雷山神籠石(らいざんこうごいし)
雷山神籠石の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 福岡県糸島市雷山、飯原
旧国名
- 筑前国
分類・構造
- 神籠石式山城
天守構造
- なし
築城主
- 不明
築城年
- 7世紀中期?
主な改修者
- -
主な城主
- 不明
廃城年
- 不明
遺構
- 水門、列石
指定文化財
- 国史跡(雷山神籠石)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
高祖城(福岡県糸島市)[7.1km]
三瀬城(佐賀県佐賀市)[7.4km]
曲渕城(福岡県福岡市)[7.6km]
怡土城(福岡県糸島市)[7.7km]
飯盛山城(福岡県福岡市)[8.5km]
二丈岳城(福岡県糸島市)[8.7km]
親山城(福岡県糸島市)[10.3km]
荒平城(福岡県福岡市)[12.4km]
元寇防塁(福岡県福岡市)[12.7km]
小田部城(福岡県福岡市)[12.7km]
雷山神籠石の解説文
[引用元:Wikipedia「雷山神籠石」の項目]
雷山神籠石(らいざんこうごいし)は、筑前国怡土郡の雷山中腹(現在の福岡県糸島市雷山・飯原)にあった日本の古代山城(分類は神籠石系山城)。城跡は国の史跡に指定されている。
近年は「雷山城(らいざんじょう)」とも称される傾向にある[1][2][3][4]。
概要
福岡県の西部、雷山(標高955メートル)の北側斜面中腹(標高400-480メートル)の棚状の谷に築城された古代山城である[5]。文献に記載が見えない古代山城(いわゆる神籠石系山城)の1つで、現在の山名を冠する城名は後世の命名による。城は南から北へ流れる谷の南側・北側を水門・列石でさえぎる形で構築されるが、これまでに発掘調査は実施されていない。
城跡域は1932年(昭和7年)に国の史跡に指定されている。
歴史
雷山城は文献上に記載のない城であるため、城名・築城時期・性格等は明らかでない[6]。天智天皇2年(663年)の白村江の戦い頃の朝鮮半島での政治的緊張が高まった時期には、九州地方北部・瀬戸内地方・近畿地方において古代山城の築城が見られており、雷山城もその1つに比定される。立地としては、雷山から北に突き出す尾根上に位置するため、糸島半島ひいては広く博多湾・玄界灘を一望する場所になる。現在では遺構は「筒城」とも称されるが、その所伝は詳らかでない。
なお糸島地方では、『続日本紀』文武天皇3年(699年)12月条に見えるが所在不明の古代山城である「稲積城」について、可也山または火山に比定する説がある[7]。また奈良時代の天平勝宝8歳(756年)-神護景雲2年(768年)には怡土城の築城が知られるが、その際には高祖山に選地されている。この怡土城の機能時期に、雷山神籠石が烽火として機能したとする説もある。
遺構
城域は東西300メートル・南北700メートル。雷山の北側斜面を南から北へ流れる谷筋において、南北2ヶ所(間隔約730メートル)の谷部を城壁で遮る形で構築される。現在はその間にため池(不動池)がある。多くの古代山城では城壁が山頂を取り込む形で山を一周して巡らされるが、雷山城では城域に山頂を含まず、かつ城壁が1つの谷を2度横切る点が特色となる[8]。遺構の詳細は次の通り。
- 城壁
- 谷の南北2ヶ所を遮る形で構築される。2ヶ所とも川筋は石塁の水門とし、その水門の東西両側において、ハの字形に開きながら斜面を上る列石線が認められている。列石線の全容は明らかでなく、斜面を上ったあとの丘頂外側に想定される列石は未だ確認されていない。これらの列石は土塁裾部の土留め石とされ、列石線は直線を1単位としてその直線が屈折しながら連続する「折構造」をとる。
- 北水門
- 谷の北側(下流側/排水口)、尾根先端部の崖面上に位置する()。石塁で、長さ12メートル・幅10メートル・高さ3メートルを測り、現在も良好に遺存する。切石の布積によって構築され、底部に3ヶ所の水樋(暗渠)を設けて排水する。
そのほか、南水門付近において城門跡と推定される列石の切れ目が2ヶ所認められている。
- 南水門
- 谷の南側(上流側/入水口)、2渓谷の合流部に位置する()。現在は大きく崩壊しているが、2つの川筋に対して2種類の水門を設けたと推測される。東側の川筋においては、北水門同様の石塁・水樋の形式とされる。西側の川筋においては、土塁の基底部に暗渠を設ける形式であったとされるが(鹿毛馬神籠石などに類例)、現在では上層の土塁は流失して暗渠部分のみが認められる。
文化財
国の史跡
- 雷山神籠石 - 1932年(昭和7年)3月25日指定。
現地情報
所在地
