立石環濠
立石環濠([小城城 周辺城郭])
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立石環濠の口コミ情報
2021年09月13日 龍馬備中守【】
佐賀県の小城市にある【立石環濠】♪国道34号線に貫通する様な形で濠を形成します☆多くの歴史詳細は不明ではありますが、集落内には千葉胤貞の子・千葉胤継 が開山したと伝えられる光旭寺が残ります☆
これは戦国初期は千葉氏の領域であった証拠でしょう☆この立石環濠には妙長寺、天満宮、光旭寺と3つに渡る寺社が存在しています☆寺社がある=栄えた証拠でしょうね☆
更に集落の近くには「千葉殿の森」と呼ばれる所がある様なのですが、イマイチ場所は特定出来ませんでした☆
この肥前千葉氏とは桓武平氏の末裔の一族で千葉氏の支族の一家となります♪
千葉氏は元々は下総国(現千葉県北部と茨城県西部)から元寇襲来時に九州の防衛(異国警固番役)の為に派遣されて、そのまま肥前国に土着しました☆
千葉宗胤を祖としていて肥前千葉氏と呼ばれます☆
この肥前千葉氏は室町時代に全盛期を迎えます♪この頃に日本を訪れた李氏朝鮮の使臣・申淑舟の著書の『海東諸国記』には肥前国の最大の勢力として千葉氏の名が挙がってます☆
戦国時代初期に肥前千葉氏は東西両家に分裂しちゃいます☆コレにより弱体化☆
少弐氏の介入を受け、その養子を当主として受け入れる事を余儀なくされるほど衰退しちゃいました☆
龍造寺氏に攻め込まれて少弐氏が滅亡した時には東千葉家の当主・千葉胤頼は実兄の少弐冬尚と共に自刃☆残った西千葉家は龍造寺氏に仕えていて、その部将として活動しました♪
龍造寺隆信の死後(沖田畷の戦い)は龍造寺家の後を任され実権を握った鍋島直茂が一時期、西千葉家の千葉胤連の養子だった縁もあり重用され江戸時代には鍋島姓を与えられて佐賀藩に家老として仕えました☆
この肥前国の元寇襲来後の歴史は肥前千葉氏無くして語れません♪
肥前千葉氏の分家としては…肥前石井氏、肥前徳島氏、鴨打氏、円城寺氏、江藤氏など戦国期に活躍した家柄を輩出しています☆それは江戸、明治を超えて現代にも生き抜かれています☆本当に凄い事ですね♪時代の流れを読み切り生き抜く強さは見習いたいものですね♪