柳川城(やながわじょう)
柳川城の基本情報
通称・別名
- 柳河城、舞鶴城
所在地
- 福岡県柳川市本城町88
旧国名
- 筑後国
分類・構造
- 平城
天守構造
- 複合式層塔型[5重5階/1601年築/焼失(放火?)]
築城主
- 蒲池治久
築城年
- 文亀年間(1501〜1504)
主な改修者
- 田中吉政
主な城主
- 蒲池氏、立花氏、田中氏
廃城年
- 明治5年(1872)
遺構
- 曲輪、天守台、石垣、横堀(水堀)
指定文化財
- 市史跡(柳川城本丸跡)、国名勝(水郷柳河)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
蒲池城(福岡県柳川市)[2.8km]
佐留垣城(福岡県柳川市)[4.6km]
津村城(福岡県大川市)[5.0km]
鷹尾城(福岡県柳川市)[5.3km]
三重津海軍所(佐賀県佐賀市)[7.7km]
鹿江城(佐賀県佐賀市)[8.8km]
生津城(福岡県久留米市)[9.9km]
蓮池城(佐賀県佐賀市)[10.2km]
女山神籠石(福岡県みやま市)[10.5km]
城島城(福岡県久留米市)[11.0km]
柳川城の解説文
柳川城の口コミ情報
2024年08月04日 神薙兵部少輔
柳川城
柳川城は史跡と書かれたものがあったのと説明書きと多少の石垣の名残があったのみでした。すぐ近くに柳川高校がありました。
2023年07月02日 カズ@大高の信長
柳川城
残念な本丸、水濠だけ、川下り楽しめば御の字。と言うゾーンです。可能なら立花伯爵邸に泊まって、川下りすれば、良いですが、城巡りファンにとっては、イマイチ。立花宗茂泣いている、かな?
2023年05月15日 気分爽快陸奥守
柳川城
御城印を購入したので、一応城址にも行って来ました。ほとんど遺構は残っていないと聞いていましたが、その通りでした。ここは、御花と川下りで堀割りを楽しむのが良いかもしれません。心にゆとりができたら、川下り楽しんでみたいと思います。
2022年09月30日 マグロ常陸介祐平
柳川城
説明板の記載通り、中学校の片隅に小丘と石垣の一部が残るのみとなっています。訪れる人も少ないようで、草がヒザまで生い茂っていました。
2022年08月30日 虹雷 大宰大弐 サンダー
福厳寺 立花氏墓所[柳川城 寺社・史跡]
柳川藩主立花氏の菩提寺、本堂の裏に立花宗茂、立花道雪墓藩主のお墓があります。お参り可能です。
2022年08月30日 虹雷 大宰大弐 サンダー
田中吉政公墓所[柳川城 寺社・史跡]
真宗大谷派の真勝寺。田中吉政公の墓の上に本堂伽藍が建てられています。墓石が床下にあり、ご住職に許可をいただければお参りも出来るそうです。
2022年08月30日 虹雷 大宰大弐 サンダー
立花瑞松院墓所(立花宗茂公継室)[柳川城 寺社・史跡]
浄土宗瑞松院内に立花宗茂公の継室、立花瑞松院のお墓があります。非公開
2022年08月30日 虹雷 大宰大弐 サンダー
立花誾千代墓所[柳川城 寺社・史跡]
浄土宗の良清寺内にあるそうです。非公開です。
2022年08月02日 龍馬備中守【】
白山神社[柳川城 寺社・史跡]
福岡県の柳川市にある【白山神社】♪矢部川の支流の沖端川の右岸に立地します♪
吉開の中にある神社⛩の口コミとなります♪航空写真から見ると蛇行するクリーク(濠)に囲まれた小字、本村の中に取り込まれます♪
江戸時代には柳川藩領となり、柳川藩・家老の米多比鎮久の知行地となっています♪
立花氏の家臣で、立花四天王とも立花五城主の1人とも呼ばれています♪
この米多比氏は筑前糟屋郡・米多比山に居城した事から『米多比』を称する様になります♪中世の米多比氏は豊後国の大友氏に属した一族と、周防国の大内氏に属した一族に分かれていて周防国、大内氏滅亡後は宗像大宮司宗像氏貞に属し宗像氏・立花氏の境界となると古賀で、米多比一族同士で対峙したりしています☆
そんな米多比鎮久は立花宗茂と共に戦陣を歩んで行きますが…♪
