久留米城(くるめじょう)

久留米城の基本情報

通称・別名

久留目城、来目城、篠原城、篠山城、雨城

所在地

福岡県久留米市篠山町

旧国名

筑後国

分類・構造

梯郭式平山城

天守構造

層塔型三階櫓(巽櫓)[3重3階/1620年頃築/破却(廃城令)]

築城主

不明

築城年

永正年間(1504〜1521)

主な改修者

毛利秀包、有馬豊氏

主な城主

毛利氏、田中氏、有馬氏

廃城年

明治4年(1871)

遺構

曲輪、石垣、横堀(水堀)

指定文化財

県史跡(久留米城跡)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

朝日山城(佐賀県鳥栖市)[4.5km]
海津城(福岡県久留米市)[5.6km]
高良山神籠石(福岡県久留米市)[5.7km]
西鯵坂城(福岡県小郡市)[6.2km]
堤土塁(佐賀県三養基郡)[8.1km]
勝尾城筑紫氏城館(佐賀県鳥栖市)[9.1km]
鎮西山城(佐賀県三養基郡)[9.1km]
赤司城(福岡県久留米市)[9.7km]
城島城(福岡県久留米市)[10.9km]
生津城(福岡県久留米市)[11.3km]

日本100名城・続日本100名城スタンプ情報

番号・名称

(続)183 久留米城

設置場所

篠山神社社務所[地図
有馬記念館[地図

久留米城の解説文



久留米城(くるめじょう)は、福岡県久留米市篠山町(筑後国御井郡)にあった日本の城 [1]

概要 

久留米城は久留米市街の北西に位置し、筑後川が西から南へと大きく蛇行し宝満川と合流する左岸地点にあった丘の上に築かれた。江戸時代には久留米藩の藩庁が置かれ、摂津有馬氏の居城であった。明治時代初頭に建物は撤去され、現在は本丸に有馬記念館と篠山神社が建てられ、二の丸・三ノ丸はブリヂストン久留米工場の敷地となり、外郭は市街地となっている。

2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(183番)に選定された。

沿革 

室町時代

室町時代後期の永正年間(1504年 - 1521年)にこの地の土豪が篠原城と称した砦程度のものを築いたのが始まりと言われる。天文年間(1532年 - 1555年)には御井郡司の某が修築したとの記録がある。 1573年高良山座主良寛の実弟麟圭が城主になる[2]、1578年耳川の戦いで大友方として良寛は出陣したが、その間に鱗圭が寝返ってしまう[3]。 そして1580年時点で良寛も龍造寺氏に従う[4]。 1583年から立花道雪・高橋紹運が高良山に陣を張り城を攻め、1585年には筒川・祇園原の戦いで龍造寺軍に大勝するも道雪が死に、目的は果たせぬまま紹運は同年陣を払い鱗圭は島津家に寝返ったものの[5]、1587年(天正15年)、豊臣秀吉が九州を平定すると、13万石で筑後久留米に封じられた大友宗麟の娘婿である小早川秀包(毛利元就九男、羽柴久留米侍従)によって鱗圭は殺害された。

安土桃山時代

秀包は篠原城の堀を掘削し石垣を積み天守を置くなど、織豊期城郭への大改築を行った。秀包がキリシタン大名でもあったことから、城下町には教会も建てられたが[6]、秀包は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで西軍についたため、戦後改易となった。

江戸時代

関ヶ原の戦い後、筑後国には田中吉政が32万5千石で封じられ柳川城を本城とした[7]。久留米城は柳川城の支城とし二男の吉信を城主とした。東向きの本丸があったが、1615年(慶長20年)に出された一国一城令により廃城となる。元和6年(1620年)吉政の子、忠政は嗣子なく没し、筑後柳川藩田中氏は改易となった。

