志久城
志久城([塚崎城 周辺城郭])
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志久城の口コミ情報
2023年12月10日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
佐賀県の武雄市の北方町にある【志久城と稲主神社】♪
志久城の北には長崎街道があり唐津方面への道を分岐し北側には志久峠を経て多久へ通じる交通の要衝地となります♪南側は六角川が同様に東西に流れます♪南、東側は山間に沿う様に佐賀平野部が続き、西側には蓮華王院領、鎌倉時代には橘薩摩氏の所領でありましたが、室町時代の始めには塚崎庄に含まれ、塚崎城主・後藤氏の所領と続きます♪
この、志久城の詳細は不明です。城主は加々良氏とも云われています☆この加々良氏ですが、何者か?イマイチ判りませんが、九州探題職に就いていた渋川氏の子孫としての、出てくる人物か?と思われます♪
中でも渋川氏重の子孫は『加々良氏』を称して後藤氏に属していて、戦国末期には塚崎城主・後藤純明の子である兼明を養子に迎えています♪恐らくこの、『加々良氏』は同一族と思われます♪この渋川一族は近世に入ると、佐賀藩、鍋島氏・大村氏の家臣として仕えた事も知られています♪
志久城がある、志久集落は、南北朝時代、更には戦国時代には、その村名を確認出来ます♪長嶋荘の内となっています♪
応永4年(1397年)幕府が九州探題の渋川満頼をして、橘薩摩氏の庶流・渋江性淳の長嶋荘内、志久村以下を安堵しています♪
この渋江氏は、嘉禎2年(1236年)に、長嶋荘惣地頭として、讃岐国から入部した、橘薩摩公業の子、橘薩摩公義を始祖として、橘薩摩公義の3子、公村が渋江氏を称し、公茂が牛島氏を公光が中村氏を称しています♪が、志久城の『加々良氏』の事はやっぱり、判らず仕舞いでした。
天正2年(1574年)に、龍造寺隆信が、須古城主・平井経常の戦いで、遂には須古城が落城するのですが、この時龍造寺隆信は、須古城を隠居城として改修しています♪
龍造寺隆信が多久長信(龍造寺長信です♪龍造寺周家の3男)に宛てた文章の中には『云須古、普請申付候 志久、焼米、山口、多久之夫丸鍬鎌被申付』とあり、須古城の城普請に志久村は駆り出されています♪
他にも、龍造寺隆信書状の中に『云長三構、今一所 堀ほらせ度候 一円夫丸事闕候 志久村之者共江被申付 ほらせられ候』とあり、長三構の濠を掘る作業に動員されていた様です♪
現在、高まる丘のみが残りますが、後世の改変によって、城があったのかも、判らない状況になっています♪が、歴史はそこにあったのです♪
北側、領内にある稲主神社は宝治元年(1247年)武雄領主・後藤清明が創建したと伝わります♪