関ヶ原の戦いで西軍に属した立花宗茂が改易されると一時、肥後国・熊本藩主の加藤清正に三千石で仕えています☆
肥後国・2代目の加藤忠広の時に起きたお家騒動『牛方馬方騒動』に巻き込まれ、証人として江戸に登った後に往時、陸奥棚倉にいた立花宗茂の預かりになります♪またまた共に歩む、米多比鎮久です♪
そして…大坂の陣の立花宗茂の功績は徳川幕府から認められ元和6年(1620年)に旧領の筑後国・柳川10万9,200石を与えられました☆米多比鎮久は呼び戻され番頭として千石を賜っています☆この時の知行地の1つが吉開になります☆この白山神社に米多比鎮久は石鳥居を寄進しています☆この白山神社には肥前狛犬❓なのかな〜❓似ている狛犬がいました☆
残念ながら、クリークの残る場所だったので城館、居館かと思いましたが、最後まで解らず仕舞いでした☆近世からは歴史が出てくるのですが、中世は…。。そういった集落は沢山在るんだろうな☆
そんな沢山の集落達✨少しでも歴史的な手掛かりがあるならば✨引き続きpickupしていこうと思います♪
2022年07月02日 すなちゃん武蔵守
柳川城
柳川城は、蒲池鑑盛によって建てられたらしいが、詳しい文献が無い。その後、立花宗茂や田中吉政らが大規模な改修工事を行なってゆく事となる。また、2回の焼失により払い下げられ、価値がなくなった。今は、柳城中学生の公園となっている。
2022年06月17日 龍馬備中守【】
白鳥城[柳川城 周辺城郭]
福岡県の柳川市にある【白鳥城】♪白鳥合戦の古戦場にもなっている白鳥城です☆
柳河城主(柳川城)である蒲池氏の支城群の1城でもあります♪矢部川下流、右岸に立地します☆
肥前の軍勢🆚筑後・肥後の連合軍が激しく
戦った場所☆
1581年に蒲池鎮漣は龍造寺隆信に猿楽の催しに誘われていて佐嘉に赴いた所を謀殺されています☆コレを契機に柳河へ侵攻して行く龍造寺氏です☆
筑後国の支配を狙う肥前の龍造寺家は龍造寺家治と鍋島直茂は兵1万を率いて山下城に籠る蒲池鑑広を攻め立てました☆
龍造寺氏が筑後に侵攻してくる事を予期していた蒲池鑑広は肥後の大津山河内守資冬(大津山城主)と和仁丹波守(田中城主)に援軍を求めていて筑後の諸将と共に連合し瀬高の下庄に陣を敷いています☆蒲池鑑広と肥前の軍勢は何度も刃を交え、疲れ果てた肥前の軍勢は、この白鳥の地へ退却☆そこへ鷹尾城に待機していた田尻鎮種と三池鎮実が、すかさず攻撃を仕掛けています☆蒲池方の肥後勢・田尻鎮種等の奮闘により一時優勢でしたが、多勢に無勢…しだいに兵力に優る龍造寺勢におされ敗走しました☆この戦いを白鳥合戦と呼びます☆
残る遺構としては濠、僅かに土塁が残っていました〜♪濠に関しては城郭に相応しい幅を持っています♪土塁は低土塁ではありますが、明瞭に残ります♪
2022年06月16日 龍馬備中守【】
垂見城[柳川城 周辺城郭]
福岡県の柳川市にある垂見城♪城郭は跡形も無く、現在は田んぼになっています♪遺構の痕跡は勿論ありません♪石碑だけが残っていました♪
筑後平野の南西部で矢部川の下流右岸に立地した平城となります♪
南部の平木ガラン付近からは弥生式の土器も出土していて、倉庫跡や住居跡、井戸跡も発見されていて古くから人々が根付いている事が分かります♪条里制の遺構も残っていて、三十六坪という地名も残っていました☆
この垂見城の築城年代は不明ですが周防国大内氏の家臣・陶美作守晴賢が筑後に侵攻した時に拠ったと云われています☆
同戦国時代には豊後国の大友軍・吉弘氏、田北氏に攻められて落城…。。
代わり辺春氏が垂見城に拠るも、蒲池鑑久に攻められ落城…。。
以降は、蒲池氏、柳川城、蒲池城の支城群として機能します♪
垂見常陸守が城主となりますが1581年に蒲池鎮漣は龍造寺隆信に猿楽の催しに誘われていて佐嘉に赴いた所を謀殺されています…。
そこから龍造寺隆信は、筑後・田尻氏を従え、柳川攻めを開始☆この柳川攻めの際に垂見城も落城したと思われます☆
妄想に妄想を重ね、心眼の眼で見る垂見城w
遺構は一切無しw究極の城リア攻めw
