源披墓所

源披墓所([獅子ヶ城  碑・説明板])

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源披墓所の口コミ情報

2023年04月06日 龍馬備中守【】


佐賀県の唐津市にある【源披墓所】♪源披(峯五郎披)は源頼朝が鎌倉幕府を開き征夷大将軍になる頃に平戸島・紐差の地頭職を安堵され、松浦党の始祖・源久の孫にあたる人物です ♪

嵯峨源氏渡辺氏の祖の渡辺綱の曾孫とされる渡辺久(源久)を祖とします♪後に地名に由来した『松浦』を名乗る訳ですが、渡辺綱に始まる渡辺氏を棟梁とする摂津国の滝口武者(大内守護、天皇警護)の一族と伝わります♪水軍として瀬戸内を統括した渡辺党の分派とも伝わります♪本流とされる摂津の渡辺氏は摂津源氏の源頼政一族の配下でありましたが『肥前の松浦党』は平家の家人で源平合戦においては当初、平家方の水軍でした♪が、壇ノ浦の戦いで劣勢が見えた平家方から源家に付き、源家に加勢♪源家の勝利に終わったのは歴史の通りです☆

この壇ノ浦の戦いでの功績により鎌倉幕府の西国御家人となり九州北部の地頭職へと成ります♪が、同環境にあった秋月氏や蒲池氏、菊池氏と同じく、元平家家人の九州御家人を信頼していない源頼朝は九州へ少弐氏・島津氏・大友氏などを送り込んでいて、松浦家は、この『下り衆』の下に配置されました☆その配下の中でも、一段と勢力を奮っていきました♪

肥前松浦地方を中心に松浦家の一族は後に48つに分かれていて松浦党や松浦四十八党とも呼ばれました♪獅子ヶ城の鶴田氏も、岸岳城の波多氏も松浦から派生された一族です♪平戸から広がりを見せた一族は肥前北部の歴史に触れると多く登場してきます♪蒙古襲来時にもその卓越した海上戦術で戦い歴史に名を残していく松浦氏です☆

南北朝時代に入ると後醍醐天皇を中心とする倒幕勢力は各地で蜂起☆九州でも博多の鎮西探題・北条英時が守護であった大友氏・島津氏・少弐氏などの軍勢に攻められ滅亡する始末…☆中央での倒幕勢力が次第に大きくなると松浦党諸家はそれぞれの家長の判断で、ある一族は後醍醐天皇の軍勢催促の綸旨に応じ、また、ある者は北条英時の元に馳せ参じています☆京都での権力争いに敗れた足利尊氏は再起を期して九州に逃れていますが、この時、松浦党の一部の家々は、これを迎え撃った南朝方の菊池武敏側の軍に付きました☆しかし多々良浜の戦いで足利尊氏の勝利が明確になると松浦党はたちまち足利側に寝返り、以降も継続的に存命☆先代である松浦党の祖である源久、その曾孫である源披♪彼らが築いた硬い基盤☆戦国時代、秀吉による島津征伐の際に、秀吉は松浦氏の勲功を賞し平戸以外の領地に転封しようとしますが『累代の苦心によって得た土地であるから、後世末代まで現所領の安堵の確証を賜りたい』と言上し秀吉は所領の『永代安堵』の誓約を与えたとも云われています☆

時代の暗雲に揉まれ続けながらも強く、逞しく生き抜いた松浦家♪変わらず、その所領を安堵し続ける、その手腕とこだわりに、尊敬すら覚えました☆ずっと行きたかった源披の墓所♪今はヒッソリと静かに佇んでいました♪

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