永山城(ながやまじょう)
永山城の基本情報
通称・別名
- 丸山城、月隈城、(日田陣屋)
所在地
- 大分県日田市丸山2
旧国名
- 豊後国
分類・構造
- 梯郭式平山城
天守構造
- 不明
築城主
- 小川光氏
築城年
- 慶長6年(1601)
主な改修者
- 石川忠総
主な城主
- 小川氏、石川氏、小笠原氏、松平氏
廃城年
- 寛永16年(1639)
遺構
- 曲輪、石垣、横堀(水堀)
指定文化財
- 県史跡(永山城跡)
再建造物
- 土塀、説明板
周辺の城
-
日隈城(大分県日田市)[2.1km]
杷木神籠石(福岡県朝倉市)[10.4km]
一ツ戸城(大分県中津市)[16.0km]
麻底良城(福岡県朝倉市)[16.3km]
松尾城(福岡県朝倉郡)[18.6km]
鷹取城(福岡県八女市)[20.1km]
玖珠城(大分県玖珠郡)[20.3km]
角牟礼城(大分県玖珠郡)[20.4km]
長岩城(大分県中津市)[20.7km]
城井谷城(福岡県築上郡)[22.2km]
永山城の解説文
[引用元:Wikipedia「永山城」の項目]
永山城(ながやまじょう)は、大分県日田市丸山町にあった日本の城。通称月隈城(つきくまじょう)ともいうが誤りとされる。旧称丸山城(まるやまじょう)。以下は、日田陣屋を併記する。
概要
永山城は、市街地北部にある三隈三山の一つである月隈山(つきくまさん)に築かれた平山城である。全容については不明な部分が多いが、山頂付近の本丸跡に川石を用いた丸石の野面積みの石垣と算木積みの隅を持つ石垣が残る。
1601年に小川光氏によって築かれ丸山城と名づけたといわれている。石川氏入封後に城の改築と城下町の移転などが行われたが、1633年中津藩の預かりをへて、幕府直轄領となった。初代代官に小川氏が入城し同代官によって1639年に廃城とされ、日田陣屋が置かれた。西国筋郡代役所となったのは江戸中期、揖斐政俊の時である。この郡代役所は、最後の西国筋郡代となった33代代官窪田鎮勝が幕府歩兵部隊の「制勝隊」を解散する明治元年まで続いた。
後に、日田県知事松方正義(後の第4代総理大臣)によって旧三の丸に知事官邸と日田県庁舎が設けられ大分県に合併されるまで政治の場とされた。日田県の廃県後、旧三の丸の半分が日田山林学校半分が日田区裁判所となり裁判所移転後に月隈公園として整備され、城山の石垣や水堀の一部などが残る。陣屋跡(大手門堀沿い)は住宅地となって遺構は残っていない。2016年4月の熊本地震で城山部分の石垣が崩壊。被害状況は大分県内の文化財では最大規模となった[1]。
歴史・沿革
1601年(慶長6年)に小川光氏が丸山城と称して築城したという。このとき、城の東に十二町村(じゅうにちょうむら)より商家を移し、中津へ至る街道を伴う南北2筋の道を通し、街を開いたとされる。
1616年(元和2年)に譜代大名の石川忠総が美濃大垣城から移封。丸山城を改築し永山城と改め、城下であった丸山町を現在の位置に移し、豆田町に改名した。1633年(寛永10年)に中津藩の預かりとなる。
- 1639年(寛永16年)、小川正長(藤左衛門)・氏行(九左衛門)両人が初代代官となり、永山城を廃城して麓に日田陣屋(日田代官所)を築く。
- 1648年(慶安元年)、小川氏行が西下の途中で事故に遭い死亡[2]。
- 1655年(明暦元年)、小川正長死亡。正長の子の行広(又左衛門)と正久(藤左衛門)が日田代官となる。
- 1665年(寛文5年)から1666年(寛文6年)までの間、肥後熊本藩主細川綱利の支配地となり、北西部の水堀(肥後殿堀。[3])を造成する。
- 1682年(天和2年)から1686年(貞享3年)まで松平直矩が7万石で入封する。陣屋の改築を行っている。
- 1686年(貞享3年)、代官小川正辰により藩が廃され幕府直轄領となる。
- 1767年(明和4年)、代官揖斐政俊の時、西国筋郡代役所となる。
明治・大正年間
- 1868年(明治元年)佐田秀ら勤王派の志士(花山院隊)により襲撃を受けて、西国郡代であった窪田鎮勝が陣屋を逃亡。新政府は豊後森藩(玖珠町)・岡藩(竹田市)に取締りを命じる。
- : 同年 旧陣屋に日田県を置き、松方正義が入城後日田県役所と改名。
- 1872年(明治4年)竹槍騒動などの農民による暴動を治めるため、西街道鎮台分営を置く。
- : 同年 旧永山城内に県庁舎と知事公舎が設置されるがその年に大分県に併合し廃県となり、鎮台分営も廃止、旧庁舎である旧陣屋も払い下げられた。
- 1915年(大正4年)、公園に指定される。
