高良山神籠石(こうらさんこうごいし)
高良山神籠石の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 福岡県久留米市御井町
旧国名
- 筑後国
分類・構造
- 神籠石式山城
天守構造
- なし
築城主
- 不明
築城年
- 7世紀?
主な改修者
- -
主な城主
- 不明
廃城年
- 不明
遺構
- 列石
指定文化財
- 国史跡(高良山神籠石)
再建造物
- 石碑
周辺の城
-
久留米城(福岡県久留米市)[5.7km]
西鯵坂城(福岡県小郡市)[7.1km]
赤司城(福岡県久留米市)[7.6km]
発心城(福岡県八女市)[8.3km]
海津城(福岡県久留米市)[8.7km]
朝日山城(佐賀県鳥栖市)[9.8km]
福島城(福岡県八女市)[10.0km]
生津城(福岡県久留米市)[11.9km]
城島城(福岡県久留米市)[13.2km]
堤土塁(佐賀県三養基郡)[13.7km]
高良山神籠石の解説文
[引用元:Wikipedia「高良山神籠石」の項目]
高良山神籠石(こうらさんこうごいし)は、筑後国御井郡の高良山(現在の福岡県久留米市御井町)にあった日本の古代山城(分類は神籠石系山城)。城跡は国の史跡に指定されている。
近年は「高良山城(こうらさんじょう)」とも称される傾向にある[1][2][3]。「神籠石」の遺跡区分名称の由来に関わる遺跡であるとともに、神籠石論争の中心となった遺跡として知られる。
概要
福岡県南部、筑紫平野に岬状に突出する耳納山地先端部の高良山(標高312.3メートル)西側斜面に築城された古代山城である。文献に記載が見えない古代山城(いわゆる神籠石系山城)の1つで、現在の山名を冠する城名は後世の命名による。城は高良山の山上に土塁を巡らすことによって構築され、谷部2ヶ所では石塁の水門が構築される。
遺構としては土塁基底部の列石が良好に遺存し、この列石が「神籠石」と誤称されたことに由来して「高良山神籠石」の遺跡名が定着するとともに、文献非記載の古代山城についても「神籠石系山城(神籠石式山城)」の遺跡区分名称が定着した。それと同時に、明治-昭和期に列石遺構の解釈について山城説・霊域説に大別して繰り広げられた論争、いわゆる「神籠石論争」の中心となった遺跡でもある。
城跡域は1953年(昭和28年)に国の史跡に指定されている。
歴史
古代
高良山城は文献上に記載のない城であるため、城名・築城時期・性格等は明らかでない。天智天皇2年(663年)の白村江の戦い頃の朝鮮半島での政治的緊張が高まった時期には、九州地方北部・瀬戸内地方・近畿地方において古代山城の築城が見られており、高良山城もその1つに比定される。立地としては、山麓の筑後国府跡前身官衙・西海道・筑後川を抑える要衝になり、付近では筑後国府跡前身官衙・高良山城と同時期の水城状遺構(小水城)の上津土塁の構築も認められている。また広域的には、筑紫平野の古代山城として北に阿志岐山城・基肄城・大野城、東に杷木城、南に女山城、西に帯隈山城を望む。
築城時期については、『日本書紀』斉明天皇4年(658年)条[4]に見える「繕修城柵断塞山川」を神籠石系山城の築城・改築記事とする説があるが、同記事は百済国内の軍事的動向を示すとする説もあって詳らかでない。また高良山城では城壁の北半部が未検出であるが、これを天武天皇7年12月(679年1月)[5]の筑紫大地震の崩壊によるとする説があり、それが正しければ679年以前の築城が示唆される。そのほか、『続日本紀』文武天皇3年(699年)条[6]に「令大宰府修三野、稲積二城」と見える2城の所在地が現在まで明らかでなく、通説では博多湾沿岸説や南九州説が挙げられるが、近年では三野と「耳納(みのう)」の音通から三野城を耳納山系の高良山城に比定する説も挙げられている。
高良山城に関連する古代の施設としては、山上に鎮座する高良大社が知られる。この神社は、文献上では延暦14年(795年)[7]を初見として「高良神」や「高良玉垂神」などと見え、『延喜式』神名帳[8]では「高良玉垂命神社」として式内名神大社に列している[9]。考古学的には神宮寺の高隆寺の8世紀後半-9世紀初頭の存在が確実であるため、高良大社も奈良時代以前には成立していたものとされる。古代山城に式内社が重複する例は他にも見られ[10]、機能喪失後の古代山城の神聖化を指摘する説もある[11]。
中世から近世
