朝日山城(あさひやまじょう)

朝日山城の基本情報

通称・別名

旭山城

所在地

佐賀県鳥栖市村田町字朝日

旧国名

肥前国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

朝日資法

築城年

建武元年(1334)

主な改修者

主な城主

朝日氏、大内氏、渋川義長、筑紫氏

廃城年

天正14年(1586)

遺構

曲輪、土塁、堀切

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

久留米城(福岡県久留米市)[4.5km]
勝尾城筑紫氏城館(佐賀県鳥栖市)[4.6km]
堤土塁(佐賀県三養基郡)[6.3km]
鎮西山城(佐賀県三養基郡)[6.4km]
西鯵坂城(福岡県小郡市)[6.6km]
海津城(福岡県久留米市)[8.4km]
基肄城(佐賀県三養基郡)[9.1km]
高良山神籠石(福岡県久留米市)[9.8km]
吉野ヶ里(佐賀県神埼郡)[10.6km]
一ノ岳城(福岡県那珂川市)[10.9km]

朝日山城の解説文



朝日山城(あさひやまじょう)は、佐賀県鳥栖市村田町にあった日本の城(山城)。

概要 

佐賀県鳥栖市村田町の標高132.9mの朝日山山頂に位置する。

古代

「肥前風土記」によれば[1]、 当山には「烽壱所」とあり、東は基山、西は日の隈山に通じる狼煙台があった。

中世

1334年(建武元年)、少弐貞経の弟で朝日氏の祖となる朝日資法(但馬守)が築いた。以後200年ほど朝日氏の居城となる。 8代頼貫が享禄年間に討ち死に(1528年に大内義興との戦いで戦死、或いはこのときは大内氏に服属したものの1530年に田手畷の戦いで龍造寺家兼に討たれたとされる)し、朝日山城は一時大内氏の代官が治めた。その後一時少弐氏に誼を通じた九州探題渋川義長が城に入ったが、1532年(天文3年)には少弐氏と北部九州で対立する大内氏の攻撃を受け、主城である綾部城と共に朝日山城も落城した。その後は勝尾城を本拠とする筑紫氏が支配したが、1572年には少弐政興を擁立し龍造寺氏に対抗した朝日山城主筑紫栄門とその父筑紫昭門親子が龍造寺隆信に降伏。筑紫氏は綾部城ほかを龍造寺氏に割譲して和睦した。1586年(天正14年)には北上してきた島津家久に当主筑紫広門が敗れ、勝尾城ともども廃城となった。

近世・近代

幕末には、佐賀藩の洋式練習所として利用されて、鍋島氏の狩猟場でもあった。1874年(明治7年)の佐賀の乱において、当山を守る佐賀軍に対して、政府軍が攻撃を行っている。1902年(明治35年)の特別大演習、1916年(大正5年)の陸軍大演習で、当山から天皇が演習を視察。

現代

城跡は曲輪や堀切、土塁、馬洗池の跡などが残る。朝日山全体が朝日山公園として整備されており、曲輪の内部には遊具なども置かれているが、山城の面影をよく留めている。

参考文献 

  • 【書籍】「 角川日本地名大辞典」

朝日山城の口コミ情報

2022年09月17日 龍馬備中守【】
養父館[朝日山城  周辺城郭]



佐賀県の鳥栖市にある【養父館】♪筑後川の支流・安良川の中流域、牛原扇状地の東南端の平野部に立地します♪
肥前風土記には纒向日代宮御宇天皇の狩猟の時に往時の百姓が集まった事で、犬が吠え、1人の産婦が出た所、犬の吠えが止んだ事から『止む』が転下した事によって養父という地名になったとされています♪
伝承の域でしょうが面白いですねw

養父八幡宮の北西側には『館屋敷』の地名が残り、古代養父郡郡家の所在地だと推定されています♪

神亀元年(724年)に聖武天皇の命をうけた養父郡司・壬生春成が、この肥前に社殿を造営し創建したと伝わります♪
壬生氏と云えば、中世には下野国に勢力を振るった事で有名ですが、肥前・壬生氏との関係性は解らずじまいでした☆が、この社殿というのが肥前一宮で知られる千栗八幡宮という訳です♪

この養父館は古代養父郡司である奈良時代の壬生春成の館と伝えられています♪
更には千栗八幡宮から分霊して祀ったのが、養父八幡宮と伝わります♪神亀2年(725年)の出来事です♪

養父の地は鎌倉時代には養父荘として発展した荘園で宇佐弥勒寺のものでありました☆
宇佐神宮は大分県の国東半島にある、格式高い寺院ですね☆
戦国時代には太宰少弐氏から筑紫氏が知行を安堵されています☆

