蟻尾城(ありおじょう)
蟻尾城の基本情報
通称・別名
- 有尾城、在尾城、蟻尾山城
所在地
- 佐賀県鹿島市大字三河内字蟻尾他
旧国名
- 肥前国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 大村家徳
築城年
- 文正元年(1466)
主な改修者
- -
主な城主
- 大村氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)、竪堀
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
鹿島城(佐賀県鹿島市)[2.0km]
常広城(佐賀県鹿島市)[4.1km]
湯野田城(佐賀県嬉野市)[9.0km]
潮見城(佐賀県武雄市)[9.6km]
おつぼ山神籠石(佐賀県武雄市)[9.9km]
須古城(佐賀県杵島郡)[10.3km]
塚崎城(佐賀県武雄市)[12.2km]
鳥甲城(長崎県大村市)[13.9km]
松岳城(長崎県東彼杵郡)[15.6km]
佐留志城(佐賀県杵島郡)[16.8km]
蟻尾城の解説文
蟻尾城の口コミ情報
2024年08月29日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
浜崎城[蟻尾城 周辺城郭]
佐賀県の鹿島市の湯ノ峯にある【浜崎城】現在は住宅地の中にある高台が城域と思われます♪天満宮の西側に唯一堀切の名残と土塁状の高まりがある事のみです♪調べても調べても詳細解らずの城郭です…。天満宮のある台地上の北端が浜崎城と伝わります♪有明海に面した港を浜津と呼び有明海の海上交通、眼下には長崎街道多良往還が走る海上、陸上の要地として栄えた場所でもあります♪
別名を浜城と呼ばれるこの城郭は同丘陵上に立地する臥龍城(北西側)とは、谷間1つを挟み直ぐの場所に立地しています♪
城郭詳細全て不明です。
が、臥龍城自体は鎌倉時代(1303年)に原長門守貞光が砦を築いたのが始まりとも伝わっている為、臥龍城に関連した城郭である事は間違いないと思います。この原氏の先祖は筑後国原町(現福岡県朝倉市原鶴)と伝わります。原長門守貞光は祖先の菩提寺として原山知恩寺を今の泰智寺の場所に建てていますが、臥龍城はその後の合戦で消失し、原山知恩寺は浜宿(江戸時代の宿場町)へ移転しています。
戦国時代の原氏の動向として、原豊後守氏長は原城(山浦城)、有尾城(蟻尾城)、塩田の3城を築き、自らは原城(山浦城)に居城し、弟の原右衛門太夫氏政を有尾城(蟻尾城)の城主として、三男の原山城守直景を塩田の城主としています。近隣にある松岡城は鎌倉時代には大村氏の藤津郡支配の拠点となり、戦国時代に有馬氏が龍造寺氏との勢力争いを広げた際には、有馬氏の拠点となった事を見ると、浜崎城は、臥龍城同様に多良往還を押さえる城郭だったと考える事が自然ですね。
大村氏が文明9年(1477年)蟻尾城主・大村家親が小城の千葉氏によって攻められた時『本城』に逃れたと云われていて、これがこの原氏の本城である山浦城と考えられている事から原氏は大村氏の家臣であったのでしょう♪
浜崎城のある天満宮には五輪塔の残片も残っていました。が、結果的に浜崎城の歴史は解らず仕舞いでしたが…が、浜崎城が先に出来た城郭で、臥龍城が後々に浜崎城を取り込んだ?浜崎城と臥龍城は時代感が違う城郭では無いか?直線200m位の場所になる為、後々は臥龍城の出丸的な要素として機能したんじゃじゃ無いかな〜?感じました♪
2024年08月25日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
松岡城[蟻尾城 周辺城郭]
佐賀県の鹿島市の野畠にある松岡城♪松岡城は浜川の河口から約1キロ上流で、松岡神社の裏手一帯の丘陵地に築かれていた城郭です♪現在は会社が建設されていて地形は変わり、遺構はほぼ消滅しています。松岡城は戦国時代、島原有馬氏の支城群の1城で、天正4年(1576年)頃は、北鹿島の横造城、塩田の鳥附城と共に、浜の松岡城として、龍造寺方に対する最前線の城として機能しました。
藤津郡志襍俎(鹿島鍋島家蔵)には『永正十一年五月、高来の有馬左衛門尉尚鑒(※「鎮西志」には越前守義貞とあり)伊佐早の西郷入道宗雪(「鎮西志」に石見守とあり)両勢を以て、彼杵へ発行し、大村日向入道禅賢を攻めて打戦ふ。禅賢軍に利を失ひ、有馬に向かつて和を乞へり。然る間、有馬これを免して軍を止め、即ち大村・西郷の勢を一つに合せ、有馬主馬介純長を先陣にうち、千葉興常が領内藤津郡へ打入り所々を放火し相働く。此時千葉が塩見の城代岩部常陸介敵を防いで討死す。かくて有馬軍兵翌年に至り、藤津・杵島間に在陣し、此年浜の松岡の城を築く』とあります。藤津、杵島郡は交通の要衝である事もあり、有馬方はこの地が欲しかったのでしょう。有馬氏VS千葉氏の戦いの末に出来た城郭だと記しています♪