『高良玉垂宮縁起』(鎌倉時代後期以前の成立)では、列石遺構を「八葉(はちよう)の石畳」、高良玉垂神の住まいの磐座(馬蹄石)を「神籠石」として記載する(列石遺構に関する最初の記録)。その後は『絹本著色高良大社縁起』・『高良記』・『高良山八葉石記』でも、同様の区分・呼称による記述が見える。
江戸時代中期の『筑後志』では列石遺構が「神籠石」として記載されるようになるほか(列石遺構を「神籠石」と称する最初の記録)、幕末の『筑後国郡誌』でも列石遺構を「神籠石」とも「八葉石」ともいうとし、名称に混乱が生じている。
近代以降
近代以降については次の通り。
- 1898年(明治31年)、小林庄次郎が高良山の列石遺構について、霊域を示すものと解釈して「神籠石」の名称で学会に最初に紹介。
- 1900年(明治33年)、八木奘三郎が列石遺構の解釈について山城説を提唱。
- : 以降、列石遺構を巡り霊域説(坪井正五郎・喜田貞吉ら)・山城説(八木奘三郎・関野貞・谷井済一ら)に分かれて論争の展開(神籠石論争)。
- : 1963年(昭和38年)のおつぼ山城(おつぼ山神籠石)、1964年(昭和39年)の帯隈山城(帯隈山神籠石)の発掘調査結果から、神籠石論争は最終的に山城説で決着。
- 1953年(昭和28年)11月14日、「高良山神籠石」として国の史跡に指定。
- 1976年(昭和51年)12月25日、史跡範囲の追加指定。
- 1989年(平成元年)10月9日、史跡範囲の追加指定。
- 2009年(平成21年)、福岡県久留米市で第4回神籠石サミットの開催。
遺構
- 城壁
- 城壁は全周2.5-3キロメートル(城内面積約355,000平方メートル)。5つの峰々(吉見岳<北東>・本宮山<南東>・鷲ノ尾岳<南>・勢至堂山<西>・虚空蔵山<北>)を巡るとともに2ヶ所の谷(北谷・南谷)を取り込み、馬蹄形に一周する。最高所は本宮山の標高251メートル(高良大社社殿付近)、最低所は北谷の標高65メートルで、標高差は180メートルにおよぶ。城壁は基本的に内托式[12]の土塁とし、谷部では石塁の水門とする。ただし現在は南半部(本宮山-鷲ノ尾岳-勢至堂山-虚空蔵山)の1.5キロメートルに土塁の列石線が遺存するものの、北半部では列石線は確認されていない。
- 土塁の基礎になる列石の石材は緑泥片岩(主体)のほか安山岩・滑石で、平均80センチメートル程度の方形(直方体)の切石とする。基本的に1段積みで直列に並べ、部分的に複数段積みや母岩露頭とする。この列石は土塁裾部の土留め石とされ、その上に版築工法で積み土が構築されて土塁が形成されたが、現在では積み土のほとんどは流失している。
- なお、北谷南側・勢至堂山南西側の2ヶ所では城壁が90度のL字形に屈折しており、望楼が存在した可能性が推測される。また北半部の城壁が認められない点については、急峻な崖状地形であり当初から構築されなかったとする説や、天武天皇7年(678年)の筑紫大地震の際の斜面崩壊で流失したとする説がある。
そのほかに城門は未確定で、城内建物も未検出になる。なお、上記の列石遺構が「神籠石」として紹介されたことに由来して、現在も文献非記載の古代山城は「神籠石系山城(神籠石式山城)」として分類されるが、前述(歴史節)のように本来の高良山の「神籠石」とは高良玉垂神の磐座(馬蹄石)の呼称で、列石遺構の本来の呼称は「八葉の石畳」であったとされる。高良山の例に限らず、「こうご石(神籠石/革籠石/香合石/交合石/皇后石など)」という名称の霊石・磐座は全国に点在することが知られる。
- 水門
- 水門は北谷・南谷の2ヶ所に存在したとされるが、北谷のものは現存せず、現在は南谷1ヶ所のみ認められる。南谷の水門は大きく崩れているが、長さ約7-9メートル、基底部幅約9メートル、高さ約3メートルを測る。少なくとも下半部は夾築式の石塁とされるが、上部については積み土の存在等の詳細は明らかでない。石材は列石と同様に片岩(主体)・安山岩で、方形の切石とし、正面では7段以上を積み上げたとされる。
文化財
国の史跡
- 高良山神籠石
- : 1953年(昭和28年)11月14日指定。
- : 1976年(昭和51年)12月25日に史跡範囲の追加指定(北半部・西側一部)、1989年(平成元年)10月9日に史跡範囲の追加指定(列石に接する土地)。
現地情報
所在地
- 福岡県久留米市御井町
交通アクセス
- バス:久留米駅(九州旅客鉄道(JR九州))から、西鉄バスで「御井町」バス停下車 (下車後徒歩約20分)