かわって1621年(元和7年)、筑後国北半に丹波国福知山城主有馬豊氏が7万石から大幅に加増された21万石で封じられた。幕府の御墨付きを獲た豊氏は、廃城も同然にまで荒れ果てた[8]久留米城を、隣国の筑前国福岡城主黒田長政の助力も得ながら、筑後の要の城に相応しく大規模に拡張した。豊氏は田中氏が途中であった城普請を再開し、本丸を南向きに改築した。1631年(寛永8年)に筑前堀を完成させ、1649年(慶安2年)から4年掛かりで外郭部を構築し城下町を整備した[9]。2代藩主有馬忠頼の代にも外堀の浚渫や掘り直しが行われるなど城郭の整備が続き、元禄4年(1691年)4代藩主有馬頼元の代になって漸く城郭が完成した。

以後、明治維新まで久留米は西国の大藩である有馬氏の居城となった。

近代

1871年(明治4年)の廃藩置県により久留米城は廃城となった。久留米城は陸軍省の管轄となり、1874年(明治7年)の廃城令によって建造物は日田の町民が落札。城の建物は一部の山門を除き解体され、石垣も解体されようとしたが阻止された。1879年(明治12年)、本丸御殿跡地に篠山神社が建造された。

現代

1960年(昭和35年)、久留米市市制70周年記念事業の一環として、当時のブリヂストン社長である石橋正二郎の寄贈で冠木御門に自動車用のスロープが整備され、本丸内に有馬記念館と東郷記念館がオープンした。

1974年(昭和49年)には、久留米市市制80周年記念事業として、当時の久留米市長近見敏之を中心に巽櫓の再建が計画されたが、実現しなかった。1983年(昭和58年)3月19日、久留米城跡として福岡県の県史跡に指定された。

形式と構造 

縄張(基本配置)

北西側の筑後川を天然の堀とし、比高差約15メートルの川沿いの丘陵の頭頂部を平坦にして本丸が築かれ、その南側に二の丸と三の丸、外郭(四の丸)、柳原が配された連郭式平山城であった。天守はなく、本丸に二重の多聞櫓で連結された三重櫓が各隅に7棟配されていた[10]

本丸

本丸の規模は東西約96.4m、南北約156.4m。石垣の高さは約14mから15m。本丸は中央に本丸御殿、それを取り囲むように7棟の櫓が築かれ、櫓は2層の多門櫓で連結されていた。乾櫓とその周囲の北側の多聞櫓櫓台は石垣を失い、艮櫓も櫓台石垣の一部を欠損しているが、そのほかの櫓跡では櫓台石垣が現存する。

本丸御殿
久留米城の中心となった建物で、内部では歴代藩主が政務を執っていた。1874年(明治7年)の廃城令によって解体された。本丸の中心部に位置しており、現在は篠山神社の本殿・拝殿があるほか、北西側に置かれた大井戸が現存する。
大井戸(おおいど)
固い岩盤をくり抜いて造られた井戸で本丸御殿の北西側にある。本丸には他にも2つの井戸が存在したが、1つは有馬記念館前に現存する。現在は落下危険防止のために、覆いや金網が張られている。

本丸南面

この面は、明治初頭に撮影された古写真によって櫓の姿が判明している。
冠木御門(かぶきごもん)
本丸の大手虎口にあった桝形門。虎口は内桝形をなしており、土橋を渡って南正面に桝形門形式で言うところの「二の門」である冠木門(平門)、西に一の門である櫓門が開かれていた。冠木門土塀石垣と櫓門櫓台石垣が現存するが、門礎石などは自動車の乗り入れのためコンクリート舗装のスロープがあり、確認できない状態となっている。
坤櫓(ひつじさるやぐら)
本丸南西隅(未申の方角)に上げられていた三重櫓。現在は櫓台石垣が残り、その上に有馬記念館や民家が建てられている。
太鼓櫓(たいこやぐら)
本丸南に上げられていた三重櫓。冠木御門の西にあった。現在は櫓台石垣が残っている。
巽櫓(たつみやぐら)
本丸南東隅(辰巳の方角)に上げられていた層塔型の三重櫓。城内で最も規模が大きかったため、天守の代用となっていた。1620年(元和6年)頃に建てられ、平面寸法は約12.7m×約14.5mあった。現在は櫓台石垣が現存するほか、久留米出身の画家である青木繁の記念碑がある。