養父八幡宮の背後には壬生春成の墓といい伝えられている墓石が残っています☆
更に養父八幡宮の西側にある小川に沿い南北に土塁が残されています☆

2022年08月05日 龍馬備中守【】
安芸さん屋敷(村田鍋島家屋敷)[朝日山城  周辺城郭]



佐賀県の鳥栖市の村田町にある安芸さん屋敷(村田鍋島家屋敷)♪

筑後川の支流の沼川中流で、朝日山から繋がる低段丘に立地します☆朝日山は平地に孤立する標高133mの小山で、朝日山城が存在します☆高い所には昔から何かある✨正にその通りですね♪

この安芸さん屋敷(村田鍋島家屋敷)は江戸期を通じて佐賀藩親類四家の一家である村田鍋島家の知行地となります♪
この村田鍋島家は親類四家の中では創立が最も遅くって貞享元年、初代佐賀藩主・鍋島勝茂の11男・直長(神代家)の子・茂英を初代として成立し知行地6000石を有しました♪

この村田鍋島家は村田八幡宮の東側の丘陵に屋敷を構え、調練場や学館、お茶屋、武家屋敷等を構え小城下町を形成していました♪
この村田鍋島家の屋敷は『安芸さん屋敷』と称する地名として今も伝わります♪

更に、村田集落は長崎街道が通り小宿場の役割として機能しました♪
村田八幡宮は、応神天皇、玉依姫命、筒男命、菅原道真、豊玉彦命、保食神を祀ります♪元は江島集落に豊前国宇佐神宮の分霊を勧請して創建しますが、中世に領主・筑紫広門が現在の地に遷座しました♪
この村田八幡宮は天正14年の薩摩島津氏が勝尾城を攻めた際に兵火にかかり焼失してしまいます☆が、再度、再興しています☆
村田鍋島家の手厚い保護を受け現代に至ります♪
怪しい地形は在るものの、遺構は残っていませんでした☆現在はゴルフ場の駐車場付近が屋敷跡じゃないか❓とされています♪

2021年10月28日 龍馬備中守【】
肥前白石神社[朝日山城  寺社・史跡]



佐賀県の三養基郡のみやき町にある【みやき皿山、白石神社】城郭か居館か?残念ながら城郭ではありません☆

白壁集落の北丘陵地、白石鍋島家の本拠地であり藩士の居住集落でありました☆白石鍋島家の創設は佐賀藩主・鍋島勝茂の四男、鍋島直弘です☆鍋島直弘は初めは佐賀の治水の神様である成富兵庫茂安の養子となりましたが物成一千石を分知して鍋島家に復しました☆
代々山城守を称して親しまれました☆

配分地が分散するのは佐賀藩の特色ですがこの白石も例外では無く中原、白壁、納江、松枝などの各集落に飛地がありました☆

白石鍋島家の巴主は常時、佐賀城下に居住していますが白石には巴主邸のお茶屋、更には集落内には軍団所、調練場、百間馬場、学館などがありました☆今は田園と住宅地になっているのですが往時は、この丘陵を利用した村が形成されていたという訳です☆

白石神社は巴祖である鍋島直弘を祀っていて創建は文政6年(1823年)後に白石鍋島家の8代目・直暠、更には成富兵庫茂安を合祀しました♪

今回の表題【皿山】も白石丘陵の谷部に位置する集落となりますが、この皿山の地は江戸時代から製陶地(白石焼)となっていて古い歴史を残します☆皿山陶業の起源は不明ですが、享保年間(1716年)頃より此処、皿山より住民が土地に産する粘土で農業の傍ら副業として素焼物を焼いたりもしました☆

白石鍋島家の巴主は佐賀本藩の御用窯の大川内(現伊万里市)から藤先百十という陶工を呼び寄せ、この地で御用焼を命じました☆
この藤先百十は試行錯誤、改良を重ね、白罅焼を創製しています☆

朝日山城の周辺観光情報

真木の大藤

真木町天満宮の境内に咲き乱れ、花が棚から垂れ下がり、夜になると照明が点き、多くの花見客で賑わいます。

詳細はこちら

情報提供:鳥栖市商工振興課

朝日山城の周辺スポット情報

 堀切(遺構・復元物)

 空堀(遺構・復元物)

 朝日山説明板(碑・説明板)

 朝日山城跡(碑・説明板)

 説明板(陶板)(碑・説明板)

 安芸さん屋敷(村田鍋島家屋敷)(周辺城郭)

 養父館(周辺城郭)

 曽根崎城(周辺城郭)

 肥前白石神社(寺社・史跡)

 朝日山公園案内板(その他)

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