持永城
持永城([小城城 周辺城郭])
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持永城の口コミ情報
2021年09月12日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
佐賀県の小城市の牛島町にある持永城♪別名を今川城と呼びます☆
南北朝時代に今川貞世(了俊)は足利義満の命で南朝勢力討伐の目的で九州探題として下向してきました♪今川貞世は、この時代の武将であり守護大名です☆九州探題の赴任中は備後、安芸、筑前、筑後、豊前、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩の守護も兼ねました☆
法名は了俊(りょうしゅん)と名乗り今川了俊の方が有名かもしれません♪
今川貞世は肥前支配を養子である今川仲秋に任せました☆
今川仲秋はこの地を九州探題の拠点として活動🏃♂️今川仲秋は小城の肥前千葉一族の千葉胤泰の娘を妻にしていて、その子孫達はこの地に残ります☆
その5代目・今川秋景の時に肥前千葉氏の被官になり『持永』姓を名乗っていきます☆
戦国時代に入ると千葉教胤は、同肥前の在地豪族、高木氏達と共に佐嘉郡の今川胤秋の新庄(鍋島町)にある居館を突如、攻撃します☆コレは今川胤秋も九州探題と組んで千葉教胤を討つとのうわさが流れた事により攻め込んだものでした☆
突如、千葉氏の攻撃を受けた今川胤秋は千葉家中の中村胤明、岩部常楽の両将を寝返らせて、千葉軍を追い払い和睦し無事難を逃れました☆でもでも、この戦によって今川氏は大いに勢力を減退させ、姻戚関係により結ばれていた今川・千葉両家には深い遺恨が残る事になります…☆
そして、ついには今川胤秋は千葉教胤に対して挙兵、同じ足利一門である九州探題・渋川教直と連合して千葉領内の小城郡に攻め込みました☆
でも千葉教胤の反撃は探題渋川氏、今川連合軍を押し返しました☆今川胤秋は返り討ちにされて戦死…☆渋川氏は退却を余儀なくされ今川氏の所領は千葉氏に併合される事に至ったりました☆
その後、今川国治の孫で今川胤秋の子・今川義秋が今川旧臣を集めて再度の挙兵!!
佐嘉郡植木(鍋島町植木)で千葉軍に鎮圧されて、今川義秋は討ち取られ肥前今川氏は事実上滅亡しちゃいました☆
その後、持永氏の家系は千葉氏滅亡後は戦国大名龍造寺氏に臣従しました☆
持永城は清泉寺の南に本丸があった様です☆ここに『今川持永城本丸趾』の石碑が建っていて、その近く、芦刈水道の北側に築山が残っていて持永氏の墓と伝わります☆