鷹取城(たかとりじょう)

鷹取城の基本情報

通称・別名

鷹取山城

所在地

福岡県八女市星野村/うきは市浮羽町鷹取

旧国名

筑後国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

星野鎮種

築城年

不明

主な改修者

主な城主

星野氏

廃城年

遺構

曲輪、石積、土塁、堀切、横堀(空堀)、畝状竪堀群

指定文化財

市史跡(鷹取城跡)

再建造物

説明板

周辺の城

発心城(福岡県八女市)[6.9km]
麻底良城(福岡県朝倉市)[9.3km]
猫尾城(福岡県八女市)[10.4km]
杷木神籠石(福岡県朝倉市)[11.5km]
赤司城(福岡県久留米市)[12.3km]
高良山神籠石(福岡県久留米市)[15.2km]
西鯵坂城(福岡県小郡市)[16.8km]
秋月城(福岡県朝倉市)[18.3km]
福島城(福岡県八女市)[18.6km]
日隈城(大分県日田市)[19.2km]

鷹取城の口コミ情報

2023年05月28日 龍馬備中守【】
福丸城[鷹取城  周辺城郭]



福岡県のうきは市にある【福丸城】♪別名・福益城は妙見城を本城に持つ、星野氏の支城群の1城になります♪鷹取山から北に伸びる尾根線上に♪妙見城の北東側の尾根が突き出た場所に福丸城は立地しています♪

戦国時代に築かれたと伝わる福丸城は城主・星野高実と云われていますが、定かではありません⭐︎『星野系図』では、福丸城を築いたのは、京都から来たと伝わる祖・星野中務大輔胤実の子、星野鎮実で、その後、星野高実の代まで在城したと伝わり、妙見城同様に築城は戦国時代より前なのでしょう♪星野の祖である星野中務大輔胤実は、鎌倉時代初期の嘉禄2年(1226年) 筑後国生葉群星野郷に封ぜられ星野領主となり、約360年後の天正14年(1586年)直系18代目の星野鎮胤(吉実)の代に没落するまでの間、分家一族共に繁栄しました♪その間の出来事の多くは謎に包まれていますが、生葉、竹野両郡の内壱千余町を領し星野に本城を構え各地に支城を設けています♪まぁ、少弐氏、大友氏、大内氏、毛利氏、龍造寺氏、島津氏等の九州、周防、安芸の大名の間で揺れ動いたのでしょう⭐︎妙見城の支城群、福丸城という訳であります♪

『太宰管内志』にはこう記されています♪『堀川院の時 胤実は筑後国星野を賜り嘉禄2年11月、星野に館を構えて本星野に居る。且つ星野山中に内城高岩城を築き其の後子孫は繁栄し生葉・竹野両群を領してゆく。家紋は「亀甲藤丸」とす。 八郎丸は長じて胤実と名乗り常陸介・中務大輔を称す。胤実には二子があり長を鎮実と云い右近大夫と称す。 本星野館に居り、後、延壽寺村に福丸城を築き移って福益館に居る。次を実隆と云い、樋口次郎太郎実安の養子となる、三郎二郎越前守と称す。兄の譲を受けて本星野館に居る又十籠館とも云う。鎮実の子星野民部大輔 鎮能、其の子星野宮内小輔鎮行、其の子星野八郎元行、其の子星野志摩守元実、其の子星野民部大輔元親、 其の子星野下總守親実、其の子星野志摩守鎮忠、其の子星野中務大輔鎮種、鷹取城に居る。鎮種の子星野下總守実世は福丸城に居る。実世の子星野伯耆守職泰福丸城に居る。職泰の子伯耆守元康本星野館に居る。 次に樋口実房、元康の子星野下野守鎮康は石垣邑中山城を築く。鎮康の子星野中務大輔吉實、次に星野右衛門太 夫重実、吉實は福丸城に居り生葉群三十二村竹野群東郷五百町を領す。星野中務大輔吉實は戦国時代の人で、こ の頃豊後の大友氏と肥前の龍造寺氏と常に争って戦乱が止むことがなかった。吉實自立していずれにも偏せず。龍造寺隆信が黒木に侵入するや、星野氏、黒木氏同盟して猫尾城を守る。大友氏は偽って竹尾外記なるものを猫尾城に入れ、奸計をもって吉實を殺す。この後、黒木氏は龍造寺氏に属す。常陸介親忠跡を嗣ぎ、驍勇を以て 名がある。天文元年大友義鑑の兵が来攻する時、妙見城を守りて天文3年(1535年)9月13日に死す。その子伯耆守正実は福丸城に在ったが大友勢に攻められて周防に逃る。この後、星野氏は大友氏に属し、右衛門太夫重実は、大生寺村立石城の門注所氏を逐ってその跡に住む。重実死する後福丸城に高実がいたが大友氏の命により蒲池氏の鎮泰(母は星野氏の娘です)を養子に入れて星野氏を嗣ぎ白石城に居る、後福丸に移り肥後勝山にて戦死する。右衛門大夫鎮虎は、白石城に居たが龍造寺氏に襲われて豊後に奔り弟鎮胤(吉実)は初め福丸城その後高取(鷹取)城に居たが、やがて島津義久に属し、天正14年(1586年)8月25日筑前高鳥居にて討死、次の弟鎮元(吉兼) も同じく戦死する』と残ります⭐︎
星野家の始祖・星野中務大輔胤実から始まり星野中務大輔吉実、星野民部少輔吉謙の星野兄弟で一旦、終焉、滅亡に追い込まれる星野家ですが、その子、星野鎮之(長虎丸)を使しめて筑後に帰しています♪血脈を残した星野家♪星野鎮之(長虎丸)は肥前の龍造寺政家に預けられ、その後は鍋島直茂に預け替えになっていて以降は鍋島家の家臣として仕える身となったと伝わります♪

