伊万里城(いまりじょう)
伊万里城の基本情報
通称・別名
- 鶴亀城、浜城
所在地
- 佐賀県伊万里市松島町(伊万里城山公園)
旧国名
- 肥前国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 峯上(みねのぼる)
築城年
- 建保6年(1218)
主な改修者
- -
主な城主
- 伊万里氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
唐船城(佐賀県西松浦郡)[6.2km]
住吉城(佐賀県武雄市)[8.5km]
日在城(佐賀県伊万里市)[8.8km]
世知原氏館(長崎県佐世保市)[11.4km]
梶谷城(長崎県松浦市)[11.8km]
岸岳城(佐賀県唐津市)[12.7km]
青山城(佐賀県唐津市)[15.5km]
獅子ヶ城(佐賀県唐津市)[15.8km]
大智庵城(長崎県佐世保市)[16.0km]
塚崎城(佐賀県武雄市)[16.2km]
伊万里城の口コミ情報
2024年12月28日 龍馬備中守【】
地北祇園城[伊万里城 周辺城郭]
佐賀県伊万里市の大坪町にある【地北祇園城】♪伊万里市の中央部に立地し、南北を2つの河川が挟みます♪南は伊万里川、北も河川が流れ伊万里湾に注ぎます♪
北側の城古岳、東側の今岳と低山が連なり尾根を展開♪その尾根は緩斜面となり繋がった先端部に城は形成されています♪
このエリアは平安期から松浦荘に含まれていたと伝わりますが、初期の荘園に関する記録は無く、記録上の初見は治承2年(1178年)後白河院庁下文で、松浦荘は最勝光院領となっています♪この場所は、元は筑後守国兼法師の所領でしたが、その子・国通が保延5年(1139年)頃に鳥羽院行下文を求め別符(土地制度上の地域呼称)となります♪その後、国通の娘・大江氏が伝領し3代を経て平政子が譲渡し、安元元年(1175年)建春門院に寄進、その没後に松浦荘になっています♪
その範囲は、東は松浦川、西は伊万里市の波多津・木須峰(城古岳か?)南は杵島荘、北は海を経て加唐島をも範囲とする広大な荘園であり、ほぼ東松浦半島全体に及びました♪
康和4年(1102年)源久譲状に確認される宇野御厨は、長崎県松浦市御厨を中心にして、この松浦荘付近まで及んでいました♪松浦荘と宇野御厨の境界等は不明です。この伊万里では、荘園と御厨が混在していたと思われます♪(荘園は寺社や貴族が財力によって開墾し、自分の領地とした大規模な農園♪御厨は神宮の荘園で神饌を進納する人々の集団を指します。)
建久3年(1192年)肥前国宇野御厨内山代浦の地頭職に松浦党の1人、源六郎山代囲が補任され、山代氏の祖となり以後相伝しています♪
また、元久2年(1205)源重平が伊万里浦と津吉島の地頭職に補任されています♪この源重平という人物は源久(松浦党の祖)の孫の源披の小舅にあたります。また、源披の孫・源留(伊万里城が本拠か?)が伊万里氏の祖となります♪伊万里氏の所領としては伊万里・大河野・脇田・木須の各地となり、コレによってこのエリアの東・北・南は松浦荘域であり西は宇野御厨荘域になっていた事なのでしょう♪いずれも、伊万里を辿れば、松浦久から始まり、山代氏も伊万里氏も松浦党一族なのです♪地名にあやかって姓を変え、各所に松浦一族を配置しています♪
松浦党は大きく、上松浦党と下松浦党で分かれています♪『九州治乱記』には『上松浦・下松浦と分れて、都合四十八党となりぬ。所謂波多・佐志・有浦・値賀・日高・八並・牟田邊・馬場・畑島・相知・東中山・黒岩・大河野・木島・隈崎・佐里・石志・大野・鴨打・小濱・大板・世戸・波多津・赤木・長崎・庄崎・寺田・神田・飯田・荒久田・梶山・西山・呼子・寒水井・厳木・隈辻・西浦・船原・平戸・山代・志佐・峯・田平・御厨・公文・鷹島・瀧口・平野・吉野・有田・鶴田・伊萬里・庄山・志自支・松川と各々名を分って、上松浦党の輩は、鬼子嶽の城波多を以て棟梁とし、下松浦の輩は、梶谷の城主正嫡の松浦を以て旗頭とす。此一族兼ねて血判を連ね一味同心しけり。武蔵の七党・肥前の松浦党とて世に隠なし。』とあり上松浦党は波多氏を、下松浦党は松浦氏を用い棟梁としています♪