周辺
- 高良大社 - 宝物館で高良山神籠石関係資料を展示。
- 筑後国府跡 - 国の史跡。
- 筑後国分寺跡 - 久留米市指定史跡。
参考文献
- 史跡説明板
- 地方自治体発行
- |year=2008|title=郷土の文化財|publisher=久留米市教育委員会|isbn=|page=77|ref=}} - リンクは久留米市ホームページ。
- 【書籍】「第4回神籠石サミット 久留米(史跡高良山神籠石)大会 パンフレット(https://www.city.kurume.fukuoka.jp/1060manabi/2050bunkazai/3020maibuncenter/2014-0610-1528-551.html)」 - リンクは久留米市ホームページ。
- 【書籍】「 - リンクは久留米市ホームページ。
- 事典類
- 【書籍】「国史大辞典 (昭和時代)」
- 【書籍】「日本歴史地名大系 41 福岡県の地名」
- 【書籍】「国指定史跡ガイド」 - リンクは朝日新聞社「コトバンク」。
- その他
- 【書籍】「よみがえる古代山城 国際戦争と防衛ライン(歴史文化ライブラリー440)」
関連文献
- 【書籍】「史跡高良山神籠石保存管理計画策定報告書(久留米市文化財調査報告書 第15集)」
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高良山神籠石の口コミ情報
2024年10月25日 RED副将軍
吉見岳城[高良山神籠石 周辺城郭]
豊臣秀吉も本陣を布いたとされる耳納の山城🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。1533年に八尋式部により築かれたとも、1534年に大友義鑑が築いた要害を1569年に大友宗麟が修築したとも伝わります。
大友氏の属城であったことは確かな様で、大友氏傘下の高良山座主である良寛も在城したとされます。
1587年の豊臣秀吉による九州征伐において、豊臣秀吉は吉見岳城に本陣を布き、龍造寺政家と謁見したとされます。
九州平定後に筑後三郡を与えられ久留米城に入った小早川秀包に高良山座主の麟圭は従わず争いに発展。1591年に麟圭は小早川秀包により謀殺され吉見岳城も廃城となりました。
見所
高良山から北西に伸びる尾根続きにある標高157mの吉見岳に築かれています。
山頂に主郭を置き現在は琴平神社が祀られています。主郭の南東端と北西端に土塁が残り、東下は大堀切で遮断。
主郭から西下に二郭、その先に三郭が連なり、その先にも堀切が認められます。
2024年07月05日 マグロ常陸介祐平
毘沙門岳城[高良山神籠石 周辺城郭]
高良山の山頂に位置します。1359年の筑後川合戦に際し、懐良親王が拠点にしたと伝わります。立地から、高良山座主や高良山勢力を麾下に置いた大友方の武将が陣を敷いたと考えられているようです。
説明板(写真8枚目)近くには土塁を伴う50mほどの一条の横堀(写真1枚目)があります。横堀の西端を南に登ると堀切(写真4枚目)に出ます。堀切から南西に向けてやや広めの長細い曲輪が伸び(写真3枚目)、東に進むと堀切(写真5枚目)があり、その先が山頂の主郭(写真2,6,7枚目)となります。
高良山といえば古くから玉垂宮(高良大社)が創建(西暦367年鎮座とされる)され、677年には神宮寺である高隆寺が創建された信仰の山ですが、不思議なことに山頂には祠のひとつもありません。奥宮(奥の院)は、少し離れた山腹にあります。
2024年07月04日 マグロ常陸介祐平
杉ノ城[高良山神籠石 周辺城郭]
筑後の一の宮である高良大社の背後の尾根が城址となります。お城の歴史については、久留米市のサイトでは「南北朝時代に菊池氏が籠城したととも伝わるが来歴ははっきりしない」とあっさりしていますが、Wikiでは、
・1336年菊池武敏がこの城と毘沙門岳城を本拠地として大宰府の少弐氏をを攻撃(1500騎で籠城)。
・1359年菊池武光に奉じられた懐良親王が布陣し、少弐・大友氏と対決。
・1372年大宰府陥落の際に征西府が設置される。
・1564年筑後に進軍した大友義鎮が本陣として筑後平定を進める。高良山座主良寛も従う。
・1580年龍造寺隆信に攻められ良寛追放。
・1584年沖田畷の戦い後に立花道雪と高橋紹運が布陣。
・1586年島津家久に攻められ焼亡。
とビックネームが並びます。