動乱の世を生き抜いた星野家♪福丸城にはその鋭さ、土木量が今に伝わります♪
因みに、福丸城の別名が福益城と呼ばれるのは、城と館の混同なのでしょうね♪
巨大な堀切♪畝状竪堀群は必見です♪

2023年05月06日 龍馬備中守【】
妙見城[鷹取城  周辺城郭]



福岡県のうきは市にある【妙見城】♪久留米から続く耳納連山の東端、耳納山から最高峰の鷹取山へ続く尾根の中央部にある、弦掛峠一帯に妙見城は立地します♪標高480m付近が主要部となり中々の山奥に立地しています♪妙見城は国人領主・星野氏の本城で筑後十五城の1城にも数えられます♪

この星野氏は鎌倉時代初期の徳大寺実定卿の子・星野胤実が多田蔵人行綱の子の猫尾城主・黒木大蔵大輔源助能の猶子になって筑後に下り以降、筑後星野家の祖となったと伝わります☆

築城主は、星野常陸介重泰?とも星野伯耆守職泰?とも云われています♪星野氏は南北朝時代には南朝方に属し、肥後国・菊池氏とは同盟関係にありました♪

延元4年(1339年)には北朝方の豊後国・大友氏泰が明見城を攻めています☆その際には菊池武重が援軍に駆けつけています♪
この明見城は、妙見城とは同一かどうかは明らかではありませんが…名前的に恐らく…同一なのでしょう♪行ってみたら分かりますが、その城域は果てしなく広くて、乱世に進むに連れて拡大、拡張を行い、畝状竪堀群、横堀の廻し方、連続堀切等を見るからに、戦国末期まで機能した城と考えられます☆
という事は星野常陸介重泰とも星野伯耆守職泰とも云われている妙見城の築城ですが、コレより以前に既に何かしらの砦の様な城郭があったのかもしれません♪星野氏には不明な点が多くて、今後の歴史研究の進捗に期待したい所であります♪

さて歴史に戻します♪
永正4年(1507年)豊後国・大友義長は筑後国へ兵を進めます♪大内義興が陶尾張守を北九州に派遣☆大友・少弐連合軍🆚大内軍とは豊前・筑前の各所で戦いを繰り返しています☆そんな軍事情勢の中、妙見城主・星野常陸介重泰は大友氏に従わず、大友義長に妙見城を包囲されます…少弐資元も大友氏を加勢して兵を送っていますが妙見城は難攻不落で中々落ちず!

大友氏への去就を巡り星野一族は二派に分かれ筑後と豊前に分裂してしまいます☆その後、大友義長の家臣・竹尾新左衛門が偽って星野常陸介重泰に仕え、その信任を得てついに入浴中の星野常陸介重泰を殺害…。。
この死により妙見城も落城…大友義長は二派ある星野氏のもう一方、星野筑後守親実を妙見城主にしています☆

この2つに分裂した両星野氏は敵味方のまま戦国末期まで続き、それぞれが大友・大内(後に毛利)に分属して互いに攻め合っています☆何にせよ大内氏、毛利氏、大友氏、少弐氏、更には龍造寺氏、島津氏の狭間で戦い続けて星野家は戦場を往来したのでしょう☆

星野氏で有名な武将としては星野親忠です♪星野親忠は大友氏に属していましたが、天文元年(1532年)大友氏に背き独立籠城しています☆享禄年の末(1531年頃)星野親忠は自立を図り、これに怒った大友義鑑は生葉城を攻めたが落とせませんでした☆そこで大友義鑑は幕府の命を請い大内氏・島津氏・菊池氏・少弐氏らの出陣を得て、星野氏を降したと伝わります☆
一方『筑後国史』の方では天文元年に星野親忠が反旗を翻し生葉郡に立て籠ったとしています☆幕府は鎮西探題の大内義隆に星野追討の御教書を下し大内義隆は直ちに出陣☆
これに島津氏・大友氏・宇喜多氏・毛利氏・吉見氏・小早川氏・秋月氏ら、九州は元より備後までの人数が加わり、その勢10万余であったとも伝えています☆
この大軍を前に星野親忠は縦横に戦いますが多勢に無勢…ついに城を脱出して行方不明となったと伝えています…
星野親忠のその後の事は不明であり、永禄10年(1567年頃)星野城に籠った星野鎮忠は星野親忠の子といわれ、星野鎮忠の子が天正14年(1586年)筑前の高鳥居城で玉砕した星野兄弟だと云われています☆
何にせよ不明な点が多い星野氏ですが、この辺りに支城群(福丸城、鷹取城)を形成し、有事に備えながら生きた☆
かなりの激戦であった事は、その城郭の素晴らしさで読み取る事が出来ます☆

