生津城(なまつじょう)
生津城の基本情報
通称・別名
- 生津館
所在地
- 福岡県久留米市三潴町生津
旧国名
- 筑後国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 西牟田家周
築城年
- 天正7年(1579)
主な改修者
- -
主な城主
- 西牟田氏
廃城年
- 天正11年(1583)?
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
城島城(福岡県久留米市)[3.8km]
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生津城の解説文
[引用元:Wikipedia「生津城」の項目]
生津城(なまつじょう)は福岡県久留米市三潴町生岩に存在した日本の城(平城)。
概要
本丸の規模は東西73間・南北62間で、二の丸と三の丸もあり、その周囲に堀が巡らされていた。周辺は大泥池と呼ばれる低湿地で、その自然地形を利用して五重の堀を設けていた。
天正6年(1578年)に大友氏が耳川の戦いで敗れると、西牟田鎮豊は大友氏から離反して龍造寺氏に属した。このため、西牟田城は、大友氏より頻繁に攻撃を受けるようになった。西牟田氏は、西牟田城の防御能力を不十分と感じ、天正7年(1579年)に新たに当城を築き転住した。築城年を天正4年(1576年)とする資料もある[1]。
さらに天正11年(1583年)、西牟田氏はより堅固な城島城へと移る。移転のきっかけについては、大友方に攻められ生津城が落城したからと記したものと、単に龍造寺氏の許可を受けて移った(城島町文化協会編「城島むかし」等)と記したものがある。
参考文献
- 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典(40.福岡県)』、角川書店、1988年
- 平凡社「福岡県の地名」『日本歴史地名大系』41巻 (オンライン版)2006年
- 久留米市文化財保護課『三潴・犬塚・西牟田校区の文化財マップ(https://www.city.kurume.fukuoka.jp/1060manabi/2050bunkazai/3020maibuncenter/files/img20130621_14255796.pdf)』2008年(校区の文化財マップ(https://www.city.kurume.fukuoka.jp/1060manabi/2050bunkazai/3020maibuncenter/2013-0619-1754-551.html))久留米市公式HP
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生津城の口コミ情報
2022年08月08日 龍馬備中守【佐竹扇】
西牟田城[生津城 周辺城郭]
福岡県筑後市の【西牟田城】♪鎌倉時代築城とされる、筑後国・西牟田氏の城です♪弘安の役で西牟田氏は、西牟田彌次郎永家が他の九州御家人らと博多で陣地構築を行い、松浦湾の鷹島で10万の元軍を急襲し功を挙げ、肥前国・神崎の荘園を恩賞に賜りました♪
南北朝時代には南朝として足利方と戦っています☆大保原合戦(筑後川の戦い)で西牟田讃岐守は、後醍醐天皇が九州経営に遣わせた懐良親王を奉じ、菊池武光ら南朝方と共に、少弐頼尚・大友氏時ら足利方を破りました☆
南北朝統一後の筑後は大友氏が権威を奮い、西牟田氏も『筑後十五城』とされ大友傘下となりました☆
大友氏の支配は厳しく、筑後国人は大友氏の戦時常に第一線に置かれます☆
また任官、叙位、家督相続など全て大友の決済を仰がされ、時には資金の提供もさせられました☆
そんな大友氏の支配を不服とした西牟田氏はこれに背き、筑後や肥後の国人と度々反大友の軍事行動を起こしました☆
後に龍造寺隆信が肥前を平定し筑後へ進出すると、西牟田鎮豊を始め筑後国人の多くがその麾下に参じます♪
コレに怒る💢大友氏が何度も大軍を送り、筑後の国人達は揺れますが、西牟田氏は一貫し龍造寺に尽くしました☆
西牟田城を始め生津城、城島城と、より堅固な城を造り大友氏と闘います☆
龍造寺隆信が沖田畷の戦いで島津・有馬軍に大敗すると、大友氏は好機と捉え豊後勢を筑後に送り込みます☆城島城の西牟田新助家親・同新右衛門家和も猛攻を受け、直ちに佐賀へ援兵を要請しました☆
結果、龍造寺政家の援兵が到着しこの危機を脱します☆
当時西牟田城は機能してはいたようですが、城島城と生津城が西牟田氏の本城のようです☆
更に九州統一を目論む薩摩軍3万が北上し、城島城を攻めました☆
西牟田氏は300余騎の城兵と共に戦い、ついに防げず肥前へ落ちます☆
秀吉の九州征伐の際には、龍造寺方として秀吉軍で参戦し、筑後から島津氏を駆逐しました☆
しかし九州平定後の秀吉は、明・朝鮮への出兵を見据え『九州国割りの人事は、新旧交替の思いきった新しい方針』とし、かつての『筑後十五城』の城主達が領地へ帰る事は出来ませんでした☆
そして400年にわたる西牟田支配も終焉となりました。。その後は肥前で龍造寺家、後に鍋島氏に仕えました☆この西牟田城、現在は住宅地内にあり、僅かに濠を残すのみとなっています♪
2011年08月21日 筑後守もんど
生津城
印の所は神社ですが、きっと城の一部なんだろうな
2011年08月21日 筑後守もんど
生津城
地図に示してある所より南へ500M行くと本城後です。
農道脇に説明の碑があります。
2011年08月21日 筑後守もんど
生津城
城主 西牟田 家周
龍造寺家に属してたが天正7年(1579年)戸次道雪に攻められ城島城へのがれた。
その時の亡くなった城兵の碑が在るところが本城
2011年08月21日 筑後守もんど
生津城
生津江湖を背に五重の堀と土塁で守りを固め、
東西146m南北126m両堀幅6M山ノ井川の水を引き込む水の城
生津城の周辺スポット情報
西牟田城(周辺城郭)