実際に見てみると尾根を利用したお城ということで、曲輪もかなり狭く(写真5枚目)、大軍が駐留出来る感じには思えません(すぐ下の高良大社を利用?)。
お城は、高良大社のすぐ裏にある神籠石の坂道を西端の堀切(写真8枚目)として、ピークに二段の曲輪があります。下段の曲輪の北側には西側のやや広めの竪堀(写真4枚目)を起点に小刻みに30条ほどの畝状連続竪堀(写真6枚目)が見られます。通路からは少々薮に入ることになりますが、必見の遺構ですね。落ち葉の堆積が激しく薄めではありますが下草が少なめです。南側は傾斜もあり遺構は見られませんが、周囲には横堀(写真3枚目)や石積み(写真7枚目),堀切(写真2枚目)などもみられ、オススメのお城です。
2024年07月03日 マグロ常陸介祐平
高良山神籠石
神籠石論争の中心となった神籠石系山城です。説明板によると、延長は1.6㎞で1300もの巨石が連なっているようです。論争では、山城として決着していますが、高良山は式内社で筑後一の宮の高良大社が鎮座し、二の鳥居のすぐ先にある馬蹄石は「この大石の上に高良の神が神馬の蹄(ひづめ)あとを残されたという伝えから、「馬の足形」とも呼ぶ。しかし中世の縁起書「高良記」には、この石こそが「神籠石」であり、「八葉の石畳(現在の神籠石列石)」の起点、終点であると記されている。付近の字名も「神籠石」という。おそらく古代の盤座の一種であろう。」と説明されており、霊域説が唱えられた理由がわかります。すぐそばには、神功皇后が朝鮮出兵を前に石と背丈を比べて吉凶を占ったとの伝説がある「背比べ石」や朝鮮式山城お決まりの水門も見られます。
高良山神籠石はもちろん国の史跡に指定されていますが、西日本に16ヶ所がある神籠石の14ヶ所が国の史跡に指定されており歴史的な価値が大変高いものです。
高良山は神仏混淆(仏教的なものは廃仏毀釈によりほぼ消失)の霊山であるとともに、山城の宝庫でもあり、史跡探訪には絶好な場所です。
2023年05月13日 RED副将軍
鶴ヶ城[高良山神籠石 周辺城郭]
筑後の巨大な堀切、畝状竪堀、土橋が見事な隠れた名城🏯
オススメ度 ★★★★★
築城年代等の詳細不詳。
高良山に築かれた城砦群のひとつ。
毘沙門岳城から北西へ延びる尾根の突端頂部に位置し、杉ノ城からは谷を挟んだ場所にあるため、その出城と考えられています。
杉ノ城も城史は不明ですが、毘沙門岳城は南北朝時代に懐良親王が拠点を置いたとされ、立地からは高良山座主や高良山を支配下に置いた大友氏によるものと思われます。
見所
標高159mのピークに東西に30m、南北に15mの主郭を置き、西側に一段下がった同規模の副郭を配する小規模な城郭です。
但し、主郭北側には横堀を伴う大規模な畝状空堀群、東側尾根は巨大堀切を含む五条の堀切で遮断され見事な土橋も認められます。
西と南側は絶壁の険しい自然地形となっています。
高良山の山塊には良い山城が多いですが、ここは超マイナーにして残存度は極めて良好です。
ここは情報も少なく行ったことある方も少ないのでは。やっぱり地元の方からの口コミ情報が一番。教えてくれた九州の城友さんに感謝感謝✨
行き方は、まず高良山の中腹にある王子池を目指してください。ここまでは車で行けます。
そこから東へ向かい鶴ヶ城ノ滝御通夜堂を通り越して登って行くと辿り着けます。
写真
①東尾根の連続堀切に架かる土橋
②③東尾根の連続堀切
④⑤主郭東下の巨大堀切
⑥⑦⑧主郭北側下の横堀に付随した畝状竪堀
2023年04月27日 RED副将軍
古宝殿城[高良山神籠石 周辺城郭]
高良山座主の出城と伝わるナゾの城🏯
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
6世紀から7世紀頃に当妙見山の山頂に築かれた高良山座主の出城と伝わりますが詳細不詳です。高良玉垂命の9人の皇子が最初に生まれたので、「古宝殿」と呼ばれる様になったと伝わります。
見所
広い削平地が広がり王子宮跡が残ります。段郭の様な削平地が連なり石積みもありますが、後世の改変の様に見え、明確な城郭遺構は見当たりませんでした。高良山の山中には高良山神籠石、毘沙門岳城、杉ノ城、吉見岳城、鶴ヶ城等の城郭が密集しているので併せての訪城がオススメです。
行き方は、高良山の中腹にあり、久大線御井駅の近くにある王子池までは車で行けます。そこから400段の長い階段を登ると辿り着きます。
2023年02月08日 こまち陸奥守
高良山神籠石
石段を上がりきったら素晴らしい景色でした!
