日在城(ひありじょう)
日在城の基本情報
通称・別名
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所在地
- 佐賀県伊万里市大川町大字川西字古城
旧国名
- 肥前国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 大河野遊
築城年
- 久寿年間(1154〜1156)
主な改修者
- -
主な城主
- 大河野氏、鶴田氏
廃城年
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遺構
- 曲輪、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
岸岳城(佐賀県唐津市)[5.3km]
獅子ヶ城(佐賀県唐津市)[7.3km]
伊万里城(佐賀県伊万里市)[8.8km]
青山城(佐賀県唐津市)[8.8km]
住吉城(佐賀県武雄市)[12.1km]
梶峰城(佐賀県多久市)[13.5km]
唐船城(佐賀県西松浦郡)[14.0km]
塚崎城(佐賀県武雄市)[14.3km]
唐津城(佐賀県唐津市)[16.1km]
潮見城(佐賀県武雄市)[16.9km]
日在城の口コミ情報
2023年08月18日 伊達 DAI備前守
日在城
実家の近くにある山城で、ずっと前から登りたいと思っていたのですが、登城路が整備されておらず、数年前から実家に帰省する度に地元の町誌等を読んで調べていたのですが、城の歴史等は詳しく載っていても、城の情報が少なく日在城自体の事がよくわからずにいた所、今回地元の市誌を手に入れて見ていましたら、縄張り図が載っていましたので、今後登城される方の参考になればと思い上げておきます。
2023年04月06日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
川古城[日在城 周辺城郭]
佐賀県の武雄市にある川古城♪現在は秀岩寺が城郭の場所となります♪眼下には唐津街道が走り、寺院には六地蔵、馬渡氏とその奥方の墓所(宝篋印塔)が残ります♪
馬渡とは通常、『まわたり』ですが、この馬渡氏は『もうたい』と呼びます☆中々読めない呼び方ですね♪
そうです♪馬渡氏の城郭となります♪
この馬渡氏ですが、元々、坂上姓田村氏の後裔と伝わっています♪祖先は坂上田村麻呂と云われています☆
平安末期、白河上皇の時代に延暦寺の僧兵鎮圧の冤罪を受け美濃国・馬渡庄の城主の源義俊が左遷されていて松浦党を頼り土着しています♪土着した源義俊は名前を本馬八郎義俊と改姓し、その後『馬渡』姓を名乗り松浦一党となりました♪因みに玄界灘に浮かぶ馬渡島♪これも馬渡氏が改名しています♪
鎌倉時代の蒙古襲来の際に博多湾の防塁に従軍し弘安4年の蒙古再襲来時には馬渡美濃八郎が軍功を挙げ活躍しています♪
南北朝時代に入ると九州探題に任じられた今川了俊が九州に下向してくるとイカで有名な呼子で馬渡甲斐守が松浦一党と共に出迎えています☆
下り、戦国時代♪松浦党の波多興の後援を得て、武雄の川古に移り川古、多久の藤川内、小城の砥川を領有しました♪
馬渡甲斐守俊明の代になると川古の日鼓城主である橘薩摩氏・渋江右馬頭公勢の配下に属しました♪この渋江氏が没落した後には後藤氏に従い馬渡甲斐守俊明は入道して笑岩と称しました♪
馬渡氏の主君・渋江公親が岸岳城の波多氏の支援を得て再挙を企てると馬渡甲斐守俊明は波多氏と図り後藤氏を襲撃しようと企てました♪
コレを察知した後藤純明は天文二年(1533年)に川古に侵攻♪馬渡甲斐守俊明の籠るココ川古城を急襲しました☆
馬渡氏は後藤勢の攻撃を防いだものの川古城を脱出☆戸坂峠まで落ち延びた所を後藤勢に捕捉されてしまい激闘の末に戦死を遂げました☆馬渡甲斐守俊明の死にはもう一つ説があります☆肥前・綾部城主の馬場頼周は龍造寺氏の勢力を削ぐ為に、有馬・松浦一党の決起を少弐氏に対する反抗と見せ掛けて龍造寺氏に討伐を命じました☆この時、馬渡氏、鶴田兵部少輔らは有馬氏に応じていて日鼓城に押し寄せました☆龍造寺軍が西肥前で敗退すると、馬渡氏が有馬氏に接近する事を危惧した後藤貴明は兵を率いて川古城に攻め寄せました☆
馬渡甲斐守俊明は嫡子の伊豆守英俊、二男の兵庫助俊兼、三男の左馬助俊実、および徳末・高城ら家臣数百人を率いて戸坂峠に出陣しました☆激戦の結果、馬渡伊豆守英俊、徳末・高城らが戦死し馬渡勢の大敗北に終わったとしていて、何にせよ戸坂峠にて戦死しているとしています☆
現、秀岩寺の住職様に話を聞き出てきました♪教えて頂いた事と()は自分が感じた事♪この場所が川古城→27代目、馬渡甲斐守俊明の遺灰を見せてもらう(写真あり)☆背後の山、八幡岳は詰め城☆(日鼓城の事か?)唐津街道が眼下に♪(交通の要衝地)後藤氏🆚馬渡氏の戦いがあった(川古合戦?)戸坂峠の戦いで、馬渡甲斐守俊明は討死☆一族は馬渡島に流された♪コレが馬渡島の由来♪
川古城を攻めた後藤氏は西側の低地から攻め込んできた☆寺院に残る石垣は往時のもの♪(戦国時代末期から江戸時代初期にかけてと思われる)秀岩寺に残る算木積み(算木積みの手法は確かに未熟→馬渡時代では無い?やっぱり戦国時代末期から江戸初期の石垣か?)
