古湯城(ふるゆじょう)
古湯城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 佐賀県佐賀市富士町大字古湯字五本松(古湯城山公園)
旧国名
- 肥前国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 原隼人
築城年
- 延元元年〔南朝〕/建武3年〔北朝〕(1336)
主な改修者
- -
主な城主
- 原隼人、古湯信濃守
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、石垣、物見台、堀切、竪堀
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
千葉城(佐賀県小城市)[8.1km]
小城城(佐賀県小城市)[9.6km]
三瀬城(佐賀県佐賀市)[12.5km]
帯隈山神籠石(佐賀県佐賀市)[13.5km]
高木城(佐賀県佐賀市)[13.8km]
雷山神籠石(福岡県糸島市)[13.9km]
二丈岳城(福岡県糸島市)[14.2km]
勢福寺城(佐賀県神埼市)[14.8km]
陣の森城(佐賀県小城市)[15.4km]
鬼ヶ城(佐賀県唐津市)[15.5km]
古湯城の口コミ情報
2025年05月10日 龍馬備中守【】
谷田城[古湯城 周辺城郭]
佐賀県佐賀市の富士町谷田にある【谷田城】♪熊の川温泉の北側、背後の山(標高309m)に城郭は立地しました♪
向かい(西方)には舞岳城や、同じく向かい(北西)に木山城、熊の川城、渓谷沿いを北に上がると畑瀬城、更に東側に松瀬城と、城郭が異様に密集します♪更に、谷田城から東の麓には、江戸時代初期に築かれた三反田代官所があり、山内への関門として、佐賀方面からの侵攻を阻むかの様に、防御陣が築かれている要衝地となっている場所です♪所謂、神代勝利が領した、山内への玄関口とも言えます♪
なお、熊の川城・畑瀬城・高橋城と谷田城は、神代氏四大直轄城の1つでありました♪谷田城は神代氏の出城で、小副川教実の居城とされます♪
九州治乱記には『神代勝利谷田没落の事』として『弘治3年(1557年)9月5日隆信、山内へ攻め入り、頃日神代勝利の居たりし谷田の城に取懸けらる。不意のことなりしかば勝利、取敢えず僅かの軍兵を以て打敷野へ出向い、佐嘉勢と相戦う。軍半ばと見えたりしに、隆信下知を加え、兵を引分けて東の方へ差回し、松瀬より仏坂を越え、環尾に至って峯伝に谷田の上の高山に登り、前後より一同にぞ攻められける。抑彼の谷田の城は、其地利無雙の要害にて、南は大河漲りて白浪岸を混し、北は、長山峨峨と峙ち、東西は一騎打の細道にて、左右の岩石剱の如し、かかる無雙の要害といえども、城中無下に無勢なりしによって、勝利意に防ぎ難く、城を遁れて筑前へ落行き、怡土郡に到り高祖城主原田入道了栄を頼み、長野という所に蟄居ありたり』とあります。龍造寺隆信に不意に攻められ、戦い、谷田城は落城し、高祖城の原田氏を頼った事が分かります。
藩政期になると、佐賀山内の旧神代領は佐賀本藩の蔵入地となり、山内代官の元に旧神代家の家臣を郷士に取り立てて直接支配しています。
旧佐賀郡山内郷の下小副川山村について、文化14年(1817年)郷村帳には、谷田、峯、中島、中村、長淵、鮎ノ瀬、大野原の地を含むと記載があります。
谷田城の縄張りとしては、山麓の谷田集落から背後の中腹山頂にかけて位置します。
主郭と思わしき削平地、副郭と思われる削平地と大きく2つの郭が確認出来ます。主郭と思われる削平地の標高は309mで数条の竪堀を配しています。また谷田集落の中には、『館』と呼ばれる字を残している場所が残ります。
2025年05月08日 龍馬備中守【】
古湯城
佐賀県佐賀市の富士町大字古湯字五本松にある【古湯城】♪ 歴史詳細が無い為、記載しておきます。
古湯温泉の背後の山を城山と呼びます♪