2022年09月13日 トビー対馬守
高良山神籠石
城跡というか、神籠石の列ですが、車でならすぐにアクセスできます。また、高良大社の本殿のすぐ後ろの道にも、神籠石は有りますので、高良大社の参拝後に見ても良いかと。添付写真は、その神籠石になります。
2022年06月29日 RED副将軍
高良山神籠石
九州を代表する神籠石式山城のひとつ
古代山城の列石が延々と続いています✨
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
文献上に記載のない古代山城であり、築城時期等は不詳。
663年の白村江の戦い頃に、朝鮮半島での政治的緊張の高まりにより九州北部、瀬戸内、近畿で古代山城が築城されているため、同時期のものと考えられています。
見所
耳納山脈の西端に位置し、高良大社の背後から全長約4kmにおよび列石が続いています。約1300個の列石が発見されているとのこと。
神籠石の列石は、本来は版築土塁の基礎となるもので、土塁内部にあったものが風化により露出したものです。
山上に鎮座する筑後國一の宮の高良大社の他にも、杉ノ城、毘沙門岳城、吉見岳城、発心城 等の耳納山系には多くの良い山城があるので併せての訪城もオススメです✨
2022年04月26日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
東光寺城[高良山神籠石 周辺城郭]
福岡県の久留米市にある【東光寺城】♪高良山の北西端にある標高66mの半独立丘陵に立地します☆同じ独立丘陵の茶臼山との間に中世の交通路があって交通の押さえに高良山の北の防衛ラインとして城郭は機能しました☆所謂、高良大社を守る為の城郭寺院の類でしょう☆
築城主、年代は不明ではありますが、高良山に属する東光寺が鎌倉時代にココに築かれ、伝法師がいたとされています♪高良山勢力(座主、大祝、大宮司)の者なのでしょう☆
戦国時代には、この高良山勢力(座主、大祝、大宮司)は豊後国・大友氏に属していた様で、高良山勢力は高良山麓を通過する道を押さえ監視していました☆
鎌倉時代に何らかの防衛施設が築かれ、以降、高良山が軍事的な緊張が入る度に北の防衛ラインとして機能したのでしょう☆
残る遺構としては3段の郭に空堀が設けられています♪現在は山川招魂社が鎮座しています☆これは明治2年に久留米藩主・有馬頼咸公が高山彦九郎はじめ、明治維新の大業に身を投じた志士38人の霊を祀る招魂所が設けられました☆
2022年02月09日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
毘沙門岳城[高良山神籠石 周辺城郭]
福岡県の久留米市にある【毘沙門岳城】♪高良山の主峰である毘沙門岳(標高312m)のPeekに城郭は存在しました♪
別名・別所城とも呼ばれます☆
築城時期、築城者共に不明の城郭となりますが、筑後川合戦の時に懐良親王の本城になったと伝わります☆
この別所城の別所とは高良山山頂一帯の地名として室町期に出てきます☆
『カイタン(戒壇)ノ在所ナルユヱニ別所トハ名付タリ』と残っていて別所の地名由来とされています☆
南北朝時代には筑後守護職の奪回を図る菊池為邦が、弟の菊池為安を筑後に出陣させて大友氏の別所城を攻略しています(菊池為安は戦死)この南北朝時代よりしばしば軍事上の要衝となったと思われ、山自体が城塞化をしたと考えます☆
同系山の別峰には吉見岳城、杉ノ城、鶴ヶ城、東光寺城などがあり裏では高良大社との繋がりが大いに考えられます☆
志賀親家宛、大友親繁感状に『高良山別所城』の名が残っています☆
城郭としてはY字形に配された郭で城郭を形成しています☆Peekである最高所が主郭と思われます☆この主郭は周囲を土塁で囲んでいてこの場所を『城の平』と呼ぶ名前が付いています☆
本丸北側は緩やかな傾斜地で横堀と土塁が残っていて、山斜面には竪堀、郭の区画には堀切を入れ込みます☆
2022年02月06日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
杉ノ城[高良山神籠石 周辺城郭]
福岡県の久留米市にある【杉ノ城】♪別名を住厭城と呼びます☆高良山中に所在する中世の山城は正確な築城時期、築城者は共に不明の城郭となります☆
但し、高良神が西征の際、この杉ノ城を本城にしたと云う伝えも残っています♪
『住飽 城跡アリ 大谷ノ上 杉城トモ云 菊池氏ハ千五百騎ニテ籠城也』と残り南北朝時代に北部九州を手中に治めた菊池氏が出て来る☆つまり南北朝時代には城郭はあったと推測が出来ます☆南北朝時代に菊池氏が築城したと云うのが定説になっています☆
毘沙門嶽から伸びる尾根線上に♪個人的にはもっと古くから砦程度のモノはあったんじゃないかなぁ〜❓とも思います☆
高良山神籠石(古代山城)がそれを物語ます☆高良大社廻りには多くの城郭が存在した事は前に述べましたが、高良大社の背後に位置する杉ノ城はヤハリ高良大社が運営し城郭寺院として活用した可能性が高いと思われます☆
古代山城の高良山神籠石に中世の山城の数々☆更には筑後の一の宮と呼ばれる高良大社です♪古くから多くの戦乱を勝ち抜いて来た場所に間違いはありません☆
人々は古来より高い場所に陣を張り、initiativeを取りに行った☆
大和朝廷より命じられ古代には高良山神籠石を築き平安時代には高良大社(筑後国の一の宮として地域筆頭の格式を朝廷から賜る)を築き大社を護る為に戦乱には城郭を築いた☆
