勝尾城筑紫氏城館(かつのおじょうちくししじょうかん)
勝尾城筑紫氏城館の基本情報
通称・別名
- 勝尾城筑紫氏城館[勝尾城・筑紫氏館・葛籠城・高取城・鬼ヶ城・鏡城・若山砦]
所在地
- 佐賀県鳥栖市牛原町他(地図は勝尾城を示す)
旧国名
- 肥前国
分類・構造
- 城館遺跡群
天守構造
- -
築城主
- 渋川義俊[勝尾城]、不明[筑紫氏館・葛籠城・高取城・鬼ヶ城・鏡城・若山砦]
築城年
- 応永30年(1423)[勝尾城]、不明[筑紫氏館・葛籠城・高取城・鬼ヶ城・鏡城・若山砦]
主な改修者
- -
主な城主
- 渋川氏[勝尾城]、筑紫氏[勝尾城・筑紫氏館・葛籠城・高取城・鬼ヶ城]、草野真清[鏡城]、金屋左衛門[若山砦]
廃城年
- 天正15年(1587)[勝尾城]
遺構
- 曲輪[すべて]、土塁[勝尾城・葛籠城・高取城・鬼ヶ城・鏡城]、石垣[勝尾城・筑紫氏館・葛籠城・鬼ヶ城・若山砦]、横堀(空堀)[勝尾城・葛籠城]、堀切[高取城・鬼ヶ城・鏡城・若山砦]、竪堀[鬼ヶ城・鏡城]
指定文化財
- 国史跡(勝尾城筑紫氏遺跡)
再建造物
- 説明板[すべて]
周辺の城
-
朝日山城(佐賀県鳥栖市)[4.6km]
鎮西山城(佐賀県三養基郡)[6.2km]
基肄城(佐賀県三養基郡)[6.3km]
一ノ岳城(福岡県那珂川市)[6.5km]
堤土塁(佐賀県三養基郡)[7.2km]
久留米城(福岡県久留米市)[9.1km]
西鯵坂城(福岡県小郡市)[9.6km]
岩門城(福岡県那珂川市)[10.2km]
乙隈城(福岡県小郡市)[11.3km]
吉野ヶ里(佐賀県神埼郡)[11.4km]
勝尾城筑紫氏城館の解説文
[引用元:Wikipedia「勝尾城筑紫氏城館」の項目]
勝尾城(かつのおじょう)は、佐賀県鳥栖市河内町にあった日本の城(山城)。本城の勝尾城、鬼ヶ城、高取城、葛籠城、鏡城、若山砦等の支城群と当主の居館跡、家臣団屋敷跡、寺社跡、町屋跡で構成されたエリアは「勝尾城筑紫氏遺跡」として国の史跡に指定されている[1]。
概要
鳥栖市の標高501.3mの城山山頂に位置する。安良川とその支流の四阿屋川の谷に挟まれた要害だった。支城に鏡城、葛籠城、鷹取城がある。
応永30年(1423年)に渋川義俊が勝尾城を築いたと『肥前国史』にあるが、『歴代鎮西要略』では延徳3年(1491年)に渋川義基が築いたとされる。当城は九州の南北・東西の交通の十字路にあたるため、長く渋川氏と少弐氏との争いの舞台となった。やがて少弐氏は大内氏の傘下に入って助力を得て、永正18年(1521年)には少弐氏一族の筑紫満門が当城の城主となっている。
天正14年(1586年)、南九州を席巻した島津氏が筑前国への侵攻を開始した。その前々年に筑紫氏は島津氏と連携していたにもかかわらず、島津氏侵攻の直前になって大友氏へと降ったため、筑前国の要衝である勝尾城は島津軍の格好の標的となった。勝尾城は島津忠長の攻撃を受けて同年7月6日に麓の総構えが破られ、7月11日に落城する。城主の筑紫広門は降伏して、筑後の大善寺に一時幽閉されるが、同年8月に挙兵して勝尾城を奪還した。
戦後、豊臣秀吉によって筑後国上妻郡に18,000石の所領を与えられたため、勝尾城は廃城となった。
平成元年(1988年)度の鳥栖市教育委員会の圃場整備事業に伴う発掘調査によって、戦国時代の町屋跡が発見され、平成7年度(1995年)から16年度にかけて遺跡確認調査を実施。その結果、勝尾城や周辺の支城や、城主の館跡、寺社跡、空堀、石垣等がほぼ当時のままの状態で残存していることが判明した。それらの調査結果を踏まえ、平成18年(2006年)に国の史跡に指定された。
構造
勝尾城は、標高501.3mの城山山頂に位置し、遺構の規模は東西約400m、南北約600mの領域に及ぶ。山頂部を主郭とし、それを中心に城域全体に石垣が構築されており、特に東側の伝・二の丸跡には連続する小規模な石材を積み上げた登り石垣と、内枡形の虎口が築かれている。
