりがあった事を物語ます♪

古墳時代には北部や西部の山麓などで数多くの古墳が造られていて平野部では集落跡や方形周溝墓なども見つかっています☆

佐賀平野には多くの古墳が残っていています♪この古墳の盛ったり、掘ったり、削平したりの技術が城郭造りに繋がっていったんではなかろうか?色々考えられるから面白いですね♪

2021年07月06日 (*¯ ³¯)っ旦
小城城

生き血のように真っ赤な稲荷神社から正面の階段を降りずに下手側に一段下の曲輪のような所へ降りて行く階段があるのですが、
階段、石垣共に古そうな感じはします。
お城の遺構っぽいのですが…
違うかもしれませんが、古さは見る価値があると思います。

2020年04月18日 風祭すぅ
小城城



小城公園として整備されているので、公園の無料駐車場がありました。
桜の名所です。

2018年08月13日 織田上総介晃司
小城城

小城公園に駐車場があります。

小城藩邸正門前の石橋が唯一の遺構として残ってます。
以前は車で石橋を渡って駐車場に入ってたそうですが、今は模擬冠木門を建て車は通れないようにしてます。

小城羊羮は全国的に有名で、お土産にすると喜ばれます。

2017年04月07日 征夷大将軍慶誾尼☆寧
小城城

小城藩初代藩主の鍋島元茂、二代藩主直能が造営した庭園です。
「日本の歴史公園百選」や「さくら名所百選」に選ばれてます。
約3000本の桜とその後は約2万5000株のツツジが咲き現在は小城公園で慕われてます。

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