戦国の乱世には、豊後国の大友氏も薩摩国の島津氏も肥前国の龍造寺氏も更には太閤となった豊臣秀吉まで(吉見岳城口コミ済)♪
皆んな一度はこの高良山に陣を張りました♪
寺院と戦国武将とは京の比叡山同様に切っても切れない関係だと云う事は何度か述べていますが、ここ高良大社、更には杉ノ城を含む周辺城郭達は、つまりそう云う事なんでしょう☆高良大社は戦国大名化してカナリの幅を利かせていた☆容易に想像がつきます☆
城郭には堀切、土橋、切岸、郭、虎口、石積み、何でも残ります♪更には畝状竪堀群まで残っています♪戦国時代後期まで使用されたのでしょう☆この高良山は妄想の宝庫ですw
何度でも足を運んでしまう素敵な城郭です☆
写真の石列は高良山神籠石♪
写真の建物は格式の高い高良大社です♪
2022年01月29日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
吉見岳城[高良山神籠石 周辺城郭]
福岡県の久留米市の高良山にある【吉見岳城】♪耳納連山の西側に立地した戦国の山城は高良大社の座主の山城と云われます♪
築城主、築城時期には諸説ありますが、高良山の地侍・八尋式部が築城したという説と、高良山座主良寛が在城し次いで麟圭が拠ったという説があります☆
城郭の造り方は紛れも無く中世の山城の顔をしています☆
それもその筈で、大友義鑑が筑後出馬の際にこの地に陣を張り要害を設けました☆
大友義鑑の子である、大友義鎮(後の大友宗麟)が肥前の熊こと、龍造寺隆信との戦い時に本陣として城郭を改築した様です☆
その後は大友方の城郭として高良大社と共に成り立っていたと考えられます♪
秀吉による島津攻めの途中に、当の本人が吉見岳城に布陣もしています☆
毛利秀包が久留米城に入城すると、当主である麟圭はこの吉見岳城に籠り毛利秀包と争いますが、麟圭は誘殺され、同時に廃城となりました☆
高良大社から西に伸びた尾根上に城郭は造られ、展望は抜群♪眼下には筑後川、東に浮羽、西には佐賀平野、北は小郡一帯が望める好立地な物件なのであります☆
この吉見岳城周辺、というより、高良大社周辺は山城が幾つもあります☆それは高良大社という寺院の影響力や支配力、この地においての力があったと読み取れます☆以前にも書きましたが豊後の名族、大友氏と繋がった高良大社は大名化していたのでしょう☆
2022年01月09日 RED副将軍
毘沙門岳城[高良山神籠石 周辺城郭]
高良山山頂の耳納山系中世城館
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。
1359年の筑後合戦では、征西将軍宮として九州の勢力を広げた懐良親王を奉じた菊池武光が本城とした様です。
見所
高良山主峰である標高312mの毘沙門岳山頂に主郭を置き、Y字の尾根に郭が連なります。
東側の尾根筋には二重堀切で遮断、北西の尾根筋は最大の堀切があります。
主郭の北側の竪堀群は甘めですが、その下の土塁と空堀はしっかりと確認できます。
立地的にも大友氏の手が入っていると思われます。
行き方は、車で山頂付近まで上がれ、久留米森林つつじ公園の駐車場が利用できます。
2021年11月25日 RED副将軍
杉ノ城[高良山神籠石 周辺城郭]
別名を住厭城(すみあけじょう)。
名城が多い耳納山系の中世城館のひとつで高良大社の背後から直ぐの城跡です✨
オススメ度 ★★★★⭐︎
高良山山頂から西方の標高約310mの尾根に位置します。山頂には毘沙門岳城、周辺にも吉見岳城等の城跡が点在しています。
南北朝時代に菊池氏によって築かれたと言われています。筑紫平野に突き出した高良山は、筑紫平野を一望できる交通の要所であり、九州の要と見られ、高良山をめぐる戦いが繰り広げられていました。
戦国時代には大友氏の城となり、1580年には龍造寺隆信が侵攻し攻略。その後は再び大友氏が奪還したと言われています。廃城時期は不明です。
見所
城域北側には畝状竪堀がビッシリ残ります。東郭の東側には土橋付きの二重堀切にて城域端部を防御。東郭北側には深い横堀が確認できます。
写真
①②城域東端の二重堀切には土橋が架かる。
③主郭。
④城域西端の堀切は登山道で薄め。竪堀が落ちる。
⑤⑥城域北側には畝状竪堀がビッシリ。
⑦⑧東郭北側の横堀。
2021年11月05日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
上津土塁[高良山神籠石 周辺城郭]
福岡県の久留米市にある【上津土塁】♪土塁の痕跡が住宅地に残ります♪
この土塁は古代にヤマト政権の大宰府を守る為に築かれた土塁になります☆
天智2年(663年)唐・新羅の連合軍に滅ぼされた百済の再建を支援する為に朝鮮半島に出兵した倭国(日本)は白村江の戦いで大敗してしまいます☆
その後、大宰府を中心とした北部九州の防衛の一つとして、久留米市の南側に、この上津土塁は築かれました☆※福岡県の大野城、水城、高良山城、佐賀県の基肄城、岡山県の鬼ノ城、香川県の城山城、熊本県の鞠智城等が同年代に築かれたものになっています☆大野城の様な『古代山城』と水城や【上津土塁】の様な『土塁』に守られた太宰府は、行政機関として凄く重要な場所だったという訳です♪
太宰府より南方にある基肄城、高良山城がこの太宰府を守り高良山城から更に南にある【上津土塁】が有明海方面からの侵入者からヤマト政権を守る為に土塁を構えていた☆凄くないですか?