遺構なんて無くても良い♪ソコに歴史があるならば…(まぁ…🤔出来れば残ってて欲しいケド…😂)
2022年06月15日 龍馬備中守【】
今古賀城[柳川城 周辺城郭]
福岡県の柳川市にある【今古賀城】♪住宅地を縫う濠が中世城郭の姿を想像させます♪
塩塚川中流の右岸に立地します♪
集落の西部には塚が残り、鎌倉時代の土器が出土しています☆今古賀城は柳川城の支城群の1城として、蒲池氏の家臣、末松伊豆守が築城したと伝わります☆平浄庵には大乗妙典一千部の板碑、造立大乗妙典一千部法華二千部奉看読の板碑が残ります♪
この平浄庵は今は面影は無くて、今古賀コミュニティセンターがその場所となります☆
この、造立大乗妙典一千部法華二千部奉看読
の板碑は蒲池因幡入道鑑憲と妻・鶴姫夫婦の逆修碑となっています☆
蒲池因幡入道鑑憲は城内の山王宮に六地蔵を建立していますが、この六地蔵は現在、柳川市の出来町の長命寺に残ります☆
蒲池因幡入道鑑憲の墓はこの、平浄庵(今古賀コミュニティセンター)に残っている為、蒲池因幡入道鑑憲が城主だったのでしょう☆
1581年に蒲池鎮漣は龍造寺隆信に猿楽の催しに誘われていて佐嘉に赴いた所を謀殺されています☆そこから龍造寺隆信は、筑後・田尻氏を従え、柳川攻めを開始☆
今古賀城もこの時に落城しちゃったんでしょうね…。。
2022年06月12日 薩摩安房守義弘維新斎
柳川城
柳川藩11万石立花家の城跡が柳川城。西鉄柳川駅近くにある柳川川下りで、ゆっくりと1時間掛けて外堀、中堀、内堀と舟に乗って城跡近くまで行けます。今は、柳城中学校と柳川高校にある本丸跡の石垣が確認できます。
本丸跡に行くと石碑が設置されており、明治4年に天守閣等が焼失したことが非常に残念に思います。
2022年05月02日 583系備前守きたぐに
柳川城
さすが、水郷柳川。地図を見るだけで、幾重もの堀で囲んだのがわかり、ワクワクする城です。
できれば、車ではなく、駅から歩いて細い路地を通っていかれることをお勧めします。柳川城は堀で街の外郭を囲った惣構えの城。現在でも堀際に住居が並び、人々の生活の中に堀があるのが実感できます。まるで、現代の環濠集落で、その規模は奈良の稗田、若槻をしのぎます。
2022年03月10日 龍馬備中守【】
蒲船津城[柳川城 周辺城郭]
福岡県の柳川市にある【蒲船津城】♪またの名を次郎丸と呼びます☆塩塚川の中流右岸に立地した、柳川城を守る為の支城は蒲池氏属性の城郭となります☆
この場所からは弥生時代後期から古墳時代の土器が出土していたり、古くからの人々の生活の痕跡が出たりしています☆
平安時代末期には瀬高荘時代に造られたと云われる旧道が東西に走り、室町時代の五輪塔も残ります♪
そして戦国時代には蒲船津城へと繋がっていく歴史を持ちます☆
この蒲船津の地は大友家の筑後支配を始め、以降戦国期には龍造寺氏・大友氏の狭間で揺れ動き、蒲池氏・田尻氏の間を転々とします♪
天正10年(1582年)に蒲船津城主の蒲池益種が龍造寺勢力に敗れて以降は龍造寺四天王の1人、百武志摩守が城主になります☆百武志摩守が沖田畷の戦いで戦死すると、中野甚右衛門の時に激戦が行われました♪
豊後国・大友宗麟、家臣の戸次道雪と高橋紹運の大友家の風神雷神が攻めています☆沖田畷の戦いで、龍造寺隆信は戦死☆好機と捉えた大友軍は一気に龍造寺領へと攻め寄せました☆
龍造寺四天王である百武志摩守の妻である圓久尼は鍋島直茂の命により所謂、女城主(百武志摩守は沖田畷の戦いで戦死)としてこの城を守ろうと多くの旗指物を立てて防戦♪
籠城戦を展開している中で龍造寺方である中野式部が榎木津要害より援軍に駆けつけ圓久尼を助け共に戦いました☆
戦況不利と悟った戸次道雪・高橋紹運の軍勢は蒲船津城攻略を諦め撤退☆坂東寺へと撤退します☆この大友家の風神雷神はそのまま、榎津城(口コミ済)、酒見城(口コミ済)攻めを行いました、が結果的に龍造寺家晴の籠る柳川城を攻める取る今年は出来ませんでした☆
濠の名残を残しています☆
城郭の北側には熊野神社が残ります☆
