日隈城(ひのくまじょう)

日隈城の基本情報

通称・別名

隈城、亀翁城

所在地

大分県日田市隈2

旧国名

豊後国

分類・構造

梯郭式平山城

天守構造

型式不明[5重6階/1596年築/破却(一国一城令)]

築城主

宮城豊盛

築城年

文禄3年(1594)

主な改修者

毛利高政

主な城主

毛利氏(藤原氏)

廃城年

元和2年(1616)

遺構

曲輪、石垣

指定文化財

再建造物

石碑

周辺の城

永山城(大分県日田市)[2.1km]
杷木神籠石(福岡県朝倉市)[10.4km]
麻底良城(福岡県朝倉市)[16.4km]
一ツ戸城(大分県中津市)[17.8km]
鷹取城(福岡県八女市)[19.2km]
松尾城(福岡県朝倉郡)[19.9km]
玖珠城(大分県玖珠郡)[20.3km]
角牟礼城(大分県玖珠郡)[21.0km]
高屋城(福岡県八女市)[21.5km]
鳶ノ尾城(熊本県阿蘇郡)[22.5km]

日隈城の解説文



日隈城(ひのくまじょう)は、大分県日田市亀山町(きざんまち)(豊後国日田郡竹田村)にあった日本の城。

概要 

日隈城は、安土桃山時代に日田盆地を流れる三隈川沿岸に築かれた平山城であった。豊臣政権下の直轄地(蔵入地)となった際に宮城豊盛によって築かれ、毛利高政が改修した際には5重の天守や三重櫓が建てられたとされる。毛利氏は関ヶ原の戦いの際の寝返りなどで功を上げたことにより佐伯2万石の所領を安堵され日隈城を実質の支城としたが、一国一城令の発布後は、廃城とされた。

江戸時代には洪水や火災などによって城下であった隈地区も被害に遭い、現在では、森春樹が口伝や『豊西記』などをもとに著した『亀山抄』などで城跡や当時の情景を窺えるのみである。

現在、城跡は亀山公園として整備されているが、城跡として保存されている遺構はなく、大手門枡形の石垣が残るのみで当時の詳しい様子はわかっていない。

歴史 

1592年(文禄元年)蔵入地(豊臣政権下の直轄地)の代官として日田に入封されてきた宮城豊盛によって築かれた。当時日隈山一帯を境内としていた曹洞宗寺院である真光寺を麓に移して築かれ、田島村(現日田市大原八幡宮付近)より、商家や市を竹田村(現日田市隈町付近)に移し、城下町を形成した。

1596年(慶長元年)に毛利高政が2万石(6万石とも)で移封され増築を施し、『豊西記』『豊西説話』によると「五階の天守」と「三階の櫓」が増築され[1][2]、森春樹の『亀山鈔』によると城下には2重の堀と土塁が廻らされたとある[3]

1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いに際し、同年9月16日、石垣原の戦いで木付城に詰める松井康之を救援するために赴いて、豊後立石(大分県杵築市山香町立石)にいた加藤清正は玖珠郡の引治村(大分県玖珠郡九重町引治)にいた家臣の吉村橘左衛門へ、日隈城に対し翌日までに開城するよう要請する書簡を届けるよう指示した。しかし、9月17日石垣原の戦いは徳川方の勝利に終わったため、日隈城攻略は行われることなく加藤勢は熊本へ帰国した[4]

1600年(慶長5年)9月24日、中津領主であった黒田如水が、重臣の栗山利安を日田に送り込んで、森慶則を中心とする毛利家留守居の家臣が詰める日隈城に開城を迫った。慶則は当時石田毛利方であった佐賀の鍋島直茂家臣宛に支援の書簡を送り、その鍋島氏からの返書は9月26日付で届けられている。その年に毛利氏は城を開け渡し、一時、栗山利安が日隈城に詰めることとなった。

1601年(慶長6年)、小川光氏が月隈山に丸山城を築くと、栗山氏は移封され、城は再び毛利高政の預かりとなり、城代に家老の毛利隼人を送る。 1602年(慶長7年)毛利高政は佐伯に移封となり、城は小川氏の預かりとなる。

1616年(元和2年)以降、江戸幕府発布の一国一城令により廃城。破城は寛永年間とされているが、松平直矩時代の日田陣屋役宅増設の時1683年(貞享元年)、「永山、隈居城…[5]」と城としての残存をうかがわせる記述もあるため、実際の破城の経緯は詳らかでない。移築された建物としては、日田陣屋本陣とするために御殿、隈町願正寺山門とするために城門が移築されていたが双方とも現存しない。

