畑瀬城

畑瀬城([古湯城  周辺城郭])

古湯城 に投稿された周辺スポット(カテゴリー:周辺城郭)、「畑瀬城」の地図・口コミがご覧頂けます。

「ニッポン城めぐり」アプリでは、スタンプラリースポットとなっている3,000城それぞれの地図に、周辺城郭や史跡など、様々な関連スポットを自由に追加できます。

畑瀬城の口コミ情報

2025年05月06日 龍馬備中守【】


佐賀県佐賀市の富士町畑瀬にある【畑瀬城】♪肥前国、山内(神埼市・佐賀市・小城市の北部の山地一帯)を代表する戦国武将である神代勝利♪畑瀬城は、神代勝利の隠居城であります♪

この神代勝利は、三瀬を含む山内の豪族を束ねる人物となります♪山内二十六ヶ山(山内を治める26の豪族の意)は有名ですね♪

山岳戦を得意とし、龍造寺隆信とは因縁のライバルとされた神代勝利です。神代氏の始まりは武内宿禰の後裔とされていて、久留米にある高良大社の大宮司である、物部氏から分かれたと云われています。かつては熊代と書いたのを神代に改めており、高良大社に代々奉仕した名族となります♪父・神代宗元の代に没落し、肥前国の千布村に流れ着きました。神代勝利は幼い頃、肥前千葉氏の千葉興常に養われています♪

天文14年(1545年)少弐冬尚が龍造寺一族を謀殺する際の出来事です。馬場頼周と共に、少弐冬尚に弁明に向かう最中である龍造寺周家、家泰、頼純を、500余騎で取り囲んで殺害しています。土橋栄益が龍造寺隆信の失脚を謀った際にも、神代勝利は村中城攻めに協力しています。天文22年(1553年)龍造寺隆信は、追われた先である柳川から挙兵すると、神代勝利は八戸宗暘の八戸城へ入り防戦⚔️しかし打ち負け、龍造寺隆信と和睦した後に、自領である山内へ退きました。しかし、龍造寺隆信とは弘治元年(1555年)再び対立。神代勝利は龍造寺領へ放火するなど、抵抗を続けています。

永禄4年(1561年)龍造寺隆信は神代勝利に対し、河上の地(現・川上峡)にて雌雄を決しようとの挑戦状を送り付けています。神代勝利はこれを受け、7千騎を率いて出陣するも、内通者が出て三男・神代周利が刺殺され、その陣は崩壊しています。これにより危難に陥った次男・神代種良が討ち死に、長男・神代長良を逃すべく奮戦した、江原石見守も捕えられて処されるなど、味方が悉く討ち負け、神代勝利は妻子と共に、波佐見へ逃れています。(川上峡合戦)

しかし、山内に残った家臣・中村壱岐守の手引きで、再び山内に復帰を果たします。永禄5年(1562年)納富信景の仲介により、神代長良の娘と、隆信の三男・家信の婚儀を約して和睦。
神代勝利は畑瀬の山中に城を構え隠棲、その3年後に膈(胃の周辺)の病により死去したと伝わります。

隠居所とした畑瀬には、畑瀬城があったとされ、神代勝利の墓や、菩提寺である宗源院があります♪城郭の遺構は、高圧鉄塔の建設で大半が消失。更に、麓にあったであろう居館跡なども、ダム建設により沈んでいます。
残る遺構は浅めですが堀切、主要部以外の削平地などが残ります。
嘉瀬川を挟んだ対岸には、西畑瀬地区があり、東西の畑瀬地区は、藩政期には東畑瀬が佐賀本藩領、西畑瀬が小城鍋島家(小城支藩)領に属し、昭和31年(1956年)旧富士村として合併するまで、佐賀郡小関村と小城郡南山村に分かれていました♪

「ニッポン城めぐり」を始めるには?

「ニッポン城めぐり」は、iPhone・androidの両アプリに対応。
利用料金は無料!いますぐ城めぐりを始めてみよう!

スマートフォンからのアクセス方法

app store app store  ■iPhone
 AppStore で「ニッポン城めぐり」を検索。

google play ■Android
 Google play で「ニッポン城めぐり」を検索。

スマホを持って城をめぐろう!スマホでお城スタンプラリーゲーム「ニッポン城めぐり」 ニッポン城めぐりとは? GooglePlay Appstore