但し松岡城は、有馬氏が藤津を支配する前に大村氏が築いたとも云われている為、永正11年(1514年)に有馬氏が城を築いたというのは、改修したという事なのか?修復したという事なのか?イマイチ判りませんが、大村氏もまた、有馬一族の為に、まぁ有馬方の城郭である事は間違いありません♪
天文年間頃(1532年〜1555年頃)武雄の後藤氏が藤津に侵入し、松岡城を攻撃したが敗れて退いています。その後この城を本拠として、有馬氏の一族は横造城、鷺の巣城、鳥附城などの支城にあって、深町氏・岩永氏などの部将を配置して龍造寺氏に相対しました。
天正4年(1576年)龍造寺隆信の横造城の攻防戦に敗れた有馬勢は大きな打撃を被り、松岡城も他の諸城と共に龍造寺氏の勢力下に組み込まれています。龍造寺隆信は有馬氏への押さえとして、松岡城に徳島氏を配置しています。
松岡城があったと想定される一帯から、昭和44年、弥生時代後期の石棺二基が発見されています。写真の通り松岡神社しか残っていませんが、そこはかつては丘陵地(松岡山)があったのです。
因みに松岡神社に関しては『鹿島志』に以下の様にありました。『松岡山は浜津の上に在り 三面谷を連ね 境邃く塵少し 青篁翡松相錯り 山中に宮を秘す 素盞鳴尊を勧請す。故に祇園宮といふ』
松岡神社は平安時代の寛弘年中(1004年〜12年)に大村直澄が建立、鎌倉時代未期の嘉元3年(1305年)に地頭大村某によって整備され、室町時代の応仁年間(1467年〜1469年)現在地に遷座されたと伝わります♪
大村直澄はその実在について疑問のある人物ですが、松岡神社近くの古枝字大村方は大村氏の長年にわたる居館のあった所と推定され、その氏神として創建したものなのでしょう。大村氏の藤津支配が確立していた、鎌倉時代から室町時代にかけてが盛時であったのでしょう。
字名として、陣ノ上、城下、犬の馬場、馬場添など城にまつわる地名が残っています♪
肥前狛犬が可愛かった〜♪
2024年08月24日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
秀岡城[蟻尾城 周辺城郭]
佐賀県の鹿島市(字音成)にある【秀岡城】♪肥前七浦駅裏側(有明海と反対側)南側には黒木川が有明海に流れ込む河口付近の丘陵地で、現在は天子神社の境内の場所が城郭であります♪多良岳の噴火活動により造られた地形は雲仙島原同様に、有明海に伸びる舌状台地を造り出しました♪この多良岳から伸びる舌状台地が有明海に伸びる、先端の一角に城郭は形成されました♪
建保年間頃(1213年〜1219年)相馬中務庄司によって築かれたと云われていますが、それ以外は不明の城郭となります。天子神社の背後には堀切状の切通しがありますが、現在は農道となっている為、何とも言えません。
かつて、日出岡社とも呼ばれ、七浦郷の中の鎮守神として崇められました♪相馬中務庄司が日出岡社を城の守護社とし、天子宮と改めたと伝わります♪戦国時代、龍造寺隆信もこの神社を厚く信仰し、神楽料として山林を寄付しています♪江戸時代には佐賀本藩領となっていますが、今も神楽山と呼ばれる土地が残っています♪同江戸時代には伊能忠敬測量隊もこの地に来て宿泊しています♪
天子神社の祭神は農業の神である瓊瓊杵尊で天平年間(729年~748年)に日向国高千穂の大神を分祀して始まったと言われています♪9月の七浦秋まつりでは、佐賀県の重要無形民俗文化財に指定されている『音成の面浮立』が天子神社に奉納されます♪
ちなみに、この鹿島市南方にある、太良・多良の地名は平安時代初期(713 年以降)に編纂された肥前国風土記において当地を 訪れた景行天皇が食物が豊かに足りている豊足(ゆたたり、たらい)の村と表現された事に由来すると伝えます♪古くからある地名なのであります♪
2023年05月16日 気分爽快豊後守
山浦城[蟻尾城 周辺城郭]
山神社の近くに登山者用駐車場がありました。登城路は、石、岩だらけで、雨上がりだったこともあり、かなり時間をかけて慎重に登りました。色々な石積み、路を塞ぐ巨石、岩盤の切り通し、岩盤堀切と、とにかく石が沢山あります。郭は、尾根に造られた細長いもので、主郭の側面部には石積みを確認できます。随所に案内板があるので、安全に頂上まで辿り着けましたが、下手に直登りすると側面の高い岩場に阻まれ大変なことになりそうです。