2022年03月08日 龍馬備中守【】
塩塚城[柳川城 周辺城郭]
福岡県の柳川市にある塩塚城♪矢部川下流の右岸の平野部に立地します☆
目ぼしい遺構は消滅、濠の名残が僅かに残る程度となります☆
地名の由来は戦国時代に塩塚鎮貞が塩塚城に居城していた事により成立した地名と考えられます♪この塩塚鎮貞は柳川城主・蒲池鎮漣の弟、統安の子となります♪蒲池柳川城の支城群の1つという訳です☆
塩塚城の歴史と言えば…天正9年(1581年)に柳川城が落城した際に柳川城主・蒲池鎮漣の夫人や子、侍女達がこの塩塚城へ逃げ込みます☆が、結果的に龍造寺隆信や田尻鑑種らに攻められて108人が自害♪
蒲池氏百八人塚が残ります☆
蒲池氏の歴史はココで…終焉を迎えました☆
住吉神社、廻の濠は塩塚城の城域の濠と思われます☆その他怪しい箇所は何箇所かありました☆
2021年07月18日 陸奥守新九郎
柳川城
城郭遺構の残り具合は良くはありませんが、立花史料館の文化財は充実、素晴らしいです。柳川、ゆっくり散策したい良い町です。
2021年02月24日 明石家船上
柳川城
沖積地に作られた平城なので、現代の土木工事の技術では簡単に埋められてしまいます。江戸時代の輸送の主力は、舟運だつたので、本丸周囲の内堀、外堀、家老屋敷周囲の堀が残っています。
御花の中には、立花宗茂の馬廻役がかぶった金箔押しの桃形兜がたくさん残っています。金色桃形兜をかぶらせてもらうのは、名誉だったとか。
2020年12月27日 さすらいの征夷大将軍慶誾尼☆寧
柳川城
柳川高校と柳城中学校の間にちょんもらーとした本丸跡があります…
今回柳川城に行ったのには理由があります…
近くにある立花家資料館が新型コロナウイルス感染拡大の影響を受け、今年約2か月間の休館を余儀なくされ、再開してからも入館者数は前年の半分にも届かず、その危機的状態は現在も続いているそうです
運営費の大部分を入館料収入によって賄っている立花家史料館にとって、存亡の危機を意味しクラウドファンディングを開始(12月11日開始と同時に第一次目標はクリア)との話を聞き、グッズやお土産購入で少しでも応援したく来訪…
入館料は@700
(入館の際、体調確認の記入があります。感染拡大地域からの入館もしくは感染拡大地域経由での入館を問われる欄があります。該当の方は足をお運びになる前に電話で一度確認されたほうが良いかと思います。)
★柳川と言えば鰻ですね
時間があればちょっと離れてはいますが久留米市大善寺富松うなぎ黒田本店のせいろ蒸しオススメでございます
2018年08月13日 織田上総介晃司
柳川城
水郷・柳川川下りが観光の目玉になるので駐車場はあります(1回300円)
柳川高校と柳城中学校に囲まれ僅かに本丸が残るのみ。
治水事業で本丸の石垣を使用した為、方形の小高い丘に僅かに石垣があるのが今の柳川城です。
柳川はうなぎが名物です。
2015年11月08日 立花左近将監統虎
柳川城
《加藤清正公の陣跡情報》
柳川市から国道443号線を東へ向かい、三橋町の五捨町交差点を北へ約800m進むとコミュニティセンターあり。
その敷地内に加藤清正公の兜を連想させる石碑があります。
慶長5年(1600年)10月、関ヶ原合戦後に立花宗茂が籠る柳川城に対し黒田、鍋島、加藤の大軍が迫りつつ開城を勧めます。
立花宗茂は開城するにあたり、加藤清正が陣取った黒衣陣地に赴いて話し合いを行ったと言われています。
2013年03月13日 ひろり
柳川城
矢穴が残る石を見付けたのでUPしました。北東角部です。
天守台にはぐるりと浅いながらも土塁が見受けられます。後世のものだとしたら残念ですが堀が水路として残されていて、地図を見るだけでも城域が分かる楽しいお城です。
立花宗茂を祀る三柱神社の橋に使われている擬宝珠は、柳川城で使われていたものだそうです。
2012年11月11日 赤松貞明
柳川城
蒲池治久の頃は、現在の日吉神社のある場所に柳河城があったそうで…