本丸東面

東御門(ひがしごもん)
本丸東側にあった門。月見櫓に付属していたため別名を「月見櫓御門」ともいう。門の形式については、『日本古城絵図』に収録されている久留米城絵図によれば、東御門に当たる部分に「多門」と書込みがある[11]。現在は門礎石の一部が現存している。
月見櫓(つきみやぐら)
本丸東に上げられた三重櫓。東御門(月見櫓御門)のすぐ東側の上に位置しており、直下に蜜柑丸がある。現在は櫓台石垣が現存する。
艮櫓(うしとらやぐら)
本丸北東(丑寅の方角)に上げられていた三重櫓。現在は石垣が現存している。
蜜柑丸(みかんまる)
本丸東側にあった腰郭(https://kotobank.jp/word/%E8%85%B0%E9%83%AD-501134)。蜜柑の木が植えられていたことから「蜜柑丸」と呼ばれていた。現在は車道となり、一部が篠山神社の駐車場として利用されている。

本丸西面

筑後川沿いに当たる。有馬記念館や社務所、東郷記念館(東京麹町にあった東郷平八郎邸の書斎を移築したもの)がある。

水手御門(みずのてごもん)
本丸西側にあった門。現在は、篠山神社社務所の敷地となっている。門の建物は廃城後久留米市草野町の寿本寺の門として移築現存する。
乾櫓(いぬいやぐら)
本丸北西(戌亥の方角)に上げられていた三重櫓。北側の多聞櫓跡とともに櫓台石垣が現存しない。
西下櫓(にししたやぐら)
本丸西に上げられていた三重櫓。水手御門に続く多聞と連結していた。現在は櫓台石垣が残っている。

二の丸

本丸の南に存在した、周囲を堀に囲まれた郭。藩主の御殿などが置かれていた。現在はブリヂストン久留米工場の一部と同工場の従業員駐車場となっている。

三の丸

二の丸の南に存在した、周囲を堀に囲まれた方型の郭。御蔵屋敷や御蔵番屋敷、久留米藩の5名の家老の屋敷が置かれていた。現在はブリヂストン久留米工場の一部となっており、遊歩道に当時の土手の一部が残る。

外郭(四の丸)

城内で最も広く、三の丸の南に存在した郭。久留米藩の上級の家臣団の屋敷や御郡支配方、御普請方などの藩役所が多く設けられていた。また、明善堂や祇園社などが置かれていた。現在は福岡地方裁判所久留米支部や久留米市立城南中学校、篠山小学校などがある。

大手門(おおてもん)
外郭の南西に置かれていた、久留米城内最大の門。亀屋町を結んでいたことから亀屋町口橋とも呼ばれていた。久留米城に出入りする門の一つ。城内の門の中で最も格式が高く、藩主の参勤交代交代の際によくこの門が使用されたという。現在は篠山神社の鳥居が立っている。
狩塚橋(かりづかばし)
外郭の南東に置かれていた門。祇園社で行われていた祇園会の際に使用される山車が出入りしていた。現在は久留米商工会議所がある。
祇園社(ぎおんしゃ)
外郭の中心部より少し東側にある神社。875年(貞観17年)に創建された真言宗の寺院。1868年(慶応4年)の神仏判然令により祇園神社(素戔嗚神社)となり、現在に至る。毎年6月に行われた祇園会は久留米城の城下三大祭の一つで、神幸行列は藩主家族も見物する大規模なものだった。
明善堂(めいぜんどう)
外郭の南に存在した藩校。大手門のすぐ北西側に存在した。第8代久留米藩主有馬頼貴が1783年(天明3年)に学問所(藩校)を開いたのが始まりである。1787年(天明7年)には「修道館」と名付けられたが、1794年(寛政6年)に焼失した。1796年(寛政8年)、藩校を再建し新たに「明善堂」と名付けられた。以後、今日の福岡県立明善高等学校に至っている。幕末の勤王家・真木保臣は当藩校の出身である。
御使者屋(おししゃや)
狩塚橋の対岸に存在した久留米藩の迎賓館。1831年(天保2年)に片原町に建設され、明治時代に入ると三潴県役所の庁舎などに使用され、1929年(昭和4年)まで久留米市役所に利用された。その後、鉄筋コンクリート製の市庁舎が建てられ、1995年(平成7年)に現在の市庁舎に代わるまで使われていた。現在は両替町公園となっており、御使者屋を囲んでいた築地塀や玄関口の石垣が保存されている。