- 福岡県糸島市雷山・飯原
交通アクセス
- バス:コミュニティバス(雷山線)で「雷山観音前」バス停下車(下車後徒歩約40分)
関連施設
- 伊都国歴史博物館(糸島市井原)
周辺
- 雷神社
- 千如寺
参考文献
- 史跡説明板(糸島市教育委員会設置)
- 地方自治体発行
- 【書籍】「新修志摩町史 上巻」
- 事典類
- 【書籍】「国史大辞典 (昭和時代)」
- 【書籍】「日本歴史地名大系 41 福岡県の地名」
- 【書籍】「国指定史跡ガイド」 - リンクは朝日新聞社「コトバンク」。
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雷山神籠石の口コミ情報
2024年08月08日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
旗振嶺城[雷山神籠石 周辺城郭]
福岡県糸島市にある【旗振嶺城】♪福岡県糸島市と佐賀県佐賀市の境にある、雷山(標高954m)の北側斜面中腹(417m付近)に立地した、コチラは中世の山城となります♪
雷山神籠石の西の山(旗振山)♪コレが城郭です♪ピークには三角点があり、この場所が主郭か?単郭に見えなくは無いが、南北に削平地を付けています♪北向きには大堀切を構え、防御に力を入れています♪旗振山の下には雷山神籠石があり、その直ぐ東側も削平地があります♪雷山神籠石を挟み、西と東で郭を展開していたのかもしれません♪糸島の大半を遠望出来る、景勝の地となります♪
この城郭は筒城の物見の砦と伝わります♪
筒城とは、実は雷山神籠石を利用して築城されたものと思われ、城跡遺構は不明となりますが、雷山神籠石の一帯を筒原と呼んでいて、付近一帯が筒城となります♪
中世は高祖山城の原田氏の領有するエリアである糸島ですが、この城郭は原田氏の家臣である西重国が城代として拠っていました♪
天文22年(1553年)高祖山城が落城し、原田氏の勢力が衰えると、西重国は豊後国の大友氏に従い、旧主である原田氏に不得の態度を示しています。長石にある宝珠岳城主・西左近鎮兼は西重国の兄弟ですが、宝珠岳城を原田隆種によって落とされています。その際に逃れたのが筒城で、原田氏の軍勢に攻められて、遂には旗振嶺城にて割腹し果てています。。
コレは永禄10年(1567年)の出来事ですが、原田氏の高祖山城からは、納富氏、深江氏の両将を大将とし近藤左近、得永弥五郎を副将として、500余騎で筒城を攻めています。
西重国は肥前の龍造寺氏に援軍を願い出るも間に合わず、筒城も一夜にして落城しています。この戦いで、双方150名余の戦死者を出し、不動滝は真赤に染ったと云われます。
西重国は、山越しに逃れる途中、筑後高良山の麓で清原左近、大神甚太らの追手に討たれてしまいました…。コレにより西氏は滅亡しています。。
付近には雷神社(神宮)が鎮座します♪古来、女人の参拝を許さなかった場所となります♪境内に天然記念物の千年杉や樟の大木が残ってます♪この雷神社は暦応5年(1342年)九州探題の一色範氏から、雨乞い祈祷の催促文や、足利尊氏の庶子、足利直冬が参詣し、雨乞い祈願しています♪また天平15年(1587年)筑前領主になった小早川隆景が6石を寄進しました♪後の福岡藩の黒田忠之、黒田継高からの寄進で26石に回復しています♪
2019年10月12日 徳にぃ図書頭銀座のすずめ
雷山神籠石
糸島市内から564号線を南進。雷神社(駐車場とトイレ有り)を道なりに右折して進むと「雷山神籠石」の標識がある所を右折。右折後は未舗装道路になります。この道が通行止めの場合は、ここから歩きになりますが片道1300m位?。大きなアップダウンもなく散歩感覚で行けます。
車で行ける場合、ワンボックス車は垂れ下がり木々に当たるかも。神籠石のある池の南側にも北側にも駐車スペース(駐車場ではありません!)があります。不動池は透明度高く、歩いても清々しいですよ。
2014年09月07日 筑前守とんかつ
雷山神籠石
雷山の中腹、不動池のほとりにある。不動池を挟んで北水門と南水門があり、その距離は約800m。北水門の所には、「筒城神社跡」の碑が立てられている。鳥居も残っている。
2012年08月26日 アヴァンシア琉球守xoxo
雷山神籠石
ためぞう様の口コミ通りでした!
7割位はコンクリートの山道でしたから、比較的登り易かったけど途中で猪の親子に遭遇しました
(๑⊙_⊙๑)
2011年12月21日 大宰少弐ためぞう
雷山神籠石
ほぼ山登りです。うかつに行こうとすると大変なことになります。しっかり準備して行きましょう。ふくらはぎに自信がない人はあきらめましょう。
雷山神籠石の周辺スポット情報
旗振嶺城(周辺城郭)