個人的には九州の城郭の中でもトップクラスにオススメの城となりました♪

2021年05月03日 大内周防守毛利
福丸城[鷹取城  周辺城郭]



 福丸城は秋月氏配下の星野氏によって築かれた城の一つ。星野氏の本拠地の城とされる妙見城は福丸城の背後、南西に存在しています。

【構造】標高190mの尾根の頂部に曲輪を2段設けている。南側には虎口を兼ねていたとも考えられる大堀切があり、それを挟んだ丘陵部分には2段にわたって畝状竪堀が構築されています。また、曲輪の北側には堀切がある。
 頂部に南北に長く伸びている曲輪は2段に分かれている。曲輪の東側には、大堀切の見張り場とも考えられる場所から北西にある一段下がった曲輪にかけて通路が設けられている。(縄張り図にはありませんが、この通路下にも数本竪堀があるような?) 頂部の曲輪から下の通路は見下ろす構造になり、上方や背後からも攻撃できます。
 北西の一段下がった曲輪は、南側に土塁と虎口がある。また南側から北西にかけて放射状に畝状竪堀が15本見られる。
 頂部の曲輪の南側に大堀切を挟んで残存する丘陵部分には、畝状竪堀によって平坦部をなくす形で掘ってある。これは攻城の足場として利用されないように丘陵部を破壊したものと考えられる。

【アクセス】久大本線筑後吉井駅の南側から歩いて、東側から攻城。ネットで調べた登城口不明、藪が多くアタック出来ず。南側より適当なところより川を跨いで無事到着。場所はかなりわかりづらかったですが、後日城の西側の袋田不動尊から行くことができることを知り後悔。

【写真】①②南側丘陵部の畝状竪堀
    ③大堀切
    ④見張り台
    ⑤曲輪から見下ろす通路
    ⑥頂部の曲輪
    ⑦北西の曲輪

【参考文献】2020 戦国期北部九州の城郭構造  岡寺 良
 2017 福岡県の中近世城館跡Ⅳ 福岡県教育委員会

2021年02月22日 一寸榎肥後守4月20日九州
妙見城[鷹取城  周辺城郭]



妙見城は鷹取城の北東およそ2㎞にあります。
耳納山系から北に派生した尾根上にあり標高488㍍の上の城を頂点とし標高差200㍍、南北約600㍍、東西250㍍の規模を有する筑後国最大の山城です。
上の城、中の城、下の城、館跡などで構成され堀切や80本近くの畝状竪堀群が構築されるなど星野氏の本城にふさわしい山城です。
道は館跡まではありますが上の城、中の城、下の城、馬刺場へは明確な道は無く縄張り図と地図を頼りの登山となります。

2021年02月19日 龍馬備中守【】
井上城[鷹取城  周辺城郭]



福岡県のうきは市にある井上城☆標高170mの山城は日田街道を監視する為の城郭となります♪現在は柿園の中に城郭は存在します♪

築城主は問註所刑部大輔親照と伝わります☆問註所氏は大友氏に属していた為に秋月氏と敵対、秋月種実の攻撃を受けました☆
城主・問註所親照を中心に城兵は防戦に努めますが、ついに落城、問註所親照は城兵三十八名と共に討ち死にしてしまいました☆問註所親照の子の問註所重直はこの城を捨て長岩城に移ります☆秀吉の九州平定の時、問註所氏は秀吉の幕下となりますが、のちに所領を失い筑前名島の小早川隆景に仕えました☆

同じ山の直線500m付近に浮羽稲荷があります☆ここも城域だったんではないか?と立地を見て感じてます☆稲荷上は物見に最適で街道が丸見えです☆綺麗に整地された平地に、削られた山上は何らかの形で使われていた様な気がしてなりません☆
こちらも同様に写真をあげておきます☆

2019年04月23日 じょーうん豊前守420岡城
鷹取城



標高800mにある城ですが、車で真横まで来れるので行きやすい城です。小ぶりの城跡ですが、畝状竪堀や堀切や土塁が良好な状態で残っています

2011年04月03日 筑後守もんど
鷹取城

地元の豪族星野氏の後詰めの城、南側が星野氏の地元星野村、北側は筑後川を見渡せる所。
確かにここにこもられたら大変ですね


2011年04月03日 筑後守もんど
鷹取城

車でもいけます。
耳納スカイラインを稜線沿いに走ると途中に鷹取山へと道案内があります。

鷹取城の周辺スポット情報

 2郭(遺構・復元物)

 説明板(碑・説明板)

 井上城(周辺城郭)

 妙見城(周辺城郭)

 福丸城(周辺城郭)

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