蒲池鑑盛が、現在天守台跡がある柳城中学校の場所に城を建て変えたそうで…
本丸を頭に鶴の形をしていたと聞いたことがあります。
多分、比翼鶴の紋と同じ形だと思います。
その後、田中吉政が改築して世に知られる天守の写真や、絵巻のような柳河城になったそうです。
2012年06月08日 赤松貞明
柳川城
柳城中学校の周りに小さい堀がありますが、おそらく本丸の堀かと思われます。
中学校のテニスコートの裏に土が盛り上がったのが天守台跡かと…
石垣の石は…明治時代に干拓地の海岸の堤防に使われたらしいです。
柳川城の周辺スポット情報
立花氏庭園(松濤園)(遺構・復元物)
二の丸(遺構・復元物)
天守台(遺構・復元物)
本丸(遺構・復元物)
十時邸-武家屋敷(遺構・復元物)
旧戸島家住宅-武家屋敷(遺構・復元物)
戸島氏庭園(遺構・復元物)
小野家屋敷跡(遺構・復元物)
立花邸御花(遺構・復元物)
東庭園(遺構・復元物)
黒門橋(遺構・復元物)
蒲池夫人殉難の地 蒲池氏百八人塚(碑・説明板)
柳川城跡説明板(碑・説明板)
塩塚城(周辺城郭)
蒲船津城(周辺城郭)
今古賀城(周辺城郭)
垂見城(周辺城郭)
白鳥城(周辺城郭)
白山神社(寺社・史跡)
立花誾千代墓所(寺社・史跡)
立花瑞松院墓所(立花宗茂公継室)(寺社・史跡)
田中吉政公墓所(寺社・史跡)
福厳寺 立花氏墓所(寺社・史跡)
立花家史料館(関連施設)
川下り城門観光事務所(関連施設)
沿革
沖端川と塩塚川に挟まれた現在の柳川市街地に位置する。その創始についてはよくわからないが、戦国時代には蒲池城の蒲池氏の持ち城となり、天正9年(1581)には龍造寺方によって落とされている。同15年には筑前立花城主であった立花統虎(宗茂)が三瀦・山門・下妻三郡の領主として入城する。
しかし関ヶ原合戦で立花家は所領を没収、代わって三河岡崎から田中吉政が32万5千石の石高で柳川に入る。田中時代に柳川城の大改修が行われ、ほぼ現在の姿となったものと考えられる。元和6年(1620)に田中家は無嗣断絶となり、旧城主の立花宗茂が山門・三池の二郡および上妻・下妻・三瀦各郡の一部の併せて10万石の石高で再入城、以後明治維新まで立花家の居城となった。
概要
現在、城跡は市街地化によって堀は埋め立てられ、本丸周辺の石垣も明治時代以降の干拓の際に石材なども持ち去られ、大きく変容しているものの、街路などはほぼ現在も踏襲され、また江戸時代の絵図も豊富にあって、城の構造をつぶさに知ることが可能である。城の構造は、中心部分に本丸とニノ丸が並列し、その周りを曲輪が重層的に囲いこむ。それらの曲輪の周りには、幅約30mにも及ぶ水堀が造られていた。
本丸は方形の曲輪で、周囲は約8mの高石垣を構築、天守曲輪の他に隅櫓とそれらをつなぐ多聞櫓を塁線上に配していた。現在、本丸跡は柳城中学校の敷地となっており、五層の天守があったという高台や石垣が残されているが、高台も明治時代にかなり削られ、また石垣も昭和初期の耕地整備の際に築かれたものと思われる新しいものであり、城があったころの見る影は薄い。ただ、本丸周辺の石垣石材には矢穴を残したものがいくつかあり、城の石垣石材は幾ばくかは残されているようである。
本丸以外については、虎口部分を除いて石垣の使用はない。しかしながら、本丸、ニノ丸周りの曲輪群の塁線は、櫓などは見られないものの、塁線を屈曲させて横矢を効かせることができるような折れや張り出しをいくつも創出しており、土塁で固められていた。特に本丸・ニノ丸の南側の曲輪はいわゆる「馬出」が巨大化して一般曲輪化したものと評価でき、織豊系の築城技術が十二分に生かされた造りとなっている。なお現在、外郭部の土塁は「米多比土居」と呼ばれる一角を除いてはほぼ消滅してしまっている。
以上のように柳川城は本丸・ニノ丸を中心にそれらを広大な曲輪群で取り巻き、それらを水堀によって囲い込み、さらに北東側には町家群を置く、いわゆる「惣構」の形態を呈していた。
まさに田中吉政32万石の居城にふさわしい縄張りであったと言えるだろう。