さて♪この地北祇園城ですが、永徳4年(1384年)下松浦党一揆契諾状案の署名の中に、『ちきた若狭守助』が城を構えたとあります♪下松浦党を見てみると…。
丹後左衛門尉徳、宇駿河守定、山代遠江守栄、大島伯耆守徳、日宇越前守純、志佐壱岐守調、平戸源湛、宇久伊豆守勝、御厨三河守、相浦鬼益丸、佐々長門守相、小佐々備前守、松浦能登守超、相知薩摩守広、伊万里伊豆守高、『ちきた若狭守助』、庄山薩摩守連、まつのかわ常陸守授、つきのかわ周防守続、つよし因幡守安、ふねのはら長門守茂、一つきーぶん大和守、いきつきがとう常陸守、いきつきがとう伊勢守、佐世保石見守元、佐世保今福左京亮、有田吉野若狭守、みやち周防守聞、ふくの因幡守、 楠久諸亀代叫、木須因幡守壱、ふく井沙弥源光、志佐白波後家代弘、御厨坂本源有、平戸大野若狭守貞、平戸石見守武、宇久ふちかわ若狭守貞、うくのながせ因幡守広、有川石見守全、うくのえ近江守伝、ししき但馬守重となります。四八党からなっていた松浦一族は、多数決の採用など独特な契約があったとされています♪
この場所は、伊万里西側の前線の城といった印象を受け、城郭の形状からも砦といった雰囲気です♪北東側は唐津への連絡網となり、南西側に向かえば、武雄へ抜ける場所となります♪
このエリアの中世は伊万里氏、山代氏である下松浦党が治めた領地となる為、下松浦党の属城であり地北氏は伊万里氏?もしくは山代氏の被官として行動を共にしたのでしょうね♪
2023年09月09日 いいちゃん
伊万里城
伊万里城山公園の麓、円通寺の脇の石垣は伊万里城当時のものなのでしょうか?
2023年03月12日 しんこう
道祖瀬城[伊万里城 周辺城郭]
道祖瀬城は「さやんせじょう」と呼びます。なかなか覚えきれません。
【所在地】佐賀県伊万里市
【指定史跡】なし
【遺構】曲輪、土塁、虎口、櫓台、畝状竪堀
【歴史】来歴はよくわかっていないようですが、永徳4年(1384年)の「下松浦住人一揆契諾状」には、ふくの因幡守の名が見えるものの、当該城との関連は不明とのこと。伊万里川を挟んだ道祖瀬城の西側に福野の地名も見られ一族が居住するなど関連があるのかもしれません。
【感想】青螺山から北側に伸びた丘陵先端部に位置し、伊万里川と杏子川の合流点となる要害の地にあります。付近の方にお話しをお伺いすると昔公園があったらしく、実際曲輪内に公園の石碑があります。主郭周囲に土塁、南側に竪堀を配し、西側に櫓台のような高まりがあります。虎口は屈曲した導線となっていて容易に侵入できない作りになっています。
【案内】城の北西の道路沿いから藪の中に入ると、わずかにジグザグの登城道がの残されていて、昔の公園の道の名残なのでしょうか。広報伊万里2020年1月号の「郷土の文化財」というコーナーで道祖瀬城の紹介と登城道についても案内があります。
【写真】
①西側からの道祖瀬城の眺め
②登城口付近、手前の藪へ突入します
③凹みのある虎口
④虎口を外から。虎口付近は楽しめます
⑤虎口脇の土塁
⑥主郭西側の櫓台にくっついて建つ公園碑
⑦藪にしか見えませんが左上から右下に向けて竪堀が走っています
⑧櫓台の上に鎮座する神様。帽子が洒落ています。
2023年01月08日 薩摩大隅守義弘維新斎
伊万里城
伊万里駅から徒歩で伊万里神社方面を目指して、円通寺横の道を行くと、約15~20分で城山公園へたどり着きリア攻めできます。約42メートルの山頂が本丸跡らしく、今は朽ち果てた公園。遺構らしいものはないですが、伊万里市内が一望できます。
2019年06月05日 笑門来猫
伊万里城
圓通禅寺の裏手にある堀切。町中にこんなすごいの残ってるとは思ってなかったので驚いた。
2015年10月18日 水瀬筑後守名雪
伊万里城
伊万里城は松浦水軍の居城として鎌倉時代に建てられたものである。
登り口はとても分かりにくく、伊万里保育園と円通寺の間の道を徒歩で登るしかない。
近くに駐車場はなく、少し離れた所に車を止めて歩いて行くしかない。
頂上は公園となっており、すべり台やブランコなど、子供達の遊具が一通り設置されている。だが、あまり使用されていないのか、くもの巣が張り巡らされていた。