福岡城(ふくおかじょう)

福岡城の基本情報

通称・別名

舞鶴城、石城

所在地

福岡県福岡市中央区城内

旧国名

筑前国

分類・構造

梯郭式平山城

天守構造

不明(天守台あり)

築城主

黒田長政

築城年

慶長6年(1601)

主な改修者

黒田長溥

主な城主

黒田氏

廃城年

明治4年(1871)

遺構

曲輪、櫓4棟、門3棟、石垣、天守台、横堀(水堀)

指定文化財

国重要文化財(南丸多聞櫓)、国史跡(福岡城跡)、県有形文化財(潮見櫓・大手門・祈念櫓)、市文化財(名島門)

再建造物

二の丸北隅櫓、大手門、石碑、説明板

周辺の城

波奈台場(福岡県福岡市)[1.5km]
須崎台場(福岡県福岡市)[2.0km]
姪浜城(福岡県福岡市)[4.4km]
古野城(福岡県福岡市)[5.1km]
小田部城(福岡県福岡市)[5.2km]
元寇防塁(福岡県福岡市)[6.9km]
北浦城(福岡県福岡市)[7.3km]
名島城(福岡県福岡市)[7.8km]
稲居塚城(福岡県福岡市)[8.1km]
荒平城(福岡県福岡市)[8.6km]

日本100名城・続日本100名城スタンプ情報

番号・名称

85 福岡城

設置場所

福岡城むかし探訪館[地図
三の丸スクエア[地図
鴻臚館跡展示館[地図

福岡城の解説文



概要 

江戸時代初頭、関ヶ原の戦いで功績のあった外様大名の黒田長政が、警固村福崎の丘陵地に築いた城である[1]。以降、明治まで福岡藩黒田氏の居城となった。築城の際に、黒田家ゆかりの地である備前国福岡(現在の岡山県瀬戸内市長船町福岡)の地名にちなみ福崎を「福岡」と改めた[2][3]。普請奉行は野口佐助一成である[4]。城地となった警固村福崎は、古くから商人の町として栄えていた博多の西側に位置する[5]

現在、城跡の主要部分は国の史跡に指定され、舞鶴公園と大濠公園となっている。城跡には現存櫓や移築された櫓や城門、復元された櫓や城門が点在し、南二の丸多聞櫓とそれに続く南二の丸南隅櫓は国の重要文化財に、伝潮見櫓・大手門(下の橋大手門・渦見門)・移築復元の祈念櫓・母里太兵衛邸長屋門が福岡県指定文化財に、名島門が福岡市文化財にそれぞれ指定されている。また、南二の丸多聞櫓に続く北隅櫓が復元されている。なお、平和台球場跡から出土した国史跡鴻臚館跡がある三の丸跡は二重史跡である。

毎年春には「福岡城さくらまつり」や「おおほりまつり」が開催され、光雲神社から城跡まで黒田孝高、黒田長政、黒田二十四騎に扮した有名人などの勇壮なパレードも行われる。二の丸の鴻臚館広場にて演武なども行われる。[6]

歴史・沿革 

安土桃山時代・江戸時代

1600年(慶長5年) - 黒田孝高・長政父子は関ヶ原の戦いの功績により豊前国中津16万石から、筑前一国52万3千石で筑前名島に入封した。筑前の旧領主小早川秀秋の居城であった名島城[7]に入城した。便宜上から名島城を廃し、福崎丘陵を新城地に選定した。1601年(慶長6年)には築城が開始され、7年後の1607年(慶長12年)に竣工した。

