柳川城(やながわじょう)

柳川城の基本情報

通称・別名

柳河城、舞鶴城

所在地

福岡県柳川市本城町88

旧国名

筑後国

分類・構造

平城

天守構造

複合式層塔型[5重5階/1601年築/焼失(放火?)]

築城主

蒲池治久

築城年

文亀年間(1501〜1504)

主な改修者

田中吉政

主な城主

蒲池氏、立花氏、田中氏

廃城年

明治5年(1872)

遺構

曲輪、天守台、石垣、横堀(水堀)

指定文化財

市史跡(柳川城本丸跡)、国名勝(水郷柳河)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

蒲池城(福岡県柳川市)[2.8km]
佐留垣城(福岡県柳川市)[4.6km]
津村城(福岡県大川市)[5.0km]
鷹尾城(福岡県柳川市)[5.3km]
三重津海軍所(佐賀県佐賀市)[7.7km]

柳川城の解説文

沿革
沖端川と塩塚川に挟まれた現在の柳川市街地に位置する。

その創始についてはよくわからないが、戦国時代には蒲池城の蒲池氏の持ち城となり、天正9年(1581)には龍造寺方によって落とされている。同15年には筑前立花城主であった立花統虎(宗茂)が三瀦・山門・下妻三郡の領主として入城する。

しかし関ヶ原合戦で立花家は所領を没収、代わって三河岡崎から田中吉政が32万5千石の石高で柳川に入る。田中時代に柳川城の大改修が行われ、ほぼ現在の姿となったものと考えられる。元和6年(1620)に田中家は無嗣断絶となり、旧城主の立花宗茂が山門・三池の二郡および上妻・下妻・三瀦各郡の一部の併せて10万石の石高で再入城、以後明治維新まで立花家の居城となった。

概要
現在、城跡は市街地化によって堀は埋め立てられ、本丸周辺の石垣も明治時代以降の干拓の際に石材なども持ち去られ、大きく変容しているものの、街路などはほぼ現在も踏襲され、また江戸時代の絵図も豊富にあって、城の構造をつぶさに知ることが可能である。

城の構造は、中心部分に本丸とニノ丸が並列し、その周りを曲輪が重層的に囲いこむ。それらの曲輪の周りには、幅約30mにも及ぶ水堀が造られていた。

本丸は方形の曲輪で、周囲は約8mの高石垣を構築、天守曲輪の他に隅櫓とそれらをつなぐ多聞櫓を塁線上に配していた。現在、本丸跡は柳城中学校の敷地となっており、五層の天守があったという高台や石垣が残されているが、高台も明治時代にかなり削られ、また石垣も昭和初期の耕地整備の際に築かれたものと思われる新しいものであり、城があったころの見る影は薄い。ただ、本丸周辺の石垣石材には矢穴を残したものがいくつかあり、城の石垣石材は幾ばくかは残されているようである。

本丸以外については、虎口部分を除いて石垣の使用はない。しかしながら、本丸、ニノ丸周りの曲輪群の塁線は、櫓などは見られないものの、塁線を屈曲させて横矢を効かせることができるような折れや張り出しをいくつも創出しており、土塁で固められていた。特に本丸・ニノ丸の南側の曲輪はいわゆる「馬出」が巨大化して一般曲輪化したものと評価でき、織豊系の築城技術が十二分に生かされた造りとなっている。なお現在、外郭部の土塁は「米多比土居」と呼ばれる一角を除いてはほぼ消滅してしまっている。

以上のように柳川城は本丸・ニノ丸を中心にそれらを広大な曲輪群で取り巻き、それらを水堀によって囲い込み、さらに北東側には町家群を置く、いわゆる「惣構」の形態を呈していた。

まさに田中吉政32万石の居城にふさわしい縄張りであったと言えるだろう。

情報提供:柳川市教育委員会教育部生涯学習課

柳川城の口コミ情報

兵部卿織田晃司⑪③中国オフ様[2018年08月13日]
水郷・柳川川下りが観光の目玉になるので駐車場はあります(1回300円)

柳川高校と柳城中学校に囲まれ僅かに本丸が残るのみ。
治水事業で本丸の石垣を使用した為、方形の小高い丘に僅かに石垣があるのが今の柳川城です。

柳川はうなぎが名物です。

立花左近将監統虎様[2015年11月08日]
《加藤清正公の陣跡情報》
柳川市から国道443号線を東へ向かい、三橋町の五捨町交差点を北へ約800m進むとコミュニティセンターあり。
その敷地内に加藤清正公の兜を連想させる石碑があります。

慶長5年(1600年)10月、関ヶ原合戦後に立花宗茂が籠る柳川城に対し黒田、鍋島、加藤の大軍が迫りつつ開城を勧めます。
立花宗茂は開城するにあたり、加藤清正が陣取った黒衣陣地に赴いて話し合いを行ったと言われています。

ひろり様[2013年03月13日]
矢穴が残る石を見付けたのでUPしました。北東角部です。
天守台にはぐるりと浅いながらも土塁が見受けられます。後世のものだとしたら残念ですが堀が水路として残されていて、地図を見るだけでも城域が分かる楽しいお城です。
立花宗茂を祀る三柱神社の橋に使われている擬宝珠は、柳川城で使われていたものだそうです。

赤松貞明様[2012年11月11日]
蒲池治久の頃は、現在の日吉神社のある場所に柳河城があったそうで…
蒲池鑑盛が、現在天守台跡がある柳城中学校の場所に城を建て変えたそうで…
本丸を頭に鶴の形をしていたと聞いたことがあります。
多分、比翼鶴の紋と同じ形だと思います。
その後、田中吉政が改築して世に知られる天守の写真や、絵巻のような柳河城になったそうです。

赤松貞明様[2012年06月08日]
柳城中学校の周りに小さい堀がありますが、おそらく本丸の堀かと思われます。
中学校のテニスコートの裏に土が盛り上がったのが天守台跡かと…

石垣の石は…明治時代に干拓地の海岸の堤防に使われたらしいです。

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