柳原

外郭から細長く延びる郭で、本丸と二の丸、三の丸の東方に面する。中級武士の屋敷が置かれたが、低地だったことから1676年(延宝4年)に京隈に移され、以降は庭園となったほか、9代藩主有馬頼徳の代には御庭焼である柳原焼の窯が置かれた。現在は久留米大学医学部や久留米大学病院がある。

遺構・現存建造物 

遺構は本丸の月見櫓や巽櫓、坤櫓などの石垣や水堀の一部、裁判所の隣に外郭(四の丸)の堀跡と土塁が現存している。明治時代初頭に城の建造物の大半は解体されたが、本丸の水手御門が久留米市草野町草野の寿本寺山門として移築現存している。

以前まで二の丸の乾門(二の門)がJR久留米駅の西側にある京町の日輪寺山門として移築現存していたが、1989年(平成元年)に老朽化により解体されてしまい、後に同じ所に再建された。

参考文献 

  • 表現研究所/編『城「日本編」』 小学館  1982年 P.245
  • 西ヶ谷恭弘/編 『定本 日本城郭事典』 秋田書店 2000年 P.405

久留米城の口コミ情報

2024年11月20日 RED副将軍
久留米城



久留米藩を約250年に渡り治めた有馬氏の居城🏯

続日本100名城

築城年代は不詳。永正年間(1504年〜1521年)に築かれた篠原城が始まりとされます。築城主は不明で在地土豪が築いた砦程度であった様です。
1587年に豊臣秀吉が九州を平定すると、九州国割により毛利元就の九男である小早川秀包(のちに毛利秀包に復性)が入封し本格的な城郭に改修。
1600年、関ヶ原の戦いで毛利秀包は西軍に属し、久留米城は黒田孝高や鍋島直茂に攻められ開城しています。
代わって田中吉政が筑後国に入封し柳川城に入ったため、久留米城にはその支城として次男の田中吉信が入城しました。
1620年に田中忠政は嗣子が無く没したため除封されると代わって有馬豊氏が入封し、久留米城を大規模な改修、拡張を実施。有馬氏が11代に渡り統治し明治に至り、1871年の廃藩置県により廃城となりました。

見所
蛇行する筑後川を天然の堀として利用した丘陵上に築かれ、本丸、二の丸、三の丸、外郭と南に連なる連郭式平城。
現在は、本丸は篠山神社と有馬記念館の敷地となり高石垣が残りますが、二の丸と三ノ丸はブリヂストン久留米工場の敷地、外郭は市街地となりほぼ消失しています。かつてはそれぞれの曲輪が水堀で囲まれた広大な近世城郭でした。
本丸は本丸御殿を中心に7棟の櫓が築かれていたとされ、大半の櫓台石垣が現存しています。
また南と東に虎口が開口し、南側の桝形虎口が大手です。
石垣は東側が戦国期の野面積みで西側は江戸期の布積みで時代の違った石垣の変遷を見ることができます。

2024年07月02日 マグロ常陸介祐平
久留米城



続日本100名城ということで、遺構は本丸の石垣がメインとなりますが、21万石に相応しい見事なものです。櫓台も残っていますが、当時は7基の櫓は全て三階櫓で、二階建ての多聞櫓がぐるりと連結されていたようです。