江戸期には歴代の藩主により二の丸御殿や西の丸御殿の増築など数度の改修が行われたが、特に幕末の嘉永・万延年間に、11代藩主、黒田長溥により大改修が行われた。

近現代

  • 1871年(明治4年) - 廃藩置県により旧下屋敷に福岡県庁が置かれる。
  • 1873年(明治6年) - 廃城令発布により存城処分となり、第6軍官に属する。その後多くの建造物が解体され、一部は移築された。
  • 1902年(明治35年) - 床下にあった火薬が爆発し鉄物櫓が焼失する。
  • 1920年(大正9年) - 祈念櫓が北九州市八幡東区の大正寺に観音堂として移築された。1983年には再び元の地に移築された。
  • 1945年(昭和20年) - 黒田家別邸に移築されていた本丸武具櫓が福岡大空襲で焼失
  • 1952年(昭和27年)に潮見櫓、1957年に祈念櫓、1961年に大手門・旧母里太兵衛邸長屋門がそれぞれ福岡県文化財に指定された。
  • 1957年(昭和32年)8月29日 - 城跡が国の史跡に指定された。
  • 1971年(昭和46年) - 南二の丸多聞櫓が国の重要文化財に指定された[8]
  • 1987年(昭和62年) - 三の丸、平和台球場一帯から平安時代の外交施設である鴻臚館の遺構が発見された。
  • 2000年(平成12年) - 不審火により下の橋大手門の一部を焼失する。修復工事がおこなわれ、2008年11月1日に一般公開された。
  • 2006年(平成18年)4月6日 - 日本100名城(85番)に選定された。
  • 2013年(平成25年)- 福岡市の中心部にある城跡を中心とする大規模な歴史緑地公園『福岡セントラルパーク構想』に基づき、城内建造物復元や緑地の整備がスタート。
  • 2014年(平成26年)- 廃校となった舞鶴中学校跡地に、福岡城の整備復元を目指す展示拠点施設『福岡城・鴻臚館案内処・三の丸スクエア』が福岡市により開設された。
  • 2016年(平成28年)- 重要文化財である南二の丸多聞櫓を修理。
  • 2018年(平成30年)- 三の丸家老屋敷跡にあった高等裁判所等が移転、跡地の発掘調査後はセントラルパーク構想に基づき、広場や駐車場として活用予定。

構造 

梯郭式の平山城で、本丸の南西に南丸(南二の丸)、北東隅に同じような規模で東二の丸、この2つを結ぶようにして囲む二の丸、二の丸の西から北東に三の丸が囲む配置であった。建物は47基の櫓や10棟の城門を配し、縄張りの範囲は約24万平方メートルにおよぶ[9]。東側に那珂川をもって堀とし高石垣を南北に長く築き、また西側は干潟の「草ヶ江」を大きな池沼堀として活用した。城下町は城の北側(博多湾側)に東西に長く開かれた。

福岡市は2013年(平成25年)、舞鶴公園と大濠公園の周辺をセントラルパークのように大規模な公園とする『福岡セントラルパーク構想』を発表した。本丸・二の丸・三の丸は20年から30年の長期計画で城跡の復元整備を行っていく予定としている。

本丸

本丸にあった建造物の中で資料が多く残されている本丸表御門・太鼓櫓・武具櫓・本丸裏御門・本丸御殿について福岡市は「調査検討を行った上で、復元整備対象とする」とし、特に本丸表御門と太鼓櫓については「復元の可能性が高い」としている[10]

天守台
大天守台・中天守台・小天守台の3つからなる連立式の天守台。大天守台は東西約25メートル、南北約22メートルの大きさで、東側に中天守台と小天守台が連なる。

天守台周辺の発掘調査では瓦片の出土があり、天守台に建物があったことは確実視されているが、天守が存在したという事実は確認されていない[11]。従来の通説では、1646年(正保3年)に作成された福岡城を描いた最古の絵図『福博惣絵図』には天守は描かれていないため、幕府への遠慮から天守は造築されなかったとされていたが、近年になって、当時豊前国小倉藩主であった細川忠興が、三男で次期藩主の忠利へ宛てた1620年(元和6年)3月16日付の手紙に「黒田長政が幕府に配慮し天守を取り壊すと語った」[12]と天守の存在を窺わせる記述が発見されたことによって、天守があった可能性が示されている。天守の解体を語ったとされるこの当時は、徳川氏の大坂城普請に諸大名が築城に駆り出されたことから、天守を解体し築城資材として投入することによって幕府の信任を得ようとしたと言う説も上がっている。1593年(文禄2年)に没した小河信章の跡を継いだ小河之直へ長政が発した3月3日付書状に、天守の欄干が腐った旨の記述があるが、これが福岡城を指すのか、それ以前の居城である中津城を指すのかは不明である。