構造 

南西は表、東が裏であるといわれる。城の南に三隈川、その支流で、亀山公園を境に分流する小股川は当時は川ではなく、人工の堀(切り抜き)であったが、廃城の後に洪水によって川となったと伝えられている。

城郭の形状は梯郭式の平山城である。曲輪の名前は不明であるが山頂から段状に南西に向かって3段の曲輪があり北側に馬責場(馬場)があったといわれる。城へは、城下の紺屋町(隈2丁目付近)の「馬道」と呼ばれる橋場跡から直接城へ橋がかけられていたという。

佐伯藩の史料[6]には、二の丸門矢蔵、北ノ三ノ丸矢蔵、丹後丸矢蔵の名が見られる。他に、「か年ノ丸」や「北ノ丸」の曲輪名が見られるが場所は不明である。

天守

天守台の位置は本丸北西隅(現亀山公園日隈神社社殿および社務所周辺)と考えられている[7]。具体的な資料は現存せず、佐伯市にある佐伯毛利家文書に各段にあった道具の名称と5段、上段等の段数の記述が見られるのみである。これを元にすると、内部5階地下1階(外観は不明)になるという[8]

元和六申年 天主道具御改帳[9](部分)

天主ニ有之御道具

下段
うつぼ(靱)・・・
同下段
こくうんの大筒
く王志や(くわしや)の大筒
金のかぶと白はこ入 ・・・
天主弐段ニ有之分
御めし具足おけ皮くろきはこ入
てつ本うためし
御かぶとくろぬり
太閤より能朱印箱 きりの木 ・・・
天主三ノ段
番具足
米具足 内拾両 同金ノ釘ぬきノ毛んあり
番具足 前二ノ丸門矢蔵ニ有
金ノぐそく ・・・
天主四段
殿様御腰物入長持
刀ばこ
ちいさ刀能入箱 ふそく
摂津守様御腰物入箱
天主五段
鳥毛壱竿 ・・・
天主上段
流春んつ本上下兼弐つ有
茶津本 なかやま
御判事まきぢく ふそく
ちりとり
ちりうけ能箱
志ゅろはうき
見こはうき
以上

日隈城の口コミ情報

2023年06月03日 RED副将軍
日隈城



大手門跡の桝形虎口が見事な日田郡統治の拠点🏯

オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎

1594年に宮城豊盛により築城。
豊後を支配していた大友義統は、明との平壌城の戦いにおいて小西行長から救援要請を受けるも戦死したという誤報を信じて撤退。味方を見捨てたとして豊臣秀吉の逆鱗に触れ改易となった後、代わって日田郡と玖珠郡に宮城豊盛が入り、築いたのが日隈城です。
1596年、宮城豊盛は豊臣性を与えられ豊臣定勝と名乗ります。大阪に戻った様で、代わって毛利高政が入城。毛利氏時代に五重の天守を建造するなど大改修が行われました。
1639年、代官所は月隈城(永山城)へと移され廃城となりました。

見所
三隈川の北岸にある比高約30mの日隈山に築かれています。
南に三隈川、東にその支流を天然の堀として利用されており、山頂の主郭とし、大きく三段の曲輪で構成。
かつては五重の天守があったと伝わりますが、公園化により大きく改変を受けており残存度は低いです。
しかし、南西麓にある大手虎口が見事で、石段を登ると右折れの桝形が明瞭であり石垣も残っています。

現在は亀山公園として整備され日隈神社が鎮座しています。広い駐車場やトイレも完備していますので気軽に訪れることができます。

2022年10月31日 モーリシャス俊影
日隈城



筑後川の中流(三隈川)をすぐ横の小山にあります。城跡の頂上には神社がありますが、街並みや雄大な三隈川の眺めはありません。車なら三隈公園の無料駐車場に停めて、徒歩5~10分です。

2022年04月11日 ひろ右京大夫
日隈城



三隈川の中洲にあります。城跡には神社があり、日田の山鉾に関連する3社のうちの1社です。
気持ちが良いところなのでリア攻め兼ねてご参拝もいいですね⛩

2022年03月20日 【✾】源九郎豊前守牛若丸
高瀬城[日隈城  周辺城郭]

「日本城郭大系」によると、松丘城という別称があるようです。
高瀬氏の祖五郎大夫永平が築城したようです。
そして永平の子永俊から9世の孫高瀬山城守鑑俊は、大友系日田氏である親将を討てという大友義鑑の命に背いたので、他の郡老たちに攻められ、天文17年、一族は滅亡するとありました。

