三重津海軍所(みえつかいぐんしょ)

三重津海軍所の基本情報

通称・別名

御船手稽古所、佐賀藩海軍所

所在地

佐賀県佐賀市川副町大字早津江字元海軍所

旧国名

肥前国

分類・構造

海軍所

天守構造

なし

築城主

佐賀藩

築城年

安政5年(1858)

主な改修者

主な城主

佐賀藩

廃城年

不明

遺構

発掘調査[ドライドック]

指定文化財

世界遺産(明治日本の産業革命遺産)、国史跡(三重津海軍所)

再建造物

説明板

周辺の城

鹿江城(佐賀県佐賀市)[1.9km]
津村城(福岡県大川市)[3.4km]
蓮池城(佐賀県佐賀市)[4.7km]
水ヶ江城(佐賀県佐賀市)[5.1km]
佐賀城(佐賀県佐賀市)[5.5km]

三重津海軍所の解説文

三重津海軍所(みえつかいぐんしょ)とは佐賀藩が1858年(安政5年)に設立した蒸気船等の船の修理・造船施設で、西洋船運用のための教育・訓練機関も兼ね備えていた。藩所有の艦船ならびに幕府から委託された蒸気船の運用を行った。実用的な国産初の蒸気船である「凌風丸」を製造したといわれている。近年、発掘調査と文献調査が進められ、2010年に世界遺産(「九州・山口の近代化産業遺産群」)暫定リストへ新規登録された。

地理的環境
三重津海軍所は佐賀市川副町大字早津江字元海軍所に所在し、佐賀県と福岡県の境界を流れる筑後川の支流である早津江川河口に位置する。海軍所のあった場所は佐賀藩領の南東端にあたる。早津江川を挟んで、対岸は福岡県大川市の大野島で、藩政期は柳川藩領である。現在は公園化され、護岸も整備されているが、海軍所当時の周辺景観を比較的良くとどめている。

海軍所の設置と運営
1858年(安政5年)に佐賀藩(鍋島家)が以前からあった「御船屋」を拡張して設置した海軍の伝習機関(当時の記録には「三重津」または「御船手稽古所」との名称で記載されている)である。1859年(安政6年)には幕府の「長崎海軍伝習所」閉鎖に伴い、長崎海軍伝習所で学ばせていた多くの佐賀藩士の士官教育を継続するためと、所有する西洋船の修理場等が必要となったため、従来からあった施設の範囲と機能を増設した。海軍所では航海、造船、鉄砲等の学科や技術教育が行われたほか、西洋式蒸気船・帆船等の根拠地として蒸気船の修理・製造が行われ、オランダ製の木造帆船である「飛雲丸」や木造スクリュー蒸気船である「電流丸」、木造外輪蒸気船「観光丸」(幕府からの委任)が運用されていた。佐賀藩士が長崎海軍伝習所で建造した木造帆船「晨風丸」もあった。1865年(慶応元年)には国産初の実用蒸気船である「凌風丸」を完成させたといわれる。

三重津海軍所の施設
三重津海軍所の様相については「三重津海軍所図」(鍋島直正公傳第5集巻頭所収)が残されている。この「三重津海軍所図」によると、海軍所の機能は北から、「海軍寮(役所・学校機能)」エリア、「舟入場」エリア、「訓練機能」エリア、「製罐所・船渠」(蒸気缶製造・ドック機能)エリアに分かれていたことが読み取れるが、絵図の作成された年代が三重津海軍所が運用されていたよりも後世の作であることから絵図の信憑性を疑問視する意見があった。ただ、発掘調査が2001年 - 2003年度(川副町教育委員会・諸富町教育委員会)と、2009〜2011年度(佐賀市教育委員会)に実施され、多くの金属加熱炉や、船渠の護岸遺構、堤防盛土、建物跡、広範囲に大規模な造成工事跡が確認されたことで、「三重津海軍所図」に描かれた内容が概ね(実際と異なる箇所も多く検討の余地は残っているものの)追認できることが明らかになった。また、発掘調査に伴い実施されている古文書調査においても、幕府蒸気船である「千代田形」の汽缶製造を三重津の施設を利用して行ったことや、藩艦隊根拠地を「三重津」に定めたことが判明した等の報告がされており、同地に船舶機関に加え、海員(士官・水夫)教育や蒸気缶製造等の西洋船運用に関る施設群が存在していたものと考えられている。