福岡城や鴻臚館の整備・活用を趣旨とするNPO法人「鴻臚館・福岡城跡歴史・観光・市民の会」は、石垣や礎石から割り出した5重天守の想像図面を作成し、本格的木造建築による再建にむけて運動を展開した。

福岡市は、歴史資料が不足しているため天守の復元は困難との見解を福岡市議会にて示している。

祈念櫓
祈念櫓(きねんやぐら)は、本丸の東北隅に鬼門封じを祈念するために建てられた櫓で、棟札によると1860年(万延元年)3月に起工し、同年10月に竣工した[13]
1918年(大正7年)、黒田家の菩提寺である崇福寺が払下げを受け、末寺である大正寺(北九州市八幡東区)の境内に移築し観音堂として使用していた。1983年(昭和58年)、本来の位置に再移築され、翌年9月竣工した。福岡県指定文化財に指定されている。
大正寺への移築前に撮影された古写真が残されており、当時は下見板張りで白漆喰の壁を持ち、軒先を方杖と軒桁で支える外観だったことが分かっている。現在の祈念櫓とは外観が顕著に異なるため、大正寺への移築時に大幅な改変を受けたと考えられている。
石垣の修復に伴い2019年(令和元年)9月に解体され、部材が保管されている。

二の丸

二の丸にあった建造物の中で、資料が多く残されている東御門・革櫓・大組櫓・鉄物櫓・炭櫓・松木坂御門・向櫓について福岡市は「調査検討を行った上で、復元整備対象とする」としている。 枡形の平面形状であった松木坂御門周辺の石垣や、戦後の造成によりほとんどが失われた二の丸御殿南側の石垣についても復元が検討されている。

2021年現在失われた二の丸御殿南側の石垣の復元が開始された。

多聞櫓
南西角にある切妻造の二重二階の隅櫓と長さ30間に及ぶ西平櫓からなる構造で、1854年(嘉永7年)に大改修を受けている。内部が16の部屋に分かれているのが特徴で、平時は倉庫等に利用されていたとされている。江戸末期に福岡城に存在した櫓の中で唯一、当時の遺構が移築を受けず同じ位置に残されている。

1971年(昭和46年)12月に重要文化財に指定され、1972年(昭和47年)10月から1975年(昭和50年)3月にかけて解体修理が行われた。

扇坂・扇坂御門跡
東二の丸から二の丸へ続く地点に、扇坂御門(おうぎざかごもん)と呼ばれる門があった。門内側の石段が扇形に広がっていたことからこの名がついた。また、この門には「お綱伝説」がある[14]

三の丸

三ノ丸は、北側を土塁と堀で囲まれ、御下屋敷と有力家臣の屋敷が立ち並んでいた。北東に上之橋御門、北西に下之橋御門、南西搦手側に追廻橋門が設けられ、下之橋御門の南側には、黒田孝高の隠居所である御鷹屋敷があった。

1671年(寛文11年)に御下屋敷が北側に移転し、以降藩主の館および藩政の中心となった。寛文期の御下屋敷は1763年(宝暦13年)に焼失し、翌年規模を縮小し再建された。1769年(明和6年)には7代藩主治之を江戸から迎えるために建て替えられた。御下屋敷は福岡県庁として使用されたが、1876年(明治9 年)に県庁の天神町への移転に伴い解体された。

以降は陸軍の軍用地となった。第二次世界大戦後は平和台球場や平和台陸上競技場など多くの公共施設が建設されたほか、一部は城内住宅と呼ばれる宅地となった。平成以降、城跡として整備が進められ、戦後建てられた各種施設の移転が進められている。