この城山(松城山)の標高417m城郭は立地しました♪貝野川・天川川との合流点に立地し、現在の富士町の中心地からは佐賀平野を望み、山麓は博多や唐津、佐賀に通じる、交通の要衝地でもありました♪
古湯城は阿蘇九郎惟成の家臣で、阿蘇大宮司家の一族とされる原隼人の居城と伝えられています♪延元元年(1336年)後醍醐天皇を擁した肥後の菊池武敏、阿蘇大宮司惟直とその弟である九郎惟成らは、筑前多々良浜(多々良浜の戦い)の時に足利尊氏の軍勢を迎え打つも、敗れ敗走。小城の千葉氏の領内へと逃れています。が、しかし寝返った千葉氏により阿蘇大宮司惟直は、白坂峠(小城、富士町の町境峠)にて戦死をしたと云われています。阿蘇九郎惟成も重傷を負うも、家臣の原隼人に背負われ、命からがら古湯に逃げ隠れたとされます。阿蘇九郎惟成の傷は古湯温泉の湯で回復し、この地に九郎堂を建立して永住したと伝えられます。現在も、原隼人の子孫と伝えられる古湯地区の原姓の人達により九郎神社の碑の前で九郎さん祭りが行われたりもしている様です♪
阿蘇九郎惟成の落人伝説は富士町の他にも七山村、浜玉町、厳木町など天山北麓にも伝説として残っていました♪また、古湯信濃守という人物も城主と伝わり、時代感は分かりませんが、地名から古湯氏を名乗った、在地領主筋なのでしょう。
その他、古湯城に関するモノとして天文14年(1545年)少弐冬尚の知行預状(杠家文書)には、『肥前国小城山之内、布類井八町之事預候、少モ相違儀於有之二者、別人二可申付也』とあり、少弐冬尚が竜造寺家兼を筑後に追って佐賀周辺の支配を一時的に手に入れ、山内にも手を伸ばしたことを物語り、布類井が古湯と考えられています。その後、龍造寺隆信が勢力を伸ばしますが、山内では神代勝利が勢力を持ち、山内をめぐり、龍造寺氏VS神代氏の争いが続きました。
原氏以降の山内は神代勝利が背振山地一帯を統一しました。畑瀬城で神代勝利の死後、息子の神代長良は龍造寺氏に降伏し、やがて鍋島氏の重臣となっています。鍋島直茂は神代党の結束を避ける為に慶長年間に神代家良を芦刈に転封させ、神代氏は当地を離れています。
後に神代氏は龍造寺氏の支配に属し藩政期になると古湯は一時、鍋島直茂の妻(陽泰院)の隠居地とされますが、(「鍋島直茂所領目録」杠家文書)小城藩の創設に伴い、小城藩の蔵入地となっています。古湯温泉は古くから湯治に利用され、近隣の百姓も利用したと記録されます♪
文化14年(1817年)郷村帳には、山崎・萱野・川崎の地を含んでいますが、萱野(貝野・茅野)は正保絵図や天保郷帳では独立した村として扱われ『茅野村』と記されています♪
古湯村内には、淀姫神社があって、祭神は河上神社(現大和町)と同じく豊玉姫命・海祇神ですが、小城藩主・鍋島元武が承応二年(1653年)に創建し、明治以後、振湯神・湯気神などを合祀しました♪向陽山竜泉寺の本尊は地蔵菩薩で、明暦元年(1655年)三岳寺の三世瑞岩順を開山として建立されました。古湯山太梅院は万寿寺(現大和町)の末寺で、17世紀後半の創立と伝わります。観世音菩薩を本尊とし、開山は庭翁。江戸時代には寺子屋が営まれていました♪
2025年05月06日 龍馬備中守【】
畑瀬城[古湯城 周辺城郭]
佐賀県佐賀市の富士町畑瀬にある【畑瀬城】♪肥前国、山内(神埼市・佐賀市・小城市の北部の山地一帯)を代表する戦国武将である神代勝利♪畑瀬城は、神代勝利の隠居城であります♪
この神代勝利は、三瀬を含む山内の豪族を束ねる人物となります♪山内二十六ヶ山(山内を治める26の豪族の意)は有名ですね♪
山岳戦を得意とし、龍造寺隆信とは因縁のライバルとされた神代勝利です。神代氏の始まりは武内宿禰の後裔とされていて、久留米にある高良大社の大宮司である、物部氏から分かれたと云われています。かつては熊代と書いたのを神代に改めており、高良大社に代々奉仕した名族となります♪父・神代宗元の代に没落し、肥前国の千布村に流れ着きました。神代勝利は幼い頃、肥前千葉氏の千葉興常に養われています♪