平成年間
- 2009年(平成21年)、月隈公園整備用道路建設のため公園内27箇所での試掘調査が行われた。
- 2011年(平成23年)、永山城跡の埋蔵文化財調査(発掘調査)が行われ、本丸の虎口北側石垣の遺構、建物礎石などが出土した。
- 2012年(平成24年)、7月中旬の九州北部豪雨によって月隈山登山道の一部が崩壊した。
- :同年に行なわれた平成24年度発掘調査では、平成23年度に引き続き本丸跡の調査のほか、肥後殿堀跡(北西部水堀跡)の発掘調査が行なわれ、堀跡からは川石を利用した玉石の野面積み石垣の一部が出土した。
- 2016年(平成28年)2月9日、「永山城跡」として大分県の史跡に指定された[4]。
熊本地震(2016年)
- 2016年(平成28年)4月14日・4月16日に発生した熊本地震の本震で城山部分の石垣が崩落し、日田市教育委員会の4月定例教育委員会において文化財保護課長の池田寿生は、本丸石垣の2カ所が崩壊し、その内大手石垣の石垣石が公園歩道入り口付近まで落石、天守西側石垣も崩落している状況を報告した[5]。毎日新聞は2016年4月27日付地方版で、文化庁の現地調査の様子を報じ、2016年5月29日付地方版で、5月29日に馳浩(文部科学相)が非公式で視察し、永山城跡の早期修復に理解を示したと報じた[6]。
構造
山頂に本丸、中腹に二の丸、麓に三の丸があり、三ノ丸の南中央に大手虎口が開かれていた。南を表、北を背面としていた。建物があったかなどは不明で、本丸の表門と考えられている虎口脇にある石垣は天守台ともいわれ、本丸奥にある高台も天守台ではないかという説がある。山頂本丸表虎口付近の川石(丸石)を使用した野面積みの石垣が現存する。2009年に日田市が行った公園整備計画にともなう試掘調査によると、本丸表門石垣は1680年代に築かれたものであると推定され、城跡の北西麓からは細川綱利時代のものと推定されている川石の石垣と土塁が出土し、北西斜面中腹からは虎口石垣が出土している。
現在、三ノ丸にかかる石橋や切込み接ぎの石垣は、県庁と知事官邸を建てたころに建造されたものといわれている[7]。
日田陣屋
日田陣屋(ひたじんや)は、日田代官所もしくは永山布政所(ながやまふせいしょ)という西国筋郡代役所である。ただし、永山布政所という名称については、昭和11年(1936年)以降に千原豊太が記した「豊後日田永山布政史料」に初めて記述が認められるもので、江戸期では一般に日田御役所と呼ばれていた。
構造
陣屋は、追手口跡より東の堀端の現在道路や住宅地となっている一角にあった。郷土史料には、堀から天満宮旧境内裏手と呼ばれるところまで長屋があり、敷地北東の隅に本陣(奥向)、中央に役所があったとある一方で、山田家(隈町山田家)所蔵の「御陣屋平面図」では、南ほぼ中央あたりに長屋門形式の正門と門番詰め所、陣屋の西側と堀側である北側に小屋や長屋と呼ばれる役宅が建ち並び、その中央に役所と奥向を併設した大型の建物が描かれている。『太宰管内志』によれば、本陣(奥向)は寛永年中に日隈城から移築されたものであるという。敷地の北東隅は家相に基づいて鬼門除けのために入隅としている。
歴代代官
1.1639年 小川正慶、小川氏行 (ともに日田在陣) 2.1656年 小川正久、小川行広 (ともに日田在陣) 3.:1665年から1年にかけては、細川綱利が居城した。 4.1666年 山田利信、竹内信就 (前者は日田、後者は高松に在陣) 5.1669年 - 1671年 近藤政勝 (高松在陣) 6.1677年 永田貞清、三田守良 (前者は日田、後者は高松に在陣) 7.:1682年から4年間は、松平直矩の所領となった。 8.1686年 小川正久 (日田在陣) 9.1688年 三田守良 (高松在陣) 10.1692年 小長谷正綱 (高松在陣) 11.1698年 室重福 (日田在陣) 12.1714年 南条則明 (高松在陣) 13.1716年 室重福 (高松在陣) 14.1717年 池田季隆 (高松在陣) 15.1724年 増田永政 (日田在陣) 16.1734年 岡田俊惟 (日田在陣) 17.1753年 岡田俊博 (日田在陣) 18.1758年 揖斐政俊 (日田在陣)岡田俊惟の次男。1767年に初代西国筋郡代に昇任した。 19.1772年 揖斐僮年 (日田在陣) 20.1777年 揖斐政喬 (日田在陣) 21.1786年 揖斐政恒 (日田在陣) 22.1793年 羽倉秘救 (日田在陣) 23.1809年 羽倉用九 (日田在陣) 24.1810年 三河口輝昌 (日田在陣) 25.1813年 三河口輝長 (日田在陣) 26.1817年 塩谷正義 (日田在陣) 27.1836年 高木忠篤 (長崎代官預り。