江戸期の遺構として堀・土塁・上之橋御門の枡形・下之橋御門が残るほか、城下から旧母里太兵衛邸長屋門と名島門が移築されている。

三の丸にあった建造物の中で、資料が多く残されている上之橋御門・潮見櫓・花見櫓・御下屋敷について福岡市は「調査検討を行った上で、復元整備対象とする」とし、特に上之橋御門・潮見櫓・花見櫓については「復元の可能性が高い」としている。また重臣屋敷跡についても、舗装等により地割を表現する整備を行うとしている。

2014年(平成26年)、旧舞鶴中学校の建物を利用して、公園計画を展示する施設「福岡城・鴻臚館案内処・三の丸スクエア」が開館した。

下之橋御門
下之橋御門(しものはしごもん)は三の丸の北東側に位置する下の橋に設けられた枡形門。二層の櫓門と高さ8m超の石垣・土塀からなり、福岡城東側の守りを固めていた。藩主の出入りや公式行事に用いられた。江戸末期に福岡城に存在した門の中で唯一、当時の遺構が移築を受けず同じ位置に残されており、福岡県有形文化財に指定されている。

江戸期は二層の櫓門であったが、明治期に一層に改修されたと推測されている。一層への改修時には旧来の部材が用いられ、「文化二年(1805年)」の墨書も残されていた[15]。以降は一層の姿のまま伝わったが、2000年(平成12年)8月の不審火で焼損したことをきっかけに、2006年(平成18年)から2008年(平成20年)にかけて、本来の二層櫓門への復元工事が行われた。

潮見櫓
潮見櫓(しおみやぐら)は三の丸の北西隅に位置した2階建ての櫓。潮見櫓の名は築城当初は海に面していたことに由来し、博多湾方向の監視に用いられていたと推測されている。

1909年(明治42年)に黒田家の菩提寺である崇福寺に移築され、仏殿として使用された。1955年(昭和30年)4月5日には福岡県指定文化財の指定を受けた。1991年(平成3年)に福岡市が崇福寺より買い取り、本来の位置への復元に向けて部材が保管されている。崇福寺では「月見櫓」として伝わっていたが、内部から潮見櫓を移築したことを記した棟札が見つかり、潮見櫓であることが確認された。

伝・潮見櫓
現在下之橋門の南に接して立つ二層の櫓。大正初期に黒田家別邸に移築された。第二次世界大戦後に黒田家別邸が検察庁に譲渡され、櫓が解体されるに当たり、1956年(昭和31年)に福岡郷土博物館建設委員会が現在地に移築した[16]
長らく「潮見櫓」とされてきたが、1991年(平成3年)に崇福寺仏殿から潮見櫓を移したことを記した棟札が発見され、崇福寺に月見櫓として伝わっていた櫓が正しくは潮見櫓であることが判明した。これに伴い、潮見櫓として伝えられてきたこの櫓の移築前の名称は不明となった。本丸裏御門の西に位置していた二層の櫓である太鼓櫓が黒田家別邸に移されたという当時の記事があることから、この櫓が太鼓櫓である可能性が考えられている。

旧母里太兵衛邸長屋門
旧母里太兵衛邸長屋門は、黒田二十四騎の1人である母里太兵衛の屋敷にあった長屋門。1952年(昭和27年)まで母里太兵衛の屋敷跡であった天神2丁目に残されていたが、野村證券福岡支店ビルの建設に際して解体され、1965年(昭和40年)に現在地に移築された[17]。2014年(平成26年)10月から2015年(平成27年)4月まで修復工事が行われた。福岡県指定文化財に指定されている。

名島門
名島門(なじまもん)は名島城の脇門として使われていた門。長政が福岡城に居城を移す際に黒田二十四騎の一人である林直利に下賜され、屋敷の門として使用されていたと伝えられている[18]

明治中期に長崎へ移築されかけたところを地元の代議士であった平岡浩太郎によって買い戻され、天神にあった平岡の自宅の門として使用された。1961年(昭和36年)、富士ビルの建設に伴い現在地に移された。福岡市文化財に指定されている。

1~6号堀

城郭の北側には、一部が埋めたてられたものの、大半の堀が残っており、東から順に1号堀から5号濠と呼ばれている。また、南西側にも一部の堀が残っており、6号堀と呼ばれている。水面には、ハスやスイレン等が繁殖している。なお、城郭の東側と南側にあった堀は、幅員が1メートル程度の水路として残っている。

