波奈台場(はなだいば)
波奈台場の基本情報
通称・別名
- 波奈砲台
所在地
- 福岡県福岡市中央区港3丁目
旧国名
- 筑前国
分類・構造
- 台場
天守構造
- なし
築城主
- 福岡藩
築城年
- 文久3年(1863)
主な改修者
- -
主な城主
- 福岡藩
廃城年
- -
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- 碑
周辺の城
-
福岡城(福岡県福岡市)[1.5km]
須崎台場(福岡県福岡市)[1.6km]
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波奈台場の解説文
[引用元:Wikipedia「波奈台場」の項目]台場とは、防禦の目的をもって大砲を据え付けるための構造物を指す。海岸や河岸の台地など、海防上枢要の地に置かれたものが多い。初期の台場として長崎の台場が知られるが、これは承応3年(1654年)に初めて築造されたものである。その後200年の時を経、ペリーが浦賀に来航したことで幕府・諸藩の海防意識が高まり、攘夷思想の影響もあいまって日本各地で台場が築造されていった。
【築造の経緯】
2度目のペリー来航ののち、安政元年(1854年)8月1日、福岡藩は海岸枢要の地、およそ10か所に台場を建設する許可を幕府に願い出た。実地検分は安政2年(1855年)より始まり、安政3年(1856年)には少なくとも一部が完成したと見え、3ヶ所の台場に大砲17門を積みまわした記事が残る。万延元年(1860年)には志賀島・能古島の台場が完成、文久元年(1861年)4月12日には、志賀島・能古島・荒戸山に大砲が設置された。その後、攘夷運動の高まりとともに諸藩で台場築造の動きが加速、福岡藩でも領内各所に台場が設けられ、異国船来襲に備えている。台場が置かれたのは主に、洞海湾の入口、遠賀川河口、そして福岡・博多を守る枢要の地で、その築造にあたっては海底の測量も行ったという。また台場の築造工事と並行して、能古島・志賀島間(約2キロメートル)に大造筏を組並べて海路を塞ぐことが計画され、筏は文久3年(1863年)冬までに完成、有事の際にはいつでも設置できるよう、格納されていた。
【福岡城下の台場】
福岡城下に築造された台場のうち波奈・洲崎の台場は特に規模が大きなもので、福岡城防衛という役割を担っていたと考えられている。築造工事は文久3年(1863年)4月7日より始まり、足軽も含め、家中総出で築造にあたり、福岡・博多のみならず、農村・漁村からも人夫、あるいは人夫に支払う賃銭を拠出したという。藩主も自ら見分にあたり、「中々大そうの御事」であったと伝わる。波奈の台場は6月20日に完成したが、これは寛政12年(1800年)から享和2年(1802年)にかけて築造された人工島を一部改修したものである。一方、洲崎の台場は文久3年(1863年)10月に完成、大砲24~25門が据え付けられた。一般に台場の平面形状は不等辺多角形であることが多いが、波奈・洲崎の台場はいずれも、弧を描くように塁線がカーブしているのが特徴であり、いわゆる稜堡式築城とは異なるものである。波奈・洲崎の台場に加え、元治元年(1864年)8月には福岡・博多の海岸5ヵ所に土俵台場が築造された。その後さらに増設されたと見え、幕末頃の「福岡城之図」には福岡・博多の海岸に12か所の小規模な台場が図示される。[続きを見る]
波奈台場の口コミ情報
2020年11月29日 虹雷 大宰大弐 サンダー
波奈台場
波止場の端の方、造船所の入り口にある小さな神社を目印に向かいます。神社の入り口には小さな案内板がありますが、その他の遺構は見当たりませんでしたが、港から大砲の音が鳴っていた方思うと感慨深い場所です。