①登城路には巨石
②途中に色々な石積みがある
③南端には丸い石がゴロゴロ
④途中で平たい石になる
⑤主郭手前の岩盤堀切
⑥主郭
⑦北端の竪堀
⑧主郭側面の石積み
2021年05月17日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
山浦城[蟻尾城 周辺城郭]
佐賀県の鹿島市にある山浦城☆別名を原城と呼びます☆南北に木庭川と中川との間に挟まれた北へ伸びた山塊☆西蔵寺の背後の標高333mの城山に築かれています☆地元のおじいちゃん達の必死の整備の賜物で登山道は整備されました☆
コロナ前に山城イベントをしていてザッと100人位が来てくれたと嬉しそうに話してくれました♪♪♪嬉しい事ですね♪
城主・原氏の城郭は正に要害地形に相応しい城郭です☆南北に細長く伸びた尾根に曲輪を配してます☆元々、岩盤が色濃く出ている山塊は石垣、石積みを沢山使ってます☆総石積み、石垣だったのかなぁ〜??と言う位、石、岩、に溢れてます☆独特の石積みをしていて例えるなら…信濃国の布積みの様なそんな積み方をしています☆鋭く尖り岩盤に守られた城郭は蟻尾城の支城の一つで藤津・大村氏の城郭だと思われます☆
千葉城、小城の千葉氏に包囲された蟻尾城☆時の城主である大村家親は攻められ落城…☆
本城に退いたと伝わりますが、恐らく尾根伝いに繋がる、この山浦城に退いたと思われます☆
西蔵寺の背後には原屋敷、城平と言う地名が残ってます☆山頂まで城道と呼ばれる山道が続き、此方が大手道と思われます☆
地元のおじいちゃんが呼んでいた原氏の墓と呼ばれる場所が在って中世末期の板碑を祀っています☆恐らく…原氏の墓じゃないかな〜?
原氏は藤津大村氏の支族と考えます☆
大手と思われる山道へも石垣が登りながら土橋状に展開します☆
こんな城郭は見た事無くって凄く興奮しました☆地元の城郭を支えるおじいちゃん達!!
頑張って下さい☆また近々行きますね☆
個人的には肥前の山城の中でオススメの1城です☆皆様も是非是非行かれて下さい♪
織豊系の石垣とかでは無いんですが、あの石量は魅力的です♪
独自に造ったのかな〜?
だとしたら…スゲ〜w
2017年10月17日 カーネル
蟻尾城
長崎線 肥前鹿島駅から
駅から真南に県道309号線を歩く。交通量が多いので注意です
15分ほど歩き、右手の旭ヶ岡公園が鹿島城で、見どころは鹿島高校前の赤門でしょうか
ここには、案内板と石垣がいっぱいあります。学校の周囲を石垣沿いに歩き、鹿島城から南西にある、鹿島市陸上競技場を目指します
トラック・球場の南側を山に向かって歩くと正面に蟻尾山公園の看板があり、左脇から山道を登ります。緩い坂道を上ると2つ祠が祭られた広場にでますので、西の竹藪へ突入します
竹やぶは、道らしき物はありませんが、葉の密度が低く、高低差もないので、比較的楽に抜けられます
竹やぶを抜けると、石組みや曲輪が多数あります
来た道を戻り2時間でした
高校の裏で地元のおじさんと立ち話をした時「ありお山に登ります」と話をしたのですが、麓の信号には「ぎび山」と書いてあった。話通じてたのかな・・・
歴史
鎌倉時代から室町時代にかけて藤津地方に勢力をふるっていた大村氏は、小城の千葉市に侵攻に対する防備を固めるため、大村家徳が文正元年(1466)に在尾山に城を築いた。しかし、文明9年(1477)小城の千葉介胤朝の軍に攻められて落城し、時の城主大村家親は尾根伝いに能古見本城の方へ逃げのびた。この落城に際しては、納富分の泣子観音(泣きびすさん)の伝説や、西牟田緑の地名由来(緑姫)などの悲話も伝えられている。立地・構造
城の構造は、東の尾根沿いに登城口があって、登城口を含む東側と西側の尾根一帯には堀切や竪堀が設けられている。南と北は天然の断崖で、自然地形を利用した要塞である。主格曲輪の周囲には土塁を築き石垣を積んでいた痕跡もいたるところに残っている。東西約500mという鹿島藤津地方における最大規模の山城で、鹿島平野から佐賀平野までを一望できる立地に在り、戦略拠点として重要な役割を担っていたと考えられる。戦国時代の山城は戦時拠点であるため、山麓や平地に平常の館が設けられている例もあるが、蟻尾城についてはその詳細は不明である。一方で、蟻尾山の南東中腹には「百堂」「伽藍さん」の地名も残されており、氏寺の性格を有す寺院が近くに建立されていた可能性がある。
現在、山頂近くの尾根上には「大天狗」の石祠と、永正9年(1512)平常親によって造立された「弁財天」の石殿が祀られていて、一般に豊前坊さんと呼ばれています。4月と7月の2回、若殿分区によって豊前坊さん籠りが催されています。