石垣は時期により積み方が異なっており、南側・西側は石の大きさが揃った「布積み」、東側は「乱積み(穴太衆によるものらしい)」となっています。野面の乱積みは、場所によって荒さの違いがあり、面白く感じます。(貼り付けた写真でも違いがわかります)

本丸は、篠山神社となっており、祭神として初代藩主豊氏公ら4人の藩主と競馬有馬記念の名称の由来となる頼寧公が祀られています。

2024年06月19日 あんどー主計頭
久留米城



廃城のあとに篠山神社が移ってきた歴史のようですが、今でも櫓跡が多く残っており、完全にお城です。御城印ではなく、御朱印を社務所で求める事ができます。施設内の有馬記念館にて歴史紹介されてますが、安土桃山時代以降しかハッキリわかってないようです。あと、みなさんも書かれてますが、神社ですのでしっかり拝礼して失礼のないようにいたしましょう。お城ファンのマナーの悪さに苦言を呈されてます…

2024年04月27日 兵部卿スーさん
久留米城



本丸跡は篠山神社になっていますが、御朱印には久留米城本丸跡鎮座と書かれています。久留米城印もありますが1000円です。石垣しっかり残っていて見応えがあります。また画家の青木繁碑をはじめ 13の石碑が立っているので それを見て回るのもいいかもしれません。

2024年04月12日 ヒロ1210
久留米城



いまは神社になっているんだけど、その分手入れはしっかりされてます。神社にしっかり手をあわせて、周りの景色を堪能してください。

2023年12月14日 播磨守狂鬼人間
久留米城

JR久留米駅からは徒歩では少し遠いので駅チャリで¥500円掛かりますが楽チンで行けます。

2023年09月10日 金森出雲守
武家屋敷門[久留米城  遺構・復元物]

説明板によると武家屋敷の移築門とのことです。

2023年09月08日 天河水式部卿
久留米城

徒歩でもバスでもアクセス良しの城跡。現在本丸は篠山神社さんですが、遺構は城そのものです。各櫓跡に立てばそりゃここに城造るよね、という立地です。
神社さんなのでしっかり参拝してまいりました。

2023年03月18日 黒はんぺん播磨守
久留米城



車で登城。周囲の駐車場は台数が少ない。近くにはコインパーキングはなさそう。思い切って中に入ってみると敷地内にも駐車場がありました。

2022年12月06日 恋川秋町
久留米城



雨上がりの12月4日の午前中に行きました。西鉄久留米駅からバス4番乗り場から医学部前バス停て下車。

久留米城石垣が見事!

そして何と言っても、月見櫓の辺りの紅葉が美し過ぎでした!
本当に綺麗でした🍁

背後の筑後川もよく見えて、このお城が梯郭式の築城であることがよく分かります。

有馬氏入城400年で遊歩道も整備されており非常に良いお城だと思います。

敷地内には本丸跡に篠山神社そして有馬氏の足跡が分かる有馬記念館もあります。

お城印はないのですが、御朱印に篠山城とかかれています。
通常の御朱印の倍の大きさはあります。

そしてここ久留米城は、中央競馬の年末のビックレース有馬記念と関連の深い所ということで、ここを訪れる人も多いとか。

地元の方は、久留米城というよりも別名の篠山城という呼び方で親しまれているそうです。
三の丸の堀跡も一部残されており、見応えのある素晴らしいお城でした。

帰りは、徒歩で有馬氏の菩提寺である「梅林寺」をお参りして、JR 久留米駅から鹿児島本線に乗車しました。

2022年12月04日 micky999
久留米城



久留米駅から歩いて登城。駅にコインロッカーがないので荷物は持ったまま、雨降らずによかった。この城は石垣以外は残っていないのですが、石垣は見応えあります。ここでの印象はブリヂストン工場のゴム臭が凄いのと、アサヒシューズが同社の源流だという「へぇー」でした。

2022年09月17日 ひらりぶらり旅
久留米城

石垣を横目に坂を登りきるとすぐに神社が皆さんを待っています。社務所にお待ちかねのスタンプがあります。神様に参拝もお忘れなく。

2022年04月29日 同行二人
久留米城

久留米城は、明治維新後、民間へ払下げとなり、石垣を搬出する寸前だったそう!