発掘調査の成果
2009〜2011年度に世界遺産(「九州・山口の近代化産業遺産群」)登録に向けての発掘調査が実施され、修理・造船機能のエリアで、石組炉等の複数の金属加熱炉が検出されたほか、大型の廃棄土坑から金属加熱炉で排出された鉄・銅滓や燃料として使用された木炭・石炭が大量に出土したと報告され、鉄の鍛冶や銅の鋳物が盛んに行われていたものと考えられている。これらの調査成果は、当時最新鋭であった蒸気船を運用した三重津海軍所跡が、江戸時代に培われた在来の技術で支えられていたことを示しており、近代日本成立への歴史的変遷過程を辿る上で貴重な資料となっている。また、小型の銅製品や鞴(ふいご)の羽口、坩堝、木製車輪状の遺物等が出土していることから、造船所というよりも、船に関わる金具の修理や部品製作を行う施設であったとの位置づけがなされつつある。このほか、2010年の発掘調査では船渠跡(ドック)推定地で丸太材と木杭、板材を縦横上下に複雑に組み合わせた木組の階段状護岸遺構が発見されたほか、砂と粘土を交互に積み上げた大規模な造成工事が行われていたことが報告されており、三重津海軍所が藩を挙げての大規模な事業であった根拠のひとつとなっている。このほか、三重津海軍所の特徴的な遺物として、「海」「舩」「役」といった海軍所(公的機関)を連想させる文字銘と「灘越蝶文」」(なだごしちょうもん)と呼ばれる文様を組み合わせた肥前磁器が挙げられる。「灘越蝶文」は蝶が海の波間を越える姿を描いた一見不思議(日本在来の蝶に海を越えて飛来するものはいない=少なくとも当時、自然界でみられなかった姿)文様で、三重津海軍所以外では「鍋島藩窯」(鍋島焼)等に類例が散見(「染付灘越蝶図皿」田中丸コレクション・「染付灘越蝶文皿」佐賀県立九州陶磁文化館所蔵)されるのみである。海軍所ではこの「灘越蝶文」を描いた椀や皿等が多数出土していることから、「蝶が波濤を越えていく姿」(「灘越蝶文」)に激動期に設立した藩海軍所の姿を投影した特注品と考えられている。用途としては、海軍所備品や艦載食器が想定されており、「志田窯」(佐賀県嬉野市塩田町)等の自藩内の窯で製作されているという。また、洋式船舶用綱具(ロープ)の可能性がある遺物が出土したことが新聞報道されており、海軍所の船渠が蒸気船も含めた洋式船を運用していたことを裏付ける遺物となる可能性がある。

海軍所の終焉とその後
三重津海軍所の閉鎖された年代は明らかではないが、1867年(慶応3年)に戊辰戦争に出兵する藩兵の乗船地になったとの記録が残っている。海軍所廃止後は1902年(明治35年)に佐賀郡立海員養成学校が設立され、佐賀郡立甲種商船学校、佐賀県立佐賀商船学校を経て1910年(明治43年)に佐賀商船学校となった。佐賀商船学校は1933年(昭和8年)に閉校(佐賀商船学校の機材類は現在の国立唐津海上技術学校に移管されたといわれる)するまで同地域の海員養成学校として多くの卒業生(800人以上)を海運業界へ輩出した。現在は三重津海軍所で活躍した佐野常民を記念した「佐野記念公園」となっており、現地に設置された説明版等で海軍所の施設配置等について確認できるように配慮されている。また、公園南端部にある海軍所の船渠(ドック)推定地には、佐賀藩が製造した蒸気船「凌風丸」の寸法を復元した船形の遊具が設置されており、国産初の実用蒸気船を実大で体感(形状はともかく)できる。公園隣接地には「佐野常民記念館」(佐賀市立)が建築され、佐野常民の偉業のみならず、三重津海軍所のレプリカや同時期の解説展示が常設されているほか、関連図書の閲覧もできる施設となっている。

参考文献
『大艦・巨砲ヲ造ル-江戸時代の科学技術-』佐賀県立本丸歴史館(開館1周年記念 平成17年佐賀県立本丸歴史館企画展図録) 2005年
秀島成忠『佐賀藩海軍史』原書房 1972年
中野禮四郎編『鍋島直正公傳』5巻 侯爵鍋島家編纂所 1920年...

三重津海軍所の口コミ情報

筑後守もんど様[2011年09月04日]
隣にある佐野常民記念館に詳しく説明してあります。
一部入館料がいります。
駐車場有り

筑後守もんど様[2011年09月04日]
幕末の1858年に佐賀藩が当時の技術の粋を集めて作った日本最初の海軍所

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