同じく川古エリアには川古の大楠が残ります☆この川古の大楠の樹齢は3000年以上と云われ国の天然記念物に指定されています☆
この大楠の脇には川古合戦で戦死した、人々の五輪塔が残ります☆
大楠は馬渡氏の歴史を見ていたんだろうな〜♪戸坂峠には馬渡甲斐守俊明の供養塔も残ります☆因みに…馬渡氏の子孫達は時代の風を読み、龍造寺氏に、そして後に鍋島氏に従い続いています♪
住職様ありがとうございました♪また遊びに行くぞ〜♪
2022年09月15日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
日鼓城[日在城 周辺城郭]
佐賀県の武雄市にある【日鼓城】♪川古城の詰城か?ハタマタ支城群か?標高763mの八幡岳と標高518mの眉山が山裾を合わせる地点の台地上に城郭は存在しました♪別名を椎葉城とも呼びます♪
この日鼓城は橘薩摩氏の一族、備後守公泰の築城と伝わります♪
橘薩摩氏13代目・渋江公勢が明応年間に城域を拡張して居城としました☆
この渋江右馬頭公勢は橘薩摩氏の中興の祖で実地を回復して近隣の領主達を征服しています♪在地の馬渡氏も、その家臣となっています♪
伝承によると、大永7年(1527年)渋江右馬頭公勢は、その子、渋江公政と共に毒入りの葛湯を誤って飲んでしまい、落命☆
塚崎城の後藤18代目・後藤純明は、この渋江氏の落命により、日鼓城を急襲☆
渋江右馬頭公勢の嫡男・渋江公親は、母の生家である松浦党の領する岸岳城に逃れます☆渋江公親は、後に岸岳城主・波多氏と松浦平戸領主の援軍を率いて日鼓城を包囲☆
この時、後藤純明は塚崎城に居た為に渋江公親は奪還に成功しています☆
しかし、またまた後藤純明は日鼓城を攻め取り戻し渋江公親は肥後に逃れました☆
後藤純明は日鼓城を占領すると城を破却し、廃城となったとされています☆
現在、城郭の大半は畑(もう使っていなさそう)になっています☆東側には空堀が残っているのですが下草で全く分からなかった☆堀の端は山斜面に落ちているのですが竪堀状に人工的な手が入っている事が確認出来ました♪
2021年09月08日 順☆散歩征夷大将軍508+23
日在城
軽い気持ちで行くと遭難、もしくは大怪我することができます。自分が今までに攻めたお城の中では、最強とまでは言いませんが、「魁!男塾」に出てきた「厳娜亜羅(ガンダーラ)十六僧」の1人に入るくらいのレベルと言っていいでしょう。
まず、自分は岸岳城方面から県道38号を南下→松浦川を渡るすぐ手前で右折→突き当たりを左折→少し行った右側(山側)に林道があるのでそこから登りはじめました。
◼️序盤…林道途中に石積あり。ただしこれは近年作られたものでしょうね。道は途中から薮化するのでやや嫌な予感はしつつも何とか登れたんですけど、しばらく行くと行き止まりになり、その先の斜面が擁壁(?)工事されていたり、岩の絶壁だったりして、登れそうなところが見あたらず…すでにここで引き返したくなりますが「ゆけ!ゆけ!川口浩!」を歌いながら気持ちを奮い立たせます。
◼️中盤…何とか行けそうな斜面を無理やりよじ登っていきました。なのに、岩の絶壁に阻止されること数度、その度に迂回せねばならず心が折れまくります。GPSを確認しても電波の状態が悪くて城の正確な位置がなかなか把握できず、もう本気で帰ろうかと思ったものの「できる♪できる♪君ならできる♪」と歌いながら気持ちを奮い立たせます。
◼️終盤…登山アプリで記録していた自分の進軍ルートを確認すると、城の南から東側を通って、北側へ回り込んでいました。その辺りからは45度くらいの崩れやすい急斜面が延々と続き(もちろんそれまでも急斜面は多い)、そこを木に掴まりながらなんとか登っていきます。万一足を踏み外したら10m以上滑り落ちていくようなところもあり、高いところが苦手な自分はここで本気で戻ろうと思ったものの(以下略)。
◼️遺構
薮の中を迷走すること約45分。急斜面を登りきると、そこは堀切と思われる場所でした。そこから東へ進むと二段構えの郭があり、二段目はそこそこの広さがありました。また、堀切から西は尾根が続きますがこちらはあまり郭っぽくはありません。南側は超深くて幅広の堀(ほぼ自然地形?)になっています。堀底も郭の1つかもしれません。なお、電波が悪くて正確にはわかりませんでしたが、城マークは堀切西の郭の切岸付近と思われます。ただ個人的には堀切東上段のほうが主郭かなと感じました。
というわけで、楽なルートをご存じの方からの情報をお待ちしております。
2016年05月07日 水瀬筑後守名雪
日在城
日在城の入口は、大川野駅と駒鳴駅の中間にある、構地区にある。付近に駐車場らしきものはなく、攻める場合にはどちらかの駅から徒歩で行くしかない模様。県道沿いはまだ携帯の電波入るが、登り口付近になると、電波は微弱となる。実際に登っている訳ではないが、基本は山登りになると思われるため、それなりの準備が必要。