また、安良川とその支流の四阿屋川と周辺の山を利用して、谷戸部に家臣団屋敷や寺社、町屋等の城下町を造り、それぞれを区分するように長大な空堀と土塁で仕切り、総構えの備えとした。また、周囲の山には城や砦を築いてその稜線を防衛ラインとしている。これらの構造は、一乗谷朝倉氏遺跡と同様なもので、国の史跡指定にあたってもその重要性を考慮された。そして遺跡として指定された面積も、一乗谷朝倉氏遺跡に匹敵する大きさとなっている。
発掘調査によって輸入陶磁器、国内産陶器、瓦器、土師器、瓦、中国銭等の遺物が多量に出土している。
近隣には筑紫晴門や川上左京の墓所が存在している。
参考文献
- 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典(43.熊本県)』、角川書店、1987年
- 鳥栖市教育委員会発行 史跡勝尾城筑紫氏遺跡保存管理計画書(https://www.city.tosu.lg.jp/Material/6713.pdf)
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勝尾城筑紫氏城館の口コミ情報
2023年12月03日 龍馬太閤【備中の麒麟】
立花城塞(城ノ辻)[勝尾城筑紫氏城館 周辺城郭]
佐賀県の三養基郡、基山町にある立花城塞(城ノ辻)♪城郭は園部集落に存在しました♪北西には契山、西側には九千部山系と権現山が長く伸びた舌状丘陵で、秋光川、山下川が造り込む河岸段丘上に立地します♪高位段丘は海抜でいうと45m〜80m位、中位段丘は20m〜25m位、低位段丘は15m〜20m位と緩やかに段丘を造りだします✨
山間部から平野にかけて、起伏が豊かな場所になります♪
この城郭の詳細は不明な点が多いです♪
が、中世、鎌倉時代には薗部荘として機能しています♪この園部の地には園部城があったとされていますが、2ヶ所候補地があり、何方かは分かっていません♪
後の九州探題である渋川刀弥王丸、渋川義長、陶道麒などが居城したと伝わり、戦国末期には、筑紫広門の勝尾城の支城群の1城として機能したとも云われています♪
筑紫領の1つだったのでしょう♪この場所は福岡平野に繋がる部分でもあります♪
この立花城塞と呼ばれる城郭は、『城ノ辻』という地名が周囲に残ります♪この立花城塞も、園部城の候補地として考えられています♪
2023年09月14日 RED副将軍
筑紫氏館[勝尾城筑紫氏城館 周辺城郭]
九州北部の有力国人であった筑紫氏の居館🏯
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。
1423年に九州探題として勝尾城に入った渋川義俊の時代に築かれた可能性もありますが、1497年には大宰少弐武藤氏の一族である筑紫氏の居館となっていました。
筑紫氏は、藤原氏の系譜である武藤氏の庶流とされます。鎌倉時代に源頼朝の命で武藤氏は筑前、豊前、壱岐、対馬を総括する鎮西奉行として下向し、大宰府を本拠に少弐氏を名乗りました。少弐氏の有力な一族が筑紫氏であり、1497年頃に九州探題の渋川氏を追い出して勝尾城を整備し、麓を筑紫氏三代の居館として約90年間機能しました。
1586年に北上してきた島津氏の侵攻により落城。しかし、三ヶ月後には筑紫広門は豊臣秀吉の九州征伐に乗じて勝尾城を奪還。九州征伐に従軍し筑後国上妻郡に領地を得ましたが、その後転封となり廃城となりました。
見所
国史跡に指定されている#勝尾城筑紫氏遺跡 を構成するひとつです。
背後の山頂にある勝尾城を詰城とし、周囲の山上に築かれた葛籠城、鷹取城、鬼ヶ城、鏡城、若山砦が囲む強固な立地です。
現在は、筑紫神社の境内となり勝尾城への登城口でもあります。