天文14年(1545年)少弐冬尚が龍造寺一族を謀殺する際の出来事です。馬場頼周と共に、少弐冬尚に弁明に向かう最中である龍造寺周家、家泰、頼純を、500余騎で取り囲んで殺害しています。土橋栄益が龍造寺隆信の失脚を謀った際にも、神代勝利は村中城攻めに協力しています。天文22年(1553年)龍造寺隆信は、追われた先である柳川から挙兵すると、神代勝利は八戸宗暘の八戸城へ入り防戦⚔️しかし打ち負け、龍造寺隆信と和睦した後に、自領である山内へ退きました。しかし、龍造寺隆信とは弘治元年(1555年)再び対立。神代勝利は龍造寺領へ放火するなど、抵抗を続けています。
永禄4年(1561年)龍造寺隆信は神代勝利に対し、河上の地(現・川上峡)にて雌雄を決しようとの挑戦状を送り付けています。神代勝利はこれを受け、7千騎を率いて出陣するも、内通者が出て三男・神代周利が刺殺され、その陣は崩壊しています。これにより危難に陥った次男・神代種良が討ち死に、長男・神代長良を逃すべく奮戦した、江原石見守も捕えられて処されるなど、味方が悉く討ち負け、神代勝利は妻子と共に、波佐見へ逃れています。(川上峡合戦)
しかし、山内に残った家臣・中村壱岐守の手引きで、再び山内に復帰を果たします。永禄5年(1562年)納富信景の仲介により、神代長良の娘と、隆信の三男・家信の婚儀を約して和睦。
神代勝利は畑瀬の山中に城を構え隠棲、その3年後に膈(胃の周辺)の病により死去したと伝わります。
隠居所とした畑瀬には、畑瀬城があったとされ、神代勝利の墓や、菩提寺である宗源院があります♪城郭の遺構は、高圧鉄塔の建設で大半が消失。更に、麓にあったであろう居館跡なども、ダム建設により沈んでいます。
残る遺構は浅めですが堀切、主要部以外の削平地などが残ります。
嘉瀬川を挟んだ対岸には、西畑瀬地区があり、東西の畑瀬地区は、藩政期には東畑瀬が佐賀本藩領、西畑瀬が小城鍋島家(小城支藩)領に属し、昭和31年(1956年)旧富士村として合併するまで、佐賀郡小関村と小城郡南山村に分かれていました♪
2021年04月29日 しんこう
谷田城[古湯城 周辺城郭]
【指定史跡】なし
【遺構】曲輪、堀切、竪堀
【歴史】山内二十六ヶ山の総領・神代勝利が三瀬城とともに本拠としていた山城。三瀬氏の勧めに応じて三瀬城を居城とした後、小副川の谷田にこの谷田城を築いたらしい。南麓の現在福祉施設のある場所に館があったようで、この館の詰城として、谷田城が築城されたようです。
【感想】中央の竪堀を中心に東西にハの字に曲輪を展開しています。この竪堀には現在道路が通っていて一部埋められているようです。東側の曲輪は藪化していて奥まで入れず。西側は削平された曲輪に不明瞭な竪堀が二、三本あるくらい。
【案内】城の北側に林道が通じており、この林道から更にカーブミラーの場所から荒れた林道に入ると城を東西に分ける竪堀に到着します。
【写真】①③⑤城の東西を分ける竪堀②西曲輪の竪堀のひとつ④西曲輪の様子⑥城域に入る林道入口
2021年04月25日 しんこう
舞岳城[古湯城 周辺城郭]
【指定史跡】なし
【遺構】曲輪、虎口、石垣、土塁、堀切
【歴史】龍造寺隆信のライバル、山内二十六ヶ山の総領・神代勝利ゆかりのお城です。神代氏の重要な山内七山のひとつ小副川山の城とみられているようです。史書には春日山城攻防戦の際に神代勝利が本陣にしたとあり、龍造寺氏の侵攻にあわせて整備されたのではないかと考えられているようです。(佐賀県の中近世城館 第2集: 各説編1(三養基・神埼・佐賀地区) (佐賀県教育委員会)より)