2022年04月28日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
大隈城[久留米城  周辺城郭]



福岡県の久留米市にある【大隈城】♪南流する筑後川の左岸段丘の西端に立地した城郭となります☆久留米市の街中に溶け込んでいて遺構は全く残っていません☆城跡があったと妄想だけを走らせました☆

築城年代不明ながら城主は大隈左近将監と伝わります☆鎌倉期から見える地名となっていて三潴荘の内となっています☆鎮西探題は大隈右衛門佐に『大隈在々所々本地』と知行を認めています☆戦国時代に大隈は大友氏に属している様で大友氏が草野氏に与えたりもしています☆

残る字として馬乗場、構え口など地名が残っています☆現在、城郭の跡地となる場所には大隈天満宮が残っています☆

この神社の由来は佐賀藩・大隈重信の祖先である大隈修理大夫が大隈山に社殿を設立したのが始まりとされています♪肥前鳥居もありました☆

梅が満開に咲いておりました〜♪

2022年04月27日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
大石館[久留米城  周辺城郭]



福岡県の久留米市にある【筑後・大石館】♪南流する筑後川の左岸、久留米段丘の西端の一段高い場所に居館は存在しました☆現在は大石神社の場所がその場所になります☆大石の地名の由来は巨石を神体とする伊勢天照御祖神社にちなむ説が残ります☆

字陣内という地名が残る場所があり中世期には伊勢の大石越前守鎮豊の居館と伝わります♪

大石神社は大石越前守鎮豊が伊勢より下向した時に内宮神前の鏡と小石を請けとって館内に祀ったと伝わります☆

民間のある段丘崖の一帯からは弥生時代の甕棺墓群も出土したりもしてます☆
僅かな高台から垣間見える歴史♪今は久留米の街中に溶け込みます☆

2022年04月16日 薩摩安房守義弘維新斎
久留米城



続日本100名城の久留米城址は、JR久留米駅から徒歩約15分で登城できます。駅からブリジストン久留米工場沿いの道路を歩くと、城までの案内板があり、迷うことなく城へ到着。

高石垣が聳えて堀も現存し、城内を散策するのも難なくできます。残念なのは、明治時代初頭に現存した7棟の櫓がないことかも。

2022年02月13日 あっきい宮内大輔
久留米城

カーナビでは付近の交差点を「篠山城前」とアナウンスされ「久留米城」とは言わず。「篠山神社」を目指して行くと到着できました。この辺りは篠山町というみたいです。

石垣、櫓跡、井戸が見られた他、境内には数多くの様々な年代、分野の石碑がありました。御城印はありませんが、社務所で拝受できる御朱印に「久留米城」「篠山城」と記されたものがありました。

2021年12月07日 トビー対馬守
久留米城



JR久留米駅から徒歩15分ほどで、現在篠山神社になっている、久留米城本丸に到着します。建築物は何も残っていませんが、筑後川を見下ろす高石垣は必見です。

2021年11月22日 tower428太閤
久留米城



久留米駅からブリジストン通りを歩いて久留米城へ。お城の中の篠山神社 社務所でお城のスタンプと神社の御朱印をいただきました。駅から篠山神社の間に久留米城二の丸の石碑があります。

2021年11月04日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
神代館[久留米城  周辺城郭]



福岡県の久留米市にある【筑後・神代館】♪築城年代は定かではありませんが神代良続が築かれてたと伝わります☆この神代家は高良玉垂命の後裔と云われています☆以後、代々にわたり神代氏の居城として存在しました☆

戦国時代には『隈代』として島津家久上京日記にその地名が出て来ます♪上井覚兼日記にも『隈代の渡』と出てきてて、いずれも神代集落の事です♪更に紹釼日記では筑後川の事を『くましろ川』と称してもいます♪