大堀

古くは草ヶ江と呼ばれた博多湾の入江であり、福岡城築造に際して黒田長政が入江の一部を埋め、南の入江は福岡城の外濠である大堀とした。大堀の跡には1929年(昭和4年)に大濠公園が開園した。

老司の堰

  戦時に「老司の堰」を切って落とせば低地部は水浸しになって進入路を阻むことができた。[19]

参考文献 

  • 【書籍】「新修福岡市史 特別編 福岡城―築城から現代まで―」

  • 【書籍】「定本 日本城郭事典」

福岡城の口コミ情報

2022年06月25日 龍馬備中守【】
鴻臚館[福岡城  周辺城郭]



福岡県の福岡市にある【鴻臚館】♪黒田家の福岡城の中に取り込まれた、いわゆる重要な場所に鴻臚館は立地しました♪

鴻臚館は飛鳥・奈良・平安時代の外交施設になります☆中国大陸や朝鮮半島からの使節団の迎賓館であり、また日本の外交使節である遣唐使や遣新羅使の宿泊所としても使用されていました☆
この迎賓館的な施設は、京都・大阪にも設けられていますが、明瞭な遺跡が確認されて国指定の史跡になっているのはこの鴻臚館だけになっています☆此処をワンクッション挟み、太宰府という存在があった訳なんです♪

鴻臚館が最初に歴史に登場するのが飛鳥時代の688年☆当初は『筑紫館(つくしのむろつみ)』と呼ばれました♪
平安時代に入り中国・唐の外交を司った『鴻臚寺(こうろじ)』にならい【鴻臚館】と改称されています♪
この頃より鴻臚館は外交から貿易の拠点へとその役割が変わっていきました☆

約400年の間、対外交渉の窓口として重要な役割を担った鴻臚館でしたが1047年の放火事件の記録を最後に歴史の舞台から姿を消しました☆

資料館の充実具合が素晴らしかったです☆

2022年06月08日 千葉相模守早雲
福岡城



筑前52万石の城は伊達じゃない!…そう、黒田です😆

とにかく規模が大きくて圧倒されました😅時間に余裕を持って攻城しましょう!大濠公園駅から来るとまず現れるのは、伝潮見櫓と下之橋御門。門脇の石垣には矢穴があるので、探してみてください。

旧母里太兵衛邸長屋門や名島城から移築した名島門を見たら、いざ本丸へ。松ノ木坂御門を抜け本丸石垣沿いを進み、石垣が途切れると、高石垣が見えてきます。そのまま真っ直ぐ進むと、武具櫓跡方面へ。反対へ進むと裏御門跡です。

石畳に惹かれて武具櫓跡へ向かうと、道が狭まり、鉄砲櫓から狙い撃ちされます。その後も枡形虎口があり、ピンチの連続です😅運良く九死に一生を得たら、いよいよ天守!大天守に上るルートにも埋門や虎口があり、鉄壁の防御😁

天守台からは福岡の街が一望出来ます。長政の目に映る景色はどうだったのだろうと思いを馳せながら、景色をご堪能ください😁

1.内から見た伝潮見櫓と下之橋御門。
2.旧母里太兵衛邸長屋門。
3.高石垣を回り込むと天守台。
4.武具櫓門跡。左は鉄砲櫓。
5.天守台石垣。野面積み。
6.大天守台下にも虎口を設けてる!
7.大天守跡。

2022年05月10日 583系権中納言きたぐに
福岡城

小田部城攻略時に現地の看板に掲示されていた伝承なのですが、小田部城に関わりなく、福岡藩主に関わる話なので、福岡城でご紹介します。

享保の大飢饉は西日本を襲った冷害が大きな要因とされています(Wikipedia情報)が、福岡藩も例外ではなく、現在の福岡市早良区有田一帯も凶作で郷民は非常に苦しんだとのことにござります。これを見かねた有田郷の庄屋松岡孫三良は救済策を色々講じましたが効果がなく、郷民が苦しむのを見るに忍びなく、やれば死罪のご法度である減租の嘆願を致しました。