11代目高木作右衛門) 28.1837年 寺西元栄 (日田在陣) 29.1841年 寺西東上 (日田在陣) 30.1841年 竹尾忠明 (日田在陣) 31.1847年 池田季秀 (日田在陣) 32.1861年 池田季昶 (日田在陣) 33.1862年 高木忠知 (長崎代官預り。13代目高木作右衛門) 34.1862年 屋代忠良 (日田在陣) 35.1864年 窪田鎮勝 (日田在陣)1868年に陣屋から退去した。
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永山城の口コミ情報
2023年09月23日 こういち
永山城
日田を一望できるステキな場所でした。公営の無料駐車場もあり、便利でした
2022年07月01日 左兵衛佐けんちん
永山城
駐車場から、すぐにリア攻めできます!道も整備してあり、感謝です。
2022年03月28日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
石坂石畳道(日田往還)[永山城 寺社・史跡]
大分県の日田市にある【石坂石畳道】(日田往還)♪この石坂石畳道は江戸時代に大分県の日田市から中津市を結ぶ主要道となります♪
市ノ瀬から伏木峠の間に築かれた街道は綺麗に石畳が残っていました☆
往時、日田⇄中津へ通じる、この道は交通も頻繁だった様です☆
岩や石の露出した難所であった為に江戸時代の後期に隈町の掛屋、京屋作兵衛が周防の石工に依頼をして、この石畳が造られました♪石畳は馬や人が歩きやすい様に2~3歩、歩いて一段登る様にして緩目の坂に工夫が施されました☆
全部で16箇所の葛籠折れ道となっています☆綺麗に石畳みが今も残っています☆
江戸時代に、この日田エリアは九州6ヶ国の天領を支配する為に幕府代官所が置かれました☆その為に九州の政治、経済、文化の中心となった日田への道が整備されて文化墨客や商人、旅人が盛んに往来しました☆
坂本冬美さんが歌う『いいちこ』のCM
また君に〜♫恋してる♫今ま〜でよりも深く♫のロケ地にもなっています♪
的場浩司さんが全力で走ってる印象的なCMですね♪
街道好きにはたまりません☆
2022年03月20日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
松陽砦[永山城 周辺城郭]
「日本城郭大系」には、日田孫二郎永貞が康永元年、松陽山岳林永昌禅寺を建立し(現在の岳林寺)、本城はこの裏山にあり、日田大蔵氏の館かと思われるとありました。
「大分の中世城館」では、新原一族の砦として紹介しています。
2022年03月20日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
諸富城[永山城 周辺城郭]
「日本城郭大系」では、天正の頃、諸留孫右衛門尉の居城のようです。
面積は田畑合わせて三十八町の所領で、城跡は杉・櫟の木立となっており、東方が大手口とありました。
家老屋敷の小字もあるそうです。
2022年03月20日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
羽野砦[永山城 周辺城郭]
「日本城郭大系」によると、財津氏の祖永斎の子永豊は羽野村に居住し、羽野氏と称したようです。
小字に羽野殿屋敷があるみたいです。
永豊の子永射の時から熊取城と称すとありました。
2022年03月20日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
堤城[永山城 周辺城郭]
「日本城郭大系」には、大永3(1523)年、大友義鑑は日田の八郡老を先手として筑後の溝口・川崎・西牟田の各氏を討伐した。このとき、藤山城主財津大和守は抜群の働きをした武勇にすぐれた武将であったが、讒言されて大友義鑑に攻められる羽目になったとありました。
堤城主堤弾正少輔と高瀬城主の越後守は、大友義鑑の命令で藤山城を攻撃することになったが、その日が大雨で高瀬軍は河を渡ることが出来ずに遅れたので、堤の軍は高瀬の軍を待ちきれずに単独で藤山城に向かったが、あらかじめこれを察知していた財津軍に途中で待ち伏せされ、主従ことごとく討たれたと記載されていました。
「大分の中世城館」では、堀切が二条あるそうです。