太宰府からは直線にして20キロ位かな〜☆距離がある訳なので、その守り方といったら通常の城郭とは全く違いますね♪それだけヤマト政権の力は絶大だったという事ですね♪
現在、光明寺を区画して状態で土塁の一部は残っています☆写真のコンクリートで保護された高まりが【上津土塁】となります☆此れが残っている事が凄いです♪
2021年06月26日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
鶴ヶ城[高良山神籠石 周辺城郭]
福岡県の久留米市にある【鶴ヶ城】♪素敵な動線(大手堀底道)に多重堀切♪更には畝状竪堀☆昨日口コミ済みの古宝殿城とは横峰に位置した戦国の山城となります♪
高良山周りを堅める為に築かれた城郭は毘沙門嶽城、杉ノ城と同時期のモノと思われこの城郭の出城だと思われます♪
歴史詳細は一切不明ですが、肥前国を攻めた時に毘沙門嶽城に布陣した大友宗麟?
はたまた筑紫氏城館遺跡の勝尾城を攻めた時に薩摩島津氏が使用したか?
何れも戦う城郭といった性格を持ちます☆
背後には毘沙門嶽城、杉ノ城☆直線に直したら500m位です☆
素晴らしい遺構を残します♪
高良山から北に伸びた尾根は西へ曲がり、その尾根上の先端部に築かれてます☆標高は150m付近に主郭を持ちます☆
主郭は本当小さくて民家(今は使われてません)が築かれています☆
この背後東側に大堀切を構え、更には連続堀切、土橋などを造り込んでます♪
この民家の南側は絶壁になっていて古宝殿城との谷を挟み容易に攻め手を寄せ付けません☆北側の段下には横堀が走り、更に畝状竪堀を構えて北側の守りを堅めます☆西側の三条の竪堀は巨大で動線として使用したのでしょう☆見るからに城砦感、丸出しの印象で力強いです♪凄くオススメですすぐ行けます☆
因みに自分は…古宝殿城の後、回り込むのが面倒になり南側の絶壁から上がりましたw
普通に行った方がいいですw道はあります☆
2021年06月25日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
古宝殿城[高良山神籠石 周辺城郭]
福岡県の久留米市にある【古宝殿城】王寺池の南側の山中に大きな削平地が残ってます♪城郭の詳細は不明な点が多いです☆6世紀から7世紀頃に築かれた高良山座主の出城と伝わります☆高良玉垂命の9人の皇子が最初に生まれたので「古宝殿」と呼ぶ様になったと伝わります♪築城はこの時代としても、その後『何らかの場面で使われてはいるんでは無いか』?個人的には思います☆この近隣には毘沙門嶽城、杉ノ城、鶴ヶ城、高良山神籠石と色んな時代の歴史の背景が渦巻いてます☆交通の要衝地である久留米が丸見えで更には筑後平野、筑紫平野、佐賀平野方面まで☆場所によっては、この山の城郭達、寺院からは見えます☆古くは高良山神籠石が築かれた7世紀頃から何かを造る絶好の場所だった訳です☆この古宝殿城と時代感が重なりますね☆更に山中には筑後の一の宮である高良大社が存在します☆高良大社もまた、古く仁徳天皇(5〜6世紀)または履中天皇が創建と伝えられています♪高良山神籠石の築城にも、この古宝殿城の築城にも高良大社は充分に関わった可能性がありますね☆その後、高良大社は絶大なる力を持って今に続く訳ですが高良山周辺には幾つも山城が残ります☆それは鎌倉、南北朝、戦国と動乱期を迎えて行く中でこの高良大社は、大名の顔色を伺い生き残る為には自分達も強く成らなければならなかった☆この山城達も高良大社の息がかかったモノだと思います☆つまり城郭寺院の要素を兼ね備えていった☆戦国時代には、この高良大社は周辺諸国の戦国大名とも大きく関わりを持ち大友宗麟は肥前攻め時に高良大社の背後の毘沙門嶽城に布陣しています☆京都・比叡山延暦寺の様に寺院が力を持ち戦国大名化する事はある話で、高良大社はかなりの力を持っていた事は間違いないと思われます☆古宝殿城は高良山西側の前線に張り出し出ます☆谷を挟み横の峰には鶴ヶ城があって連続堀切、連続竪堀などが残り戦国時代の顔を残します☆広い削平地が残る古宝殿城は兵を駐在させるにはうってつけの場所、広さだなぁ〜って印象です☆恐らく、大友宗麟が、更には勝尾城に籠る筑紫氏を攻めた薩摩国の島津氏が兵を駐在させた?此処を使わない手は無いです☆他国を攻める為には大軍で向かう必要がある訳なので、兵を留める場所は必要不可欠です☆兵を溜めた場所♪そんな性格の城郭に見えてしまいます☆山中には石積みが残ります♪後世に畑にしたモノか解りません☆
2021年03月03日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
毘沙門岳城[高良山神籠石 周辺城郭]
福岡県の久留米市にある毘沙門岳城☆主要部の横堀に畝堀を持つ小田原・北条氏もビツクリwな城郭になりますw高良山の標高312mのピークに主郭を構えます♪昨日口コミした杉ノ城とは同山、別峰の直線距離500mと2つの城郭の関係性は?