そうしたところ、孫三良は藩庁に召喚され、裁きを受ける身となりました。城中の大半の意見は、庄屋孫三良は打ち首、組頭は田畑取り上げのうえ所払い、百姓は過料というものでしたが、福岡藩六代藩主黒田継高は、死罪を覚悟して郷民を守ろうとした庄屋の気骨に感服し「無罪放免そして年60俵の年貢米免除を言い渡す。」とのツルの一声を発したそうにございます。

有田郷の郷民たちは孫三良召喚中に氏神の境内に集まり、夜を徹して庄屋の罪の軽いことを祈っておりましたが、この結果を知り、氏神様の霊験あらたかと庄屋の志を無にしてはならぬと子々孫々まで言い伝え、毎年9月28日を祭日と定めて、その日は氏神である有田宝満神社に集まり一晩中明かりを絶やさず一夜を明かすこととしました。これが、小田部城付近で250年以上の伝統を持つ有田のお日待ちの祭事の由来だそうです。

2022年05月10日 mucchy11修理大夫
福岡城



あまり高くない丘の上にあるお城ですが、大天守台からの眺望はスゴくよかったです。ちょっとした運動に最適かも?

2022年05月05日 草薙摂津守
福岡城

天守台に上がる道は整備されております。上がると福岡の街が見渡せます。是非一度行かれてはと!

2021年10月12日 まーだーⅡ美濃守信短
福岡城



地下鉄だと空港線乗車中 赤坂駅到着前にて福岡城跡の案内があり つられて降りたものの 広大な敷地であり 潮見櫓、天守台跡まで行くなら 惑わされないで次の大濠公園駅で降りた方が早いですね😅

2021年09月18日 ヒデタカ対馬守
福岡城



もともと海に面していた城ですが埋め立てにより面影うすいです。黒田藩が幕末まで270年続いた、とにかく規模の大きい福岡県の代表的な名城です

2021年07月22日 りゅうぱぱ
福岡城

九州最大の城と言われるだけあり、歩きがいがあります。大天守跡は変わった石垣で展望台になっています。

2021年03月22日 みんみんぜみ
福岡城



まだつぼみだけの樹も多いですが、
八分咲きくらいの樹もけっこうあって
それなりに綺麗で楽しめました(^。^)

2019年11月13日 杉ちゃん淡路守
福岡城



祈念櫓は石垣の修復の為に2019年の夏頃から2年くらい解体保存しているそうです。

2019年06月01日 小豆_釆女正
三の丸スクエア[福岡城  スタンプ]



受付の方に言うとスタンプを出してくれました。三の丸スクエア内に、福岡の老舗菓子店「如水庵」が出店していて、スイーツやお茶をいただけます。

2019年06月01日 小豆_釆女正
潮見櫓[福岡城  遺構・復元物]



近年の調査で別の櫓であったことがわかり、「伝・潮見櫓」と呼ばれています

2017年07月17日 大宰大弐お砂糖くん
福岡城

城外の赤坂西交差点近くの歩道に城跡堀石垣保存施設が土日のみ公開(無料)されています。地下の工事現場に繋がるかの様な入口なので、見落し必至。堀の底にいるという立ち位置になります。

2017年07月16日 大宰大弐お砂糖くん
福岡城

南丸多聞櫓は現在保存修理工事中です。
期間は~平成30年3月15日まで。攻城の際はご注意ください。

2017年06月21日 筑前守コムギ
福岡城

名島門近くに旧小学校校舎があって、今は三の丸スクエアという観光案内処になっています。中では、軽食や、お茶も飲めます。
けやき通り、NHK放送センター近くからの入口の橋は老朽化のためか通行止め、多聞櫓は今工事中で白いカバーに覆われていました。

