蟻尾城(ありおじょう)
蟻尾城の基本情報
通称・別名
- 有尾城、在尾城、蟻尾山城
所在地
- 佐賀県鹿島市大字三河内字蟻尾他
旧国名
- 肥前国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 大村家徳
築城年
- 文正元年(1466)
主な改修者
- -
主な城主
- 大村氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)、竪堀
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
鹿島城(佐賀県鹿島市)[2.0km]
常広城(佐賀県鹿島市)[4.1km]
湯野田城(佐賀県嬉野市)[9.0km]
潮見城(佐賀県武雄市)[9.6km]
おつぼ山神籠石(佐賀県武雄市)[9.9km]
須古城(佐賀県杵島郡)[10.3km]
重城(長崎県東彼杵郡)[11.8km]
塚崎城(佐賀県武雄市)[12.2km]
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佐留志城(佐賀県杵島郡)[16.8km]
蟻尾城の解説文
蟻尾城の口コミ情報
2023年05月16日 気分爽快信濃守
山浦城[蟻尾城 周辺城郭]
山神社の近くに登山者用駐車場がありました。登城路は、石、岩だらけで、雨上がりだったこともあり、かなり時間をかけて慎重に登りました。色々な石積み、路を塞ぐ巨石、岩盤の切り通し、岩盤堀切と、とにかく石が沢山あります。郭は、尾根に造られた細長いもので、主郭の側面部には石積みを確認できます。随所に案内板があるので、安全に頂上まで辿り着けましたが、下手に直登りすると側面の高い岩場に阻まれ大変なことになりそうです。
①登城路には巨石
②途中に色々な石積みがある
③南端には丸い石がゴロゴロ
④途中で平たい石になる
⑤主郭手前の岩盤堀切
⑥主郭
⑦北端の竪堀
⑧主郭側面の石積み
2021年05月17日 龍馬備中守【備中の麒麟児】
山浦城[蟻尾城 周辺城郭]
佐賀県の鹿島市にある山浦城☆別名を原城と呼びます☆南北に木庭川と中川との間に挟まれた北へ伸びた山塊☆西蔵寺の背後の標高333mの城山に築かれています☆地元のおじいちゃん達の必死の整備の賜物で登山道は整備されました☆
コロナ前に山城イベントをしていてザッと100人位が来てくれたと嬉しそうに話してくれました♪♪♪嬉しい事ですね♪
城主・原氏の城郭は正に要害地形に相応しい城郭です☆南北に細長く伸びた尾根に曲輪を配してます☆元々、岩盤が色濃く出ている山塊は石垣、石積みを沢山使ってます☆総石積み、石垣だったのかなぁ〜??と言う位、石、岩、に溢れてます☆独特の石積みをしていて例えるなら…信濃国の布積みの様なそんな積み方をしています☆鋭く尖り岩盤に守られた城郭は蟻尾城の支城の一つで藤津・大村氏の城郭だと思われます☆
千葉城、小城の千葉氏に包囲された蟻尾城☆時の城主である大村家親は攻められ落城…☆
本城に退いたと伝わりますが、恐らく尾根伝いに繋がる、この山浦城に退いたと思われます☆
西蔵寺の背後には原屋敷、城平と言う地名が残ってます☆山頂まで城道と呼ばれる山道が続き、此方が大手道と思われます☆
地元のおじいちゃんが呼んでいた原氏の墓と呼ばれる場所が在って中世末期の板碑を祀っています☆恐らく…原氏の墓じゃないかな〜?
原氏は藤津大村氏の支族と考えます☆
大手と思われる山道へも石垣が登りながら土橋状に展開します☆
こんな城郭は見た事無くって凄く興奮しました☆地元の城郭を支えるおじいちゃん達!!
頑張って下さい☆また近々行きますね☆
個人的には肥前の山城の中でオススメの1城です☆皆様も是非是非行かれて下さい♪
織豊系の石垣とかでは無いんですが、あの石量は魅力的です♪
独自に造ったのかな〜?
だとしたら…スゲ〜w
2017年10月17日 カーネル
蟻尾城
長崎線 肥前鹿島駅から
駅から真南に県道309号線を歩く。交通量が多いので注意です
15分ほど歩き、右手の旭ヶ岡公園が鹿島城で、見どころは鹿島高校前の赤門でしょうか
ここには、案内板と石垣がいっぱいあります。学校の周囲を石垣沿いに歩き、鹿島城から南西にある、鹿島市陸上競技場を目指します
トラック・球場の南側を山に向かって歩くと正面に蟻尾山公園の看板があり、左脇から山道を登ります。緩い坂道を上ると2つ祠が祭られた広場にでますので、西の竹藪へ突入します
竹やぶは、道らしき物はありませんが、葉の密度が低く、高低差もないので、比較的楽に抜けられます
竹やぶを抜けると、石組みや曲輪が多数あります
来た道を戻り2時間でした
高校の裏で地元のおじさんと立ち話をした時「ありお山に登ります」と話をしたのですが、麓の信号には「ぎび山」と書いてあった。話通じてたのかな・・・
蟻尾城の周辺スポット情報
山浦城(周辺城郭)
歴史
鎌倉時代から室町時代にかけて藤津地方に勢力をふるっていた大村氏は、小城の千葉市に侵攻に対する防備を固めるため、大村家徳が文正元年(1466)に在尾山に城を築いた。しかし、文明9年(1477)小城の千葉介胤朝の軍に攻められて落城し、時の城主大村家親は尾根伝いに能古見本城の方へ逃げのびた。この落城に際しては、納富分の泣子観音(泣きびすさん)の伝説や、西牟田緑の地名由来(緑姫)などの悲話も伝えられている。立地・構造
城の構造は、東の尾根沿いに登城口があって、登城口を含む東側と西側の尾根一帯には堀切や竪堀が設けられている。南と北は天然の断崖で、自然地形を利用した要塞である。主格曲輪の周囲には土塁を築き石垣を積んでいた痕跡もいたるところに残っている。東西約500mという鹿島藤津地方における最大規模の山城で、鹿島平野から佐賀平野までを一望できる立地に在り、戦略拠点として重要な役割を担っていたと考えられる。戦国時代の山城は戦時拠点であるため、山麓や平地に平常の館が設けられている例もあるが、蟻尾城についてはその詳細は不明である。一方で、蟻尾山の南東中腹には「百堂」「伽藍さん」の地名も残されており、氏寺の性格を有す寺院が近くに建立されていた可能性がある。
現在、山頂近くの尾根上には「大天狗」の石祠と、永正9年(1512)平常親によって造立された「弁財天」の石殿が祀られていて、一般に豊前坊さんと呼ばれています。4月と7月の2回、若殿分区によって豊前坊さん籠りが催されています。