神代氏の家譜(筑後国史)には大祝美濃理麿保続の次男・武勢麿良続が白鳳の頃に武人になって御井郡・神代村に居館して神代氏を称したのが始まりで戦国期には神代対馬守顕元が出亡して肥前に土着したと伝わります☆
そうなんです☆コレにより龍造寺隆信とバチバチした三瀬城の神代勝利の祖先様と云う訳です☆肥前史に繋がります☆

この神代家は『文永の役』に際して博多に向かう肥薩方面の軍勢の筑後川渡河を神代良忠が調略をもって援けたという所伝が残り鎌倉後期の作と伝わります☆
「絹本着色観興寺縁起」(国重文)に神代の浮橋および神代館の様子が描かれていて神代は筑後川の重要な渡河地点になっていた様で中世にはその渡し場の通行権を高良社が保持して、その管理に大祝一族の神代氏が関与していたものと見られています☆
なお神代山安国寺は暦応2年足利尊氏によって建立された諸国安国寺の1つと伝わります♪神代館は安国寺境内の北側一帯に築かれていた様で神代館は安国寺と南北に並び濠を共有する形だった様です☆
更に西側には国指定史跡の安国寺甕棺墓群が残ります♪この『安国寺甕棺墓群』は筑後川の南岸で発掘された弥生時代中期(紀元前1世紀頃~1世紀頃)の安国寺遺跡から出土した甕棺墓に象徴されます☆
筑後の重要な渡しに、弥生時代の人々の生活♪歴史が詰まってます♪

2021年07月17日 やしち右衛門督
久留米城



江戸時代の久留米藩を治めた有馬氏の居城跡です。
競馬の有馬記念はこの有馬氏から来ているそうです。駐車場は久留米大学と城址の横の道から行け、10台ほどのスペースがあります。立派な石垣が残り、篠山神社社務所横に有馬記念があります。

2021年05月11日 モーリシャス俊影
久留米城



有馬氏の居城、久留米城。
21万石の居城として考えれば、地元でもっと人気がある城でもよいのでは。
櫓や塀は再現して欲しいですね。

若い方は、有馬氏が肥前国の有馬氏ではなく、有馬温泉で有名な地、摂津国の有馬氏であること、
年末の競馬の祭典[有馬記念]は、今のJRAの発展に寄与した有馬頼寧氏の功績を讃え称したものであることを知らないであろう。

2021年01月25日 キックオフ
久留米城

篠山城🏯とも、称されていました。
久留米市出身の画家、青木繁の歌碑や小早川神社が城内に有ります。緑色の桜🌸が植えられています。

2020年12月27日 お猿さん紀伊守せんとくん
久留米城

久留米城跡内に有馬記念館がありますが、競馬の有馬記念とは無関係です。
スタンプは、有馬記念館と久留米城跡内の篠山神社の社務所にありますが、有馬記念館の方が綺麗に押せます。

2020年10月18日 ゆう筑後守
久留米城

本丸には神社があり、普段は静かなお城です。

2019年09月08日 獅子丸城玄蕃頭
久留米城

続100名城のスタンプですが、間違って青色になっていたそうですが、9月8日に捺しに行ったら、正しい黒色に戻ってました。

2019年04月27日 ❢若江河内守國助93.8指
久留米城

インクの色を間違えたのか?平成31年4月24日の残念なスタンプです。(T^T)

2018年08月14日 織田上総介晃司
久留米城

城跡は篠山神社になっており、神社駐車場として蜜柑丸にあります。

駐車場の傍に櫓跡の高石垣と二重の石垣、
神社正面側にまわると水堀と石垣があります。

久留米グルメ情報
久留米ラーメン
濃い豚骨スープ。麺は博多ラーメンのように細くないので替え玉ではなく、普通か大盛か選ぶようになります。
紅生姜はお好みで。

久留米ホットドッグ
一般的にホットドッグといえばコッペパンにソーセージ。マスタードとケチャップをかけたあたたかいもの。
しかし久留米ホットドッグはコッペパンにキャベツのコールスローとプレスハム。辛子マヨネーズで味付けされてあたたかくない。むしろ冷蔵されてひんやりしてます。

