谷田城
谷田城([古湯城 周辺城郭])
古湯城 に投稿された周辺スポット(カテゴリー:周辺城郭)、「谷田城」の地図・口コミがご覧頂けます。
※「ニッポン城めぐり」アプリでは、スタンプラリースポットとなっている3,000城それぞれの地図に、周辺城郭や史跡など、様々な関連スポットを自由に追加できます。
谷田城の口コミ情報
2025年05月10日 龍馬備中守【】
佐賀県佐賀市の富士町谷田にある【谷田城】♪熊の川温泉の北側、背後の山(標高309m)に城郭は立地しました♪
向かい(西方)には舞岳城や、同じく向かい(北西)に木山城、熊の川城、渓谷沿いを北に上がると畑瀬城、更に東側に松瀬城と、城郭が異様に密集します♪更に、谷田城から東の麓には、江戸時代初期に築かれた三反田代官所があり、山内への関門として、佐賀方面からの侵攻を阻むかの様に、防御陣が築かれている要衝地となっている場所です♪所謂、神代勝利が領した、山内への玄関口とも言えます♪
なお、熊の川城・畑瀬城・高橋城と谷田城は、神代氏四大直轄城の1つでありました♪谷田城は神代氏の出城で、小副川教実の居城とされます♪
九州治乱記には『神代勝利谷田没落の事』として『弘治3年(1557年)9月5日隆信、山内へ攻め入り、頃日神代勝利の居たりし谷田の城に取懸けらる。不意のことなりしかば勝利、取敢えず僅かの軍兵を以て打敷野へ出向い、佐嘉勢と相戦う。軍半ばと見えたりしに、隆信下知を加え、兵を引分けて東の方へ差回し、松瀬より仏坂を越え、環尾に至って峯伝に谷田の上の高山に登り、前後より一同にぞ攻められける。抑彼の谷田の城は、其地利無雙の要害にて、南は大河漲りて白浪岸を混し、北は、長山峨峨と峙ち、東西は一騎打の細道にて、左右の岩石剱の如し、かかる無雙の要害といえども、城中無下に無勢なりしによって、勝利意に防ぎ難く、城を遁れて筑前へ落行き、怡土郡に到り高祖城主原田入道了栄を頼み、長野という所に蟄居ありたり』とあります。龍造寺隆信に不意に攻められ、戦い、谷田城は落城し、高祖城の原田氏を頼った事が分かります。
藩政期になると、佐賀山内の旧神代領は佐賀本藩の蔵入地となり、山内代官の元に旧神代家の家臣を郷士に取り立てて直接支配しています。
旧佐賀郡山内郷の下小副川山村について、文化14年(1817年)郷村帳には、谷田、峯、中島、中村、長淵、鮎ノ瀬、大野原の地を含むと記載があります。
谷田城の縄張りとしては、山麓の谷田集落から背後の中腹山頂にかけて位置します。
主郭と思わしき削平地、副郭と思われる削平地と大きく2つの郭が確認出来ます。主郭と思われる削平地の標高は309mで数条の竪堀を配しています。また谷田集落の中には、『館』と呼ばれる字を残している場所が残ります。
2021年04月29日 しんこう
【指定史跡】なし
【遺構】曲輪、堀切、竪堀
【歴史】山内二十六ヶ山の総領・神代勝利が三瀬城とともに本拠としていた山城。三瀬氏の勧めに応じて三瀬城を居城とした後、小副川の谷田にこの谷田城を築いたらしい。南麓の現在福祉施設のある場所に館があったようで、この館の詰城として、谷田城が築城されたようです。
【感想】中央の竪堀を中心に東西にハの字に曲輪を展開しています。この竪堀には現在道路が通っていて一部埋められているようです。東側の曲輪は藪化していて奥まで入れず。西側は削平された曲輪に不明瞭な竪堀が二、三本あるくらい。
【案内】城の北側に林道が通じており、この林道から更にカーブミラーの場所から荒れた林道に入ると城を東西に分ける竪堀に到着します。
【写真】①③⑤城の東西を分ける竪堀②西曲輪の竪堀のひとつ④西曲輪の様子⑥城域に入る林道入口