2022年03月18日 【✾】源九郎豊前守牛若丸
高尾城[日隈城  周辺城郭]

「日本城郭大系」によると、新原兵部小輔の居城で、筑後勢が侵入の時、高井岳城からの烽火を受けて、高尾城から日田郡衆に合図したとありました。

2022年03月18日 【✾】源九郎豊前守牛若丸
五条殿遺跡[日隈城  周辺城郭]

「大分の中世城館」には、永正9年、五条兵部小輔清原鑑量が築城したとありました。
また「日本城郭大系」では、五条鳥砦として紹介していて、天文元年、五条氏は筑後の矢部城に帰り、ここには城代を置いたようです。

2022年03月18日 【✾】源九郎豊前守牛若丸
髙井岳城[日隈城  周辺城郭]

「日本城郭大系」には、寛政6年、大友親繁が大軍を率いて筑後に攻め入った時の本陣で、その後、堤平右衛門が城代となったようです。
天正2年、秋月勢が攻め寄せ、堤平右衛門は討死にして落城したそうです。
「大分の中世城館」によると、畝状竪堀、横堀、土塁があるとありました。

2021年09月20日 【✾】源九郎豊前守牛若丸
日隈城



城址は亀山公園として活用されています。
近くにある永山城も月隈公園となっていますが、地元の方たちはこの亀山公園の方を愛用されているように感じました。

その為もあってか、無料の駐車場が整備されているので立ち寄りやすいと思います。
さて、城址としてですが、それほど遺構は残っていませんでした。
ここの城主だった毛利高政は築城名人として知られており、佐伯城や角牟礼城も手掛けているので、このニ城のような石垣が残っているなら、尚立派な城跡としてそれなりに有名になれたかもしれませんが、石垣は大手門辺りに少しあるぐらいでした。

ただ周囲に三隈川があったり城域にもある程度の兵力を駐屯させれそうなので、攻めにくい城だったのではないでしょうか。


個人的には永山城と共に訪れると良いと思います。また晴れた日には三隈川も眺めると癒されるかもしれません。

2019年06月06日 豊後守‪わがまますー
日隈城



6月上旬梅雨入り前の風景。亀山公園敷地内はゆっくり散策できて三隈川と緑の風景が美しかった。枡形虎口もしっかり現存。天守台があったとされる日隈神社社殿。

2018年08月11日 織田上総介晃司
日隈城

亀山公園(日隈城)の駐車場とトイレがあります。

駐車場から山に向かって進むと登り階段と左右の三又に道が別れてます。
日隈城大手門跡に行くのなら迷わず右に進んで下さい。

2017年03月14日 カーネル
日隈城

久大線の光岡駅を100mくらい北に進み右折して東へ

歩道はありませんが、交通量が少ないので安心です
まずは日田林工高校の体育館の下が石垣で、軽く感動
そのまま周囲を北に散策すると、山に入る階段があり登ります
途中にある横穴が不気味です。山頂の神社が永山城の本丸で、お参りしてから南の参道を下って車道にでたら、10分ほど東へ進み、永興寺の脇から15分ほど登ると日田城本丸です。遺稿はよく分からず、地形は城っぽかったです

引き返して、南西へ進み久大線を超えます
日隈城は亀山公園を目指すといいです。西から登ると見どころの石垣があります
日隈城本丸である山頂の神社でお参りしてから、北上して日田駅に着いたのは、光岡駅をでて3時間弱後

その前の麻底良城と合わせて4万歩で、最後はフラフラでした

2013年04月13日 加藤豊後守清正
日隈城

日田・玖珠他12万石を拝領したと言われ、5重の天守・3重の月見櫓・2重櫓数基あったとか。決して広くない場所にこれだけの建物があるとなるとかなり、迫力が有ります。例で言えば、大洲城がそうで同じ12万石のお城としては立派な造り。もしかしたら本当にあったのかも。

日隈城の周辺スポット情報

 石垣跡(遺構・復元物)

 大手門跡(遺構・復元物)

 枡形(遺構・復元物)

 高瀬城(周辺城郭)

 高尾城(周辺城郭)

 髙井岳城(周辺城郭)

 寺内遺跡(周辺城郭)

 五条殿遺跡(周辺城郭)

 日隈神社(寺社・史跡)

 トイレ(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 無料駐車場(駐車場)

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