鷹尾城(たかおじょう)
鷹尾城の基本情報
通称・別名
- 鷹尾要害、高尾城
所在地
- 福岡県柳川市大和町鷹ノ尾字七ツ家
旧国名
- 筑後国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 田尻親種
築城年
- 天文4年(1535)
主な改修者
- -
主な城主
- 田尻氏、立花氏、宮川氏
廃城年
- 元和元年(1615)
遺構
- 堀跡
指定文化財
- 市史跡(鷹尾城跡)
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
佐留垣城(福岡県柳川市)[2.1km]
柳川城(福岡県柳川市)[5.3km]
蒲池城(福岡県柳川市)[7.2km]
女山神籠石(福岡県みやま市)[7.2km]
大間城(福岡県大牟田市)[9.5km]
津村城(福岡県大川市)[10.2km]
南関城(熊本県玉名郡)[11.6km]
生津城(福岡県久留米市)[11.8km]
大津山城(熊本県玉名郡)[12.2km]
三重津海軍所(佐賀県佐賀市)[13.0km]
鷹尾城の解説文
鷹尾城の口コミ情報
2022年05月19日 龍馬備中守【】
田尻城[鷹尾城 周辺城郭]
福岡県のみやま市にある【田尻城】♪別名を田尻飛塚城と呼ばれます☆
明応8年(1499年)に田尻氏は大友政親から山門郡と三池郡に300町を賜っています☆
この時期は、ここ田尻城を中心に活動をしていたと思われます☆
この田尻氏は大蔵春実の末裔とされています☆大蔵春実は播磨国、大蔵谷の出身で藤原純友の乱による功によって三池・山門の地を与えられています☆築城年代は不明ではありますが天慶年間(938年〜947年)に築かれたとされています☆
戦国時代には田尻親種が鷹尾城(post済)を築いて移っていて一族の田尻左京が城代になっています☆
田尻氏は大友氏から龍造寺氏に主君を変えていく中で、後に鷹尾城主・田尻鑑種は龍造寺隆信の命で田尻鑑種の縁者である柳川城の蒲池氏を攻め蒲池鎮漣の一族郎党を誅滅する事になります…☆
悲しい歴史です☆
沖田畷の戦いで龍造寺氏が力を落とした際は薩摩国・島津氏に接近を図りつつ、龍造寺氏に属しました☆
豊臣秀吉の九州征伐が終わる頃までには龍造寺氏への完全服従を決めていて立花宗茂、高橋統増、筑紫広門らは秀吉へ拝謁して直臣となる中、田尻鑑種は秀吉へ拝謁せず☆
鍋島直茂、麾下の武将になります☆
その後の田尻鑑種は鍋島直茂に忠誠を誓い朝鮮役へ帯同中に朝鮮の地で病没しちゃいました☆
天正15年(1587年)の九州国分で田尻城は立花宗茂に領されていて立花織部が城代になっています☆江戸時代に入り田中吉政が筑後に転封されると廃城になっています☆
森山宮一帯が城郭とされていますが、目ぼしい遺構は削平地がメイン☆森山宮背後の山中に入り込みましたが、バンブー地獄の中にやっぱり削平地☆尾根先端部などはミカン畑になっています☆堀の名残り?の様な窪みはありました☆
2020年11月15日 こにゃんこ武将
鷹尾城
近くに鷹尾神社がありますが、そこではありません。勝手にフェイントに引っ掛かり、多少戸惑いましたが鷹尾神社の三差路交差点を川に向かって進むとそこの脇道に小さい神社があります。説明板も設置してありますので安心しました。ただ脇道に入らず進行すると川を越えます。なかなか手が込んだフェイントだと悔しがるか感心するかはあなた次第です。
2012年08月12日 赤松貞明
鷹尾城
旧大和町、鷹尾神社から東へ数百m…矢部川の堤防の下に3つの祠があります。
「田尻親種」の解説板が立っていました。
佐留垣城と同じく、城跡の形跡はわかりませんでした。
沿革
矢部川右岸の鷹尾神社の東の平地上に位置する。『軍談』では「鷹尾村城跡」として「田尻伯書守鑑種居城也」とし、元々本拠としていた田尻城(飛塚城)は水が乏しかったため、永禄年間に当城を築城し移ったとすることなどを記す(天文17年(1548)に田尻親種が築城したとする説もある)。天正10年(1582)には田尻氏は島津方に与し、龍造寺方の攻撃を受けて籠城するも、翌11年に開城となり、田尻氏は当地を去る。同15年には立花統虎(宗茂)柳川入部に伴い、隣接する中島城と共に重臣・立花織部介が入城している。その後、田中吉政の時代には、柳川波の支城として、宮川才兵衛が知行高6000石、組下の書上げ16名6000石をもって入城している。元和の一国一城令もしくは田中家廃絶に伴い、廃城となったとみられる。
概要
現在、鷹尾城の想定地周辺は、近代以降、大々的に改変されてしまい、現地での縄張りの検討は非常に困難である。ただ、田尻氏ゆかりの親種寺に伝わる文書群にある『鷹尾城絵図』は非常に詳細に城の様子を描き出しており、そこからある程度の城の構造の復元が可能である。『鷹尾城絵図』で城の構造を見ると、中心部分は現在の鷹尾神社の東側、かつては川が大きく蛇行する湾曲部の内側に、「本丸」「つき山北ノ丸寺」と2つの方形区画が確認でき、堀で囲まれた2つの方形状の白輪が並列している。そして地続きとなる西側には、八幡宮(鷹尾神社)を挟んで大堀、人手大堀などの松原、けず(枳殻)、ついち(築地)などの防御遺構、さらには大手、大門などの門遺構が描かれている。以上のような鷹尾城の構造が絵図から判明するが、田中時代の遺構を反映している一方で、方形居館が並列する構造などは中世城郭の縄張りをそのまま踏襲したものである可能性を指摘し、さらに、松原、大堀、築地など、後世に残りにくい遮断遺構まで詳細に描かれているのは多少復元的に描いた結果ではないかとしている。
そのような問題点はあるものの、およその構造については問題ないであろうし、また城の位置も、字「築山」など、鷹尾神社の東側にある字の場所付近であることなどもわかる。
なお、『城郭』では鷹尾神社の西側にある方形状クリークが巡る区画などを鷹尾城の本体の可能性があると指摘しているが、現状の地形からの類推であるとみられ、城地とするにはやや根拠が乏しいのではないかと思われる。