台所、主殿、会所、庭園の跡地に、南東には石垣造りの虎口が残ります。
2023年02月02日 RED副将軍
葛籠城[勝尾城筑紫氏城館 周辺城郭]
葛籠城(つづらじょう)と読みます。
全国屈指の大規模な二重空堀が東西に走る名城🏯
凄まじい土木量に圧倒されます。
オススメ度 ★★★★★
築城年代は不詳。勝尾城と同じく1497年頃に筑紫満門の築城と考えられます。
筑紫氏の居城である勝尾城と麓の筑紫氏館を中心として谷を取り囲むように配された支城のひとつ。
1587年に勝尾城とともに廃城になったと思われます。
筑紫氏は、藤原氏の系譜である武藤氏の一族。武藤氏は、源頼朝の命により肥前、筑前、豊前、壱岐、対馬の5カ国を総括した鎮西奉行です。後に大宰府を本拠地として少弐氏を名乗りました。少弐氏は、九州北部で勢力を誇り、筑紫氏はその重臣で筑前、筑後、肥前を支配していました。
その後、筑紫氏は少弐氏と離反し大内氏の傘下として勢力を拡大。
更に大友氏が台頭すると降伏し従属しました。その後も大友氏とは離反と従属を繰り返しながら、島津氏とも板挟みとなり戦います。1586年に島津氏により勝尾城が攻められ落城するも奪還。
1587年に大友氏の援軍として豊臣秀吉が九州平定のために上陸すると以降は豊臣秀吉に従い、島津攻めに参加。その功績で豊臣秀吉により筑後国上妻郡に18,000石の所領を与えられたため、勝尾城は廃城、近世大名となりました。
しかし、関ヶ原の戦いでは西軍に属し改易されるも、大坂の陣では徳川軍として参陣した戦功で旗本として幕末まで存続しました。
関ヶ原での西軍以外は情勢を上手く読み取り、世渡り上手な氏族でした。
見所
勝尾城筑紫氏遺跡として国史跡に指定されています。
本拠地の勝尾城からは南東にあたり、谷の入り口を押さえる最前線で厳重な防備が施されています。
山頂の主郭は、周囲を土塁と横堀が巡り、南西部に土橋の架かる虎口が開口。南東には石垣も残っています。
一番の見所は主郭南側の東西に伸びる長大な空堀です。なかなかの規模に圧倒されます。
2022年04月05日 龍馬太閤【備中の麒麟】
高取城[勝尾城筑紫氏城館 周辺城郭]
佐賀県の鳥栖市にある【高取城】♪勝尾城筑紫氏城館群の1城は本城・勝尾城と谷を挟み南側に寄り添います♪
勝尾城筑紫氏城館群は本城の勝尾城を中心に葛籠城、鏡城、高取城、若山砦、筑紫氏館(筑紫氏居館)と、この鬼ヶ城からなります☆一乗谷・朝倉氏遺跡と同等の規模を持つ勝尾城筑紫氏城館群は国の史跡指定を受けています☆
勝尾城といえば、筑紫氏ですね♪
時は戦国時代、天正14年(1586年)に島津の侵攻を受けた際に筑紫広門の弟・筑紫晴門と神辺宮内が在城しています♪
城郭は葛籠城の西側の山肌を進んで行くと辿り着きます☆この山頂部を中心に城郭を形成していて東西に伸びた尾根上に郭を造ってます☆郭全体の削平は甘めですが、背後に構えた本城・勝尾城とは連携が取れる様になっています♪
残る遺構としては、竪堀、堀切、土橋、郭等ですが、西側の尾根には土橋が明瞭に残っていて見所の1つとなります☆その奥にも何かありそうな雰囲気で、おおよそ、城兵の移動の為の動線といった雰囲気でした☆
個人的には葛籠城から、この高取城に向かう為の動線が1番かな〜☆上赤坂城を彷彿とさせる切通しが続きます☆
勝尾城の城域は本当にデカイです♪
これを落とした島津氏は余程力を持っていたのでしょうね♪
2022年03月21日 龍馬太閤【備中の麒麟】
鬼ヶ城[勝尾城筑紫氏城館 周辺城郭]
佐賀県の鳥栖市にある【鬼ヶ城】♪勝尾城筑紫氏城館群の1城は本城・勝尾城の南西側に寄り添います☆
勝尾城筑紫氏城館群は本城の勝尾城を中心に葛籠城、鏡城、高取城、若山砦、筑紫氏館(筑紫氏居館)と、この鬼ヶ城からなります♪
一乗谷・朝倉氏遺跡と同等の規模を持つ勝尾城筑紫氏城館群は国の史跡指定を受けています♪