【感想】舞岳城の北側に木山城、東側に谷田城が配され、更に北側奥にある三瀬城や畑瀬城へ向かうルートに睨みを利かす重要な場所に築城されているようです。舞岳城は東西70m、南北26mほどの楕円形の曲輪を高さ1mから2.5mの土塁でぐるりと囲っています。この土塁の規模は三瀬城には及ばないものの相当の土木量で重要な城であることが伺えます。面白いことに舞岳城のすぐ北側にある木山城は目立つ土塁は無く総石垣作りであり、近くにありながら対照的な作りをしています。また堀切・土橋が随所にあり見どころの一つです。
【案内】木山城同様に山深い場所にありますが、近くに林道が通じているので多少ガマンすれば登城することができます。城の北西あたりまで林道が通じているので、城の北西に延びている尾根に沿って進むと城に到着できます。ただ、この尾根に乗るまでの道を見つけきれず倒木など荒れた斜面を登り尾根に取り付きました。
【写真】
①主郭南の高土塁②主郭東の低めの土塁③主郭北西の虎口④主郭東の低めの土塁
2021年04月24日 しんこう
木山城[古湯城 周辺城郭]
【指定史跡】なし
【遺構】曲輪、石垣、土塁、堀切、竪堀
【歴史】龍造寺隆信のライバル、山内二十六ヶ山の総領・神代勝利ゆかりのお城です。明確に本城を示す文献は無いようですが、永禄5年(1562年)に龍造寺隆信との和議が成された後、勝利の嫡男長良に家督を譲り畑瀬城に隠居する前後に築城されたものと考えられているようです。
【感想】大野原集落の南西にある木山の山頂にあり、概ね20m×23mの主郭に加えて東側に2,3の段曲輪が付属する小規模なお城です。見どころは主郭塁面に残る石積で、現状崩落著しいですが往時は総石垣作りだったようです。また、主郭西下には自然地形に手を入れたと思われる大堀切が残されています。大堀切周辺には多くの竪堀がみられます。
【案内】城の南側に林道が通じており、林道からの道は無く林道から登れそうな谷部を見つけて登りました。途中テープが巻かれている木々があったので植林や間伐などを行うために登るルートがあるのかもしれません。城周辺までは草木で足元が悪く難儀したのですが、往時総石垣作りであった主郭遺構を見たい方は行かれてはいかがでしょうか。また、雑木林で視界の悪い低山はけっこう迷うのでGPSを装備した地図をお勧めします。
【写真】①主郭南東の石垣②主郭北東の石垣③主郭南東の石垣④主郭西下の堀切⑤主郭西側の斜面に残された大岩⑥主郭西の虎口?
2021年03月13日 龍馬備中守【】
大野代官所[古湯城 周辺城郭]
佐賀県の佐賀市にある大野代官所☆福岡藩や唐津藩に通じる交通の要衝地で神水川流域左岸に位置してます☆
築城年は不明です☆国内情勢が不安定になっていた事により設置されたのでしょう☆
江戸時代は山内郷に属していました♪佐賀藩領でしたが鍋島元茂が小城支藩の初代藩主となった際に佐賀藩より分知され小城藩領と独立して行きます♪
石垣は石材を斜めに落とし配置する「谷落とし積み」を意識した積み方で築かれていて高石垣の勾配は、上部の石材になるほど徐々に急になっていきます☆石垣と石段のみが残ってます☆
2021年03月12日 龍馬備中守【】
三反田代官所[古湯城 周辺城郭]
佐賀県の佐賀市にある三反田代官所☆三反田は佐賀と筑前(福岡)、佐賀、浜崎に至る交通の要衝地となって江戸時代の往時から人家が立ち並び、宿場として山内では最も繁栄していました☆ここに三反田代官所が置かれ高札場もありました☆
戦国時代にはここは神代勝利の支配地でした☆佐嘉の龍造寺隆信と何度も合戦☆結果的に龍造寺領になった場所です☆龍造寺隆信、鍋島直茂、鍋島勝茂と藩主が代っても相変わらず山内領民は神代を慕って佐賀藩に対し従順でない所があった様で佐賀藩庁では山内をうまく支配できる人物の派遣が先決だと考えます☆往時21歳だった鍋島舎人(常貞)に決定して行きます☆鍋島舎人(常貞)は松瀬に屋敷を構え山内代官として善政を行ない手腕を発揮していきます☆山内の郷民は彼を慕って主人の様に仕え佐賀藩へも従っていく様になりました♪
現在は石積み石垣がしっかり残ってます☆