元寇防塁(げんこうぼうるい)

元寇防塁の基本情報

通称・別名

石築地(いしついじ)

所在地

福岡県福岡市西区生の松原(地図は生の松原元寇防塁を示す)

旧国名

筑前国

分類・構造

防塁

天守構造

なし

築城主

鎌倉幕府

築城年

建治2年(1276)

主な改修者

主な城主

鎌倉幕府九州御家人

廃城年

遺構

石垣

指定文化財

国史跡(元寇防塁)

再建造物

石垣、石碑、説明板

周辺の城

姪浜城(福岡県福岡市)[3.0km]
北浦城(福岡県福岡市)[3.8km]
小田部城(福岡県福岡市)[3.9km]
怡土城(福岡県糸島市)[4.6km]
高祖城(福岡県糸島市)[5.0km]

元寇防塁の解説文

元寇防塁(げんこうぼうるい)は、鎌倉時代に北部九州の博多湾沿岸一帯に築かれた石による防塁。蒙古襲来(元寇)に備えて築かれた。弘安の役の際には防塁が築かれたところからはモンゴル・高麗軍は一切上陸することが出来なかった。昭和六年(1931年)に国の史跡に指定。

「元寇防塁」は中山平次郎の命名で、石築地(いしついじ)が本来の呼び名である。

計画
文永11年(1274年)に元による侵攻(文永の役)を受けた鎌倉幕府は本格的な異国警護に着手し、翌建治2年(1276年)に異国征伐として高麗出兵を計画し、平行して石築地を築造させ、元による再襲来に備えた。

築造
築造は国ごとに区域を定め、大隅国の石築地賦役文書に拠れば、武家領や本所一円地を問わずに田1反あたり1寸の割合で石築地役が賦課されたという。弘安4年(1281年)の弘安の役までには一部が完成しており、元軍は博多への上陸を断念して、志賀島に船団を停泊させたという。弘安の役の後も元による再襲来に備えて異国警護体制は持続し、工事や破損箇所の修復が負荷された。工事は鎌倉幕府滅亡の前年にあたる元弘2年(1332年)まで行われている。九州の御家人竹崎季長の描かせた『蒙古襲来絵詞』には、建築当時の姿が描かれている。

構造
高さ・幅は平均して2メートルある。総延長は、西の福岡市西区今津から東の福岡市東区香椎までの約20キロメートルに及ぶというのが定説になっている。内部には小石を詰め、陸側に傾斜を持たせて海側を切り立たせている。築造を担当した国により、構造に違いがある。

現存する元寇防塁
防塁は弘安の役以降も数十年間にわたり維持・修理されていたが、のちに管理されなくなり砂に埋もれていった。江戸時代の福岡城築城の際に、石垣の石として防塁の大半が失われたと考えられている。

1913年(大正2年)に中山平次郎が福岡日日新聞に『元寇防塁の価値』という論説を発表する。「元寇防塁」という呼称はこのときに中山が独自につけたものであるが、これ以降、この呼称が定着していくことになる。

防塁が一部現存する以下の場所は1931年(昭和6年)3月30日に国の史跡に指定された(1981年(昭和56年)3月16日に一部追加指定。博多地区は未指定)。一部の場所では、石塁が露出した状態で見学できるようになっている。

なお、現在は埋め立てなどにより鎌倉時代当時よりも海岸線が沖へ延びているため、海岸から遠く離れた内陸部に位置する元寇防塁跡もある。...

元寇防塁の口コミ情報

我流尾張守クール様[2018年09月22日]
生の松原元寇防塁跡
JR下山門駅から徒歩10分程度です。
駐車場は近くには見当たりませんでした。
生の松原森林公園を抜け、唐津街道を渡ると右手に国史跡の石碑が出迎えてくれます。駅から案内板が各所にありますので迷うことはないと思います。
元寇防塁と命名されたのは昭和に入ってからだそうです。
着た道を戻らずに海岸線を歩き、姪浜駅までは30分程度かかります。

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