この鬼ヶ城は別名を叔父ヶ城と呼びます☆
位置的にも勝尾城が見える位置に立地している為、勝尾城の出城なのでしょう♪
鬼ヶ城の守将は誰だったのか?詳細は不明ではありますが薩摩・島津氏が攻め込んだ際に勝尾城と共に落城したのでしょう☆
もしかしたら叔父ヶ城と云う名前ですから筑紫氏の叔父が守っていたのかもしれませんね☆
筑紫氏館の場所より更に登山道を進んで行くと安良川が合流する場所があります♪
この川が合流する場所の程良い所から後はヒタスラ直登すれば辿り着きます☆
主郭はピーク(標高350m)にあり、この主郭から東と南西に伸びる尾根に小さめの郭を配置☆主郭の南東側の1番広い郭が副郭でしょう♪更に主郭から北西に伸びる尾根は深い鞍部になっていて竪堀が両サイドに落ち込みます☆
主郭は低い土塁で守られていて南側に虎口を開きます☆更に副郭には石垣を用いた虎口が残っています☆
郭は小さくて土塁も低い☆でもシッカリと削平されています☆堀切や空堀は確認が取れませんでした☆山肌自体が鋭い為にあまり必要無かったのかなぁ??ヤハリ勝尾城を支える為の出城で間違いなさそうです☆
2022年02月26日 龍馬太閤【備中の麒麟】
筑紫氏館[勝尾城筑紫氏城館 周辺城郭]
佐賀県の鳥栖市にある【筑紫氏館】♪
筑紫氏の約90年間の城下町遺跡は居城及び支城群から構成されます☆勝尾城筑紫氏遺跡(勝尾城、葛籠城、鏡山城、鬼ヶ城、鷹取城、若山砦と筑紫氏館)の1城として、この勝尾城を本城にした筑紫氏の居館跡となっています☆
九千部山の南の城山一帯に築かれた城館群は一乗谷に匹敵する規模を持ちます☆南流する安良川の西岸に立地し『お館(おたち)』と呼ばれるのがここ筑紫氏館であります♪北の背後には本城・勝尾城、北西に鬼ヶ城、東に若山砦、南東側には最前線の支城群・葛籠城、鷹取城、鏡城、若山砦、更には総構えをも持ちます☆
コレ程の規模をもつ戦国の山城は肥前国(佐賀、長崎)には無くて筑紫氏90年の歴史も色濃く残ります☆
元々は九州探題の渋川義俊が博多を追われてコレを築城したと伝わります☆その後、渋川氏、少弐氏、筑紫氏、大内氏の各諸将によって攻防が繰り返されます☆
筑紫広門が城主の時には龍造寺隆信に攻められていて降伏。更に龍造寺氏、大友氏の狭間を行き交う筑紫広門は九州統一を目論む薩摩島津氏と激突☆沖田畷の戦いで戦死した龍造寺隆信から鞍替えをし大友氏に属した筑紫広門は島津家久に攻められ、この巨大な城郭群は落城☆以後、廃城となります☆
筑紫広門は豊臣秀吉の九州統一によって、筑後国(現八女市)を与えられて、その領主となりました☆
この勝尾城筑紫氏遺跡の総構えですが、過去には長大な空堀がありました(現在は30m位しか残っていません)☆この直ぐ脇に川上左京亮の墓と伝わる場所があります☆沖田畷の戦い時に龍造寺隆信の首級をあげた川上左京亮ですが、島津方の川上左京亮は、この城山攻防戦で鷹取城主・筑紫春門と組み打ち刺し違えたと云われ、この戦いにより戦死しています☆
関ヶ原の合戦で筑紫広門は石田三成方の西軍に属した事で筑紫氏は改易☆そして事実上、歴史の表舞台から姿を消す事になります…☆
7番目の写真は30m残る総構え♪
8番目は川上左京亮の墓と伝わる場所♪
2021年10月04日 龍馬太閤【備中の麒麟】
葛籠城[勝尾城筑紫氏城館 周辺城郭]
佐賀県の鳥栖市にある【葛籠城】♪勝尾城筑紫氏城館群の内の1城になります☆
脊振山地の東端辺り、中原の北傍標高132mに立地します☆勝尾城の出城、葛籠城は中世の山城です☆
九州治乱記では九州探題・渋川義俊が築城し、その後は少弐氏、筑紫氏の城郭となります☆戦国時代には城主・筑紫広門が龍造寺隆信に攻められ降伏…☆筑紫広門は豊後・大友氏に助けを乞いた事から島津家久に攻められ落城。。。以後廃城となりました☆
主郭から東方正面には2条の空堀が(長さ200m)あって更にその東方に2条の空堀(長さ400m)が良好な状態で残ります☆
