内浦城
内浦城([小城城 周辺城郭])
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内浦城の口コミ情報
2024年06月10日 龍馬太閤【懸かり乱れ龍】
佐賀県の小城市にある【内浦城】♪北西側には天山(標高1046m)が聳え立ち、派生された山々の峰が南側に連なります♪小城晴気から北側の、谷間の奥まった場所♪小高い山陵の突き出した所が、内浦城であります♪北方には天山下宮があり、眼下には佐賀平野が見渡せる眺望を持ちます♪
築城年代は不明でありますが、長保3年(1002年)藤原安弘が居城したと伝わります♪一方、大宝3年(702年)に天山神社を勧進した人物としても、この藤原安弘の名が伝わっています♪時代感が混在しており、何とも言えない伝承的な歴史です。
その後の内浦城主は、天山神社宮司職の円城寺氏とも云われています♪円城寺氏といえば、龍造寺四天王の1人として活躍した武将です♪
鎌倉時代後期に、千葉大隅守胤貞に従って下総国から九州肥前に下向した武将の中に、円城寺胤清がいました♪元寇の侵略に備えたのです♪小城を領した、肥前千葉氏の家臣であります♪
円城寺氏についてです♪円城寺壽左衛門尉は、千葉胤泰の命のもと、山田弾正忠と共に建武4年(1337年)河上社座主権律師増慶代増勝への『小城郡田地二町』について、下地の打渡を命じています。(河上神社文書)
また、その子孫と思われる円城寺甲斐守胤政は『岩蔵寺過去帳』に載せられていて、その没年は不明ですが、記述が文安5年(1448年)〜宝徳元年(1449年)にあることから、この一年の間に没したと考えられています。
そして、室町時代末期に龍造寺隆信に仕えた円城寺山城守信胤は、この小城円城寺氏に養子に入った人物であるとされ、武勇に優れた勇将であったとされます♪主君である龍造寺隆信に従い、各地を転戦し武功を挙げました♪元亀元年(1570年)今山の戦いでは、同じく龍造寺家臣であった鍋島直茂を援護して大友方を撃破し、勝利に貢献しました。
天正12年(1584年)沖田畷の戦い時には、島津氏、有馬氏と戦い、島津家久の奇襲によって龍造寺軍が大混乱に陥る中、主君である龍造寺隆信と似た出立ちをしていた事から、影武者を務めました。『我こそは龍造寺山城守隆信なり』と名乗りを上げて敵軍に切り込み、身代わりとなって戦死したとされています。
東西に伸びた尾根上に城郭を形成しています♪主郭(標高160m程)を中心にして東向きに段郭が一段残ります♪周りを土塁上の高まりを残し、下には堀切状の窪地を残します♪主郭から西側にも削平地を残しています♪更に西の尾根にも窪地が残り堀切か?数段の段郭が残ります♪主郭下の南側の削平地は居館及び、大手か?とまぁざっくりこんな感じでした。