久留米に来たら是非ご賞味あれ(*゜▽゜)_□



2018年04月06日 さすらいの征夷大将軍慶誾尼☆寧
久留米城

続百名城スタンプは篠山神社社務所にて申し出れば押して頂けます。

2017年05月27日 はやぶさ
久留米城

本丸内の有馬記念館で、本日より7月31日まで、『藩主の肖像』展やってます。藩お抱えの絵師による歴代藩主の肖像画や書状などが展示されてます。入館料200円。

2017年05月08日 五瓜ニ唐花紋太政大臣や~きみ
久留米城

石垣の遺構があります。
神社になっています。
駐車場あり。

2016年10月01日 さくら
久留米城

高校生の頃、部活でランニングの途中に城の石垣にもたれて筑後川に映る夕陽を眺めてたのを思い出すなぁ。
青春の一ページ

2016年01月22日 まるき〜陸中守
久留米城

城址内はそんなに広くないので2〜30分もあれば一通り回ってこられるかな〜と思います
高さのある石垣と北側に堅掘のような切込みが数カ所ありました
城内に篠山神社が設置され 静粛な雰囲気の中、小鳥のさえずりが聞こえたりするリラックスできる場所でした
小倉城から移設されたという東郷元帥の書斎もここにあります

駐車場は東側、高〜い石垣のすぐ下に…

2012年12月16日 
久留米城

駐車場は無料です。現在お城の後には篠山神社と小さな資料館があります。


2012年02月14日 加藤豊後守清正
久留米城

歴代城主の中でも田中吉政は、32万石の大名です。二重の多聞櫓、二重櫓、三重櫓を築きまた柳川城では、五重六階の天守を築くなどしていて久留米城も名城と言ってもいいくらいです。現存していれば、なお最高!

久留米城の周辺スポット情報

 井戸(遺構・復元物)

 外堀(遺構・復元物)

 本丸(遺構・復元物)

 二の丸(遺構・復元物)

 三の丸(遺構・復元物)

 内堀(遺構・復元物)

 太鼓櫓跡(遺構・復元物)

 艮櫓跡(遺構・復元物)

 月見櫓跡(遺構・復元物)

 坤櫓跡(遺構・復元物)

 西下櫓跡(遺構・復元物)

 乾櫓跡(遺構・復元物)

 冠木御門(遺構・復元物)

 内堀(遺構・復元物)

 巽櫓跡(遺構・復元物)

 武家屋敷門(遺構・復元物)

 御使者家跡(遺構・復元物)

 武家屋敷門(遺構・復元物)

 三の丸堀跡(遺構・復元物)

 三の丸虎口跡(遺構・復元物)

 大手門跡(遺構・復元物)

 狩塚口御門跡(遺構・復元物)

 櫛原口御門跡(遺構・復元物)

 京隈口御門跡(遺構・復元物)

 六ツ門跡(遺構・復元物)

 久留米城趾説明板(碑・説明板)

 神代館(周辺城郭)

 大石館(周辺城郭)

 大隈城(周辺城郭)

 千栗八幡宮(寺社・史跡)

 篠山神社(寺社・史跡)

 稲荷神社(寺社・史跡)

 秋葉神社(寺社・史跡)

 秋葉神社(寺社・史跡)

 五穀神社(寺社・史跡)

 大乗院稲荷神社(寺社・史跡)

 山王宮(日吉神社)(寺社・史跡)

 梅林寺(寺社・史跡)

 水天宮(寺社・史跡)

 祇園社(素盞鳴神社)(寺社・史跡)

 社務所(御城印)

 篠山神社社務所(スタンプ)

 スタンプ(社務所)(スタンプ)

 トイレ(社務所横)(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 駐車場(無料)(駐車場)

 有馬記念館(関連施設)

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