肥前の異形の城郭と言えば葛籠城☆
大好きな、そしてオススメな城郭の1城であります☆
2021年06月06日 龍馬太閤【備中の麒麟】
葛籠城[勝尾城筑紫氏城館 周辺城郭]
佐賀県の鳥栖市にある【葛籠城】♪勝尾城の支城群の1城は長大な横堀を二重に三重に回し込む異形の城郭です☆
戦国時代にこの地に勢力を奮った筑紫氏の約90年間の城郭遺跡で本城の勝尾城を中心として城下町遺跡、居館跡及びその支城群で構築されています☆
遺跡の面積は福井県の特別史跡の一乗谷・朝倉氏遺跡に匹敵する規模を誇るというほどの巨大なモノになっています☆
勝尾城の城主・筑紫氏の出自は諸説ありますが藤原家の流れをくむ武藤氏の一門と伝わります☆武藤氏は鎌倉時代に源頼朝の命で筑前、豊前、壱岐、対馬の5カ国を総括する鎮西奉行として関東から下向してきました☆
この武藤氏は大宰府を本拠にして少弐氏を名乗っていきます☆少弐氏は九州における武家の主領として更に九州守護として戦国時代後期まで北部九州を中心に勢力を奮いましたが周防国の大内氏に弱められ龍造寺氏に滅ぼされてしまいました☆
筑紫氏はその有力な一門と考えられてます☆
筑紫氏が勝尾城に本拠として入城するのは筑紫満門の時でその後、筑紫満門から尚門、正門、惟門、広門までの5代が筑紫氏の在城期間です♪
後に薩摩国の島津氏の軍勢に攻められて勝尾一帯を焼き討ちにされ勝尾城落城☆
筑紫広門は久留米の大善寺に幽閉されますがのちに脱出し勝尾城を奪回します☆
豊臣秀吉の九州征伐時の島津攻めに加わり手を結びました☆
その後、秀吉の九州国割りで筑後の上妻郡1万8千石を安堵されましたが、、、関ヶ原の戦いで西軍に加わり敗北☆
待っていた所領没収です☆筑紫広門は剃髪して夢庵と称し肥後の加藤家の扶助を受けました☆この筑紫広門は後に豊前細川家の扶助も受けましたが小倉にて病没してしまいました☆
葛籠城は勝尾城の前線に位置します☆
本城の勝尾城、城下町に入るには総構えを持ち厳重な守りをしていました☆支城群としては鏡城は東側の要に若山砦に鬼ヶ城☆高取城に西側の前線に位置するコノ葛籠城♪
新町町屋敷を抜けるにはこの葛籠城は重要な戦闘区域であります☆
支城群の中でも正に前線で戦う場所にあり重要な支城として機能したと思われます☆
2019年05月02日 あざらし肥前守
勝尾城筑紫氏城館
勝尾城主郭石垣(標高500м) 東〜南に延びる尾根上に曲輪を配置し、谷を取り囲むような構造、脊振山系の豊富な花崗岩を使用か。
2015年06月28日 水瀬筑後守名雪
勝尾城筑紫氏城館
【駐車場】
有。葛籠城、筑紫氏館跡にある。県道から葛籠城まではさほどではないが、そこから筑紫氏館跡までは車一台がやっと。また、九千部山への登山客も多いのではないかと思われる。駐車場にはそれなりに車が停まっていた。車で筑紫氏館跡まで行く場合は特に注意が必要。
【勝尾城への道のり】
葛籠城→筑紫氏館跡:車約5分(徒歩約30分)、筑紫氏館跡→勝尾城:徒歩約50分。駐車場側から登るのではなく、筑紫氏館跡の脇から登るのが良いと思われる。(私は足に自信ないので登っていない)
【他の見所】
ここは本城である勝尾城以外に複数の支城を持つので、全部見ようとすると結構大変。あらかじめ行きたい場所を調べてから行く事をお勧めする。
2014年01月04日 三日左馬助落人
勝尾城筑紫氏城館
勝尾城を主城として葛籠城・鏡城・若山砦などを含むエリア一帯が「筑紫氏遺跡」として指定されています。
勝尾城を目指すなら多少の登りがありますが、大きな見所は城内エリアと外界を遮断した葛籠城の長大な堀切&土塁です。
駐車場もそこから近い場所に用意されていますので、ぜひお見逃しなく。
2013年11月09日 ねここしゃん
勝尾城筑紫氏城館
2013/11/24(日)、勝尾城・遺跡見学会があります。