2017年05月08日 織田上総介晃司
福岡城

多聞櫓の道を挟んだ向かいの舞鶴公園第2駐車場に停めて、まず石垣から多聞櫓を眺める。その後内側に回り、2基の二重櫓を。

本丸の見事な石垣を見て祈念櫓。

名島門、文里太兵衛長屋門、伝潮見櫓と下之橋御門は少し離れているので見落とし注意。

福岡で博多ラーメンは食べておきたい。
地元の方に聞けば、口をそろえて一竜(あっさり系)と達磨(こってり系)を勧めてくれます。

モツ鍋と水炊きも食べたい。

お土産の定番はひよこ(東京でも売ってますが福岡発祥)と辛子明太子ですが、一番美味しい辛子明太子を選ぶのは至難の技です。

2015年07月21日 みずたま
福岡城

福岡城むかし探訪館という施設がありました。
100名城スタンプもあり、夏休み中は午後7時まであいているそうですよ。

2014年04月01日 アヴァンシア
福岡城

皆様ご存知の関ヶ原の戦いの功績により家康公より筑前一国を拝領され1601(慶長6)年、守りに有利な地形で交通上の要所でもあった福崎の地を「福岡」と改名し福岡城の築城を開始します。

築城が始まると官兵衛は太宰府天満宮内にある庵を仮住まいとして連歌や和歌、茶の湯などで満喫した隠居生活を過ごしたとの事です。

その太宰府天満宮境内には今でも官兵衛が茶の湯で使ったと伝わる井戸が「如水の井戸」として残っています。

もし時間に余裕があれば菅原道真公ゆかりの「梅ヶ枝餅」でも有名な太宰府天満宮にも足を運んでみたら如何でしょうか!?

2013年03月15日 ひろり
福岡城

福岡城の堀の石垣は、一部が地下で保存・公開されております。
福岡城の北、明治通りの赤坂交差点から西へ徒歩約3分、歩道上に入り口があります。
公開は毎週土曜日、10:00〜17:00まで。


2012年09月30日 加藤豊後守清正
福岡城

城内には大きな天守台跡がありますが、その存在を濃くする資料があり毛利輝元が内密に調査していて、そこに天守が書かれているそうです。また、細川家が記した日記にも書かれ『広島城主福島正則が無断で城を修築した為、改易。それを恐れて天守を壊した』と書かれてます。
これにより天守存在説が濃くなりました。気になる外観ですが、5重の天守だそうです。

2012年08月17日 徳川内大臣源朝臣康武
福岡城

福岡市が、福岡城跡整備基本計画を13年度までに策定すると発表。天守復元も検討(毎日新聞福岡都市圏版)…心意気は結構ですが、史資料が少ない天守復元は無理!可能な史跡整備をお願いしますm(__)m
裁判所等諸施設の移転、生活道路の撤去など、環境整備が先決。その後、本丸表御門、月見櫓、花見櫓の移転復元をはじめ、城跡整備を実施したら良いんだけど…(^_^)

福岡城の周辺スポット情報

 南丸 多聞櫓(遺構・復元物)

 潮見櫓(遺構・復元物)

 大天守台跡(遺構・復元物)

 名島門(遺構・復元物)

 下之橋御門(遺構・復元物)

 祈念櫓(遺構・復元物)

 大濠池(遺構・復元物)

 上之橋御門跡(遺構・復元物)

 本丸御殿跡(遺構・復元物)

 本丸(遺構・復元物)

 古時打櫓跡(遺構・復元物)

 月見櫓跡(遺構・復元物)

 御時櫓跡(遺構・復元物)

 高櫓跡(遺構・復元物)

 武具櫓跡(遺構・復元物)

 二の丸(遺構・復元物)

 東二の丸(遺構・復元物)

 松原櫓跡(遺構・復元物)

 旧母里太兵衛邸長屋門(遺構・復元物)

 黒田奴水屋敷跡(遺構・復元物)

 侍屋敷跡(遺構・復元物)

 大組櫓跡(遺構・復元物)

 花見櫓跡(遺構・復元物)

 鉄物櫓跡(遺構・復元物)

 多聞櫓中庭(遺構・復元物)

 井戸(遺構・復元物)

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