築城主と築城時代は不明です☆
別名・別所城は菊池武敏が毘沙門岳城や西の杉城を本拠地に大宰府の少弐氏を攻撃したと伝わります☆後に少弐頼尚が一色範氏らと争い、古浦城に籠もった所を菊池武光が援軍に入るとも残ってますが、浦ノ城という説とココ高良山だとする説があります☆
先程の直線500mに位置する杉ノ城に毘沙門岳城…元々は1つの城郭だったのかもしれないと感じました♪杉ノ城を本城として詰城に毘沙門岳城それ位この2つの城郭の位置関係の不思議さたるや無いですw後の戦国期には龍造寺氏、大友氏、秋月氏の草刈り場となって行く為に古くから使われた城郭で改修、拡大が入るのは自然の流れでそれだけ立地は抜群です♪
更に、鳥栖にある勝尾氏城館群を攻めた薩摩・島津氏はこの高良山に陣を張ったとも言われている為、兵の駐屯地を考えた際に、毘沙門岳城だけでは手狭でもあります☆南の大国薩摩から攻め入る際に数千の兵で攻めると言う事も考え難いです♪現に高橋紹運籠る北の岩屋城攻め(太宰府)の再は5万の兵で攻め寄せたと伝わります☆
色んな事が情報として残っていない為、妄想の世界には成りますが、この妄想をしながら城郭を廻る♪楽しいですね♪(*´∀`*)
駐車場はバッチリ完備されています♪
久留米森林つつじ公園を目指して下さい☆
整備もバッチリで公園になっています♪
杉ノ城同様に登らず行ける城郭なのでオススメですヾ(๑╹◡╹)ノ
2021年03月02日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
杉ノ城[高良山神籠石 周辺城郭]
福岡県の久留米市にある杉ノ城♪別名を住厭城と呼びます☆
高良大社のある高良山の山頂に位置する毘沙門岳城から西に伸びる尾根上に城郭は展開されています☆
この高良山もまた山城が多くて、古くは高良神籠石、鶴ヶ城、毘沙門岳城、吉見岳城に、ここ杉ノ城☆更に西側には鷹取城、発心城、発心本城と激戦に塗れていたエリアとなっております♪眼下には久留米市が見え遠くは鳥栖方面☆西には龍造寺氏が抑える肥前国☆東には大友氏が構える豊前・豊後国☆秋月氏が睨む筑後、筑前国とも交わる交通の要衝地になります☆
この杉ノ城は古くは南北朝時代に菊池氏によって築かれたと伝わります☆
戦国時代には大友氏の城になり直ぐに龍造寺隆信が攻略☆その後再び大友氏が奪還しました☆この2つの勢力が、菊池氏時代の杉ノ城を拡大、改修したのでしょう☆
主要部分の切岸側面には連続畝状竪堀☆その数は30条近くあります☆北側の街道側に向けられています☆後、同山、別峰の斜面に明らかに人の手が入った様な痕が♪畝竪状になっているので此れも写真に上げておきます♪
自分が思った事としてはこの辺りに目紛しく立地する城郭群達は同山にある高良大社の力が強く働いている様な気しかしません☆
農民も時には戦時に向かっていた乱世の時代ですから高良大社とゲキ近の場所にあるコレらの城郭群は紛れも無く配下に加えられていた訳で居住は勿論、時には戦時に向かっていたのでは無いか?戦で負けてしまった場合の敗戦処理後は殺されてしまうかもしれない時代なだけに傍観すると言う事はしないし出来ないでしょう☆何らかの形で関わっていた事は間違いないでしょう☆
情報も金も集まってくる自社仏閣だからこそ石山本願寺や叡山の様な『城郭寺院』だったんでは無いか?杉ノ城に関しては高良大社を取込む様な形で位置しているのでそんな疑問が湧いてきました☆もう少し掘り下げてみるか〜☆とその場を後にしました♪(*´∀`*)
駐車場は高良大社の駐車場をお借りしました♪
全く登らないので直ぐに行ける城郭でオススメです♪