2022年02月28日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
星隈城[永山城 周辺城郭]
「大分の中世城館」では
三郎丸砦
としても紹介されていました。この名称で知られていた頃は新原兵部少輔の居城だったようです。
「日本城郭大系」には、元亀元年、大友・龍造寺の合戦の時、肥前国雄城の城下で新原兵部小輔が戦死したとありました。
2021年09月20日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
永山城
映画にもなった引っ越し大名こと松平直矩が一時期居城としていた城です。映画を見ていつか行ってみたいと思っていました(^-^)
城址は月隈公園として整備されていて無料の駐車場があります。ただこの駐車場は観光地となっている城下町の豆田町の少し離れた無料駐車場でもあるため、休日等は車が多いのでお気をつけください。なので私が登城した日は、永山城にいた人に反比例して車が多かったです(^^;
さて城跡としてですが、石垣もきれいによく残っていますし、枡形虎口も分かりやすくとても良かったです。
しかし、それ以上に城址としては珍しい横穴墓群が至るところにあり、説明板を見つけるまではこの正体がはっきり分からず(横穴墓群なのか防空壕なのかはっきりせず)迷いながら登城しました(笑)
本丸からの景色も良く日田市を一望出来るため、ここに築城したことが納得出来ましたし、天守台と思われる石垣は近くの花月川から採取したような丸みを帯びた石で構成されていて興味深かったです。
横穴墓にも入れる所もあり、普段城址として体験出来ないような事が経験出来て面白かったです。
近くに寄られた際には日隈城と共に登城されてみてはいかがでしょうか。
2021年05月24日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
財津古城[永山城 周辺城郭]
「日本城郭大系」には、藤山城として紹介されていました。
大永3(1523)年、大友氏の命令で堤弾正少輔がこの城を攻めたが、財津大和守は逆に待ち伏せして堤弾正以下を討ち滅ぼした。その後、高瀬越後守の軍に敗れて一族離散したが、天文3(1534)年、旧領を回復してこの城に帰ったと記載されていました。
2021年05月24日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
坂本城[永山城 周辺城郭]
「日本城郭大系」には、日田八奉行の一人、坂本伯耆守鑑次の居城で原城とも言うようです。
2021年05月24日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
蕪山城[永山城 周辺城郭]
「日本城郭大系」には、日田八奉行の一人、石松肥前守廉正の居城で石松城とも言うようです。
元亀元年の大友義鎮の龍造寺隆信攻めの際に石松肥前守は戦死しているみたいです。
2021年02月24日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
大蔵古城[永山城 周辺城郭]
大分県の日田市にある大蔵古城☆別名を日田城、鷹城と呼びます☆慈眼寺の背後に城郭は位置☆
平安時代に日田郡司職となった大蔵氏が築城したと伝わります☆
このエリアは日下部氏の支配から大蔵氏の時代に突入していきます☆
大蔵氏は代々、日田郡司職を歴任♪大蔵永秀の時には源氏に味方して平家を滅ぼし、その子、大蔵永基は蒙古襲来に備え蒙古軍との戦いで功を挙げました☆その後は大友氏が豊後を支配するようになるとその被官となりました☆でもこの日田・大蔵氏は家督争いによって滅亡し大蔵氏600年の支配が終わってしまいます…。。日田氏は後に大友氏から中原永世(親満)が大蔵永包の姉を妻として養子に入って再興されますが、これも直ぐに滅亡☆日田郡は八奉行によって支配される様になって行きました☆
遺構は堀切、虎口、土橋、郭、切岸と綺麗な形で残ります♪
駐車場は花月川沿いに停める事が出来ます♪
2021年02月20日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
星隈城[永山城 周辺城郭]
大分県の日田市にある星隈城♪
日田盆地の北を流れる花月川と南を流れる三隈川との合流点に立地していて盆地の西の入口を占めています☆北の月隈、南の日隈と、この星隈とあわせて「三隈の山」と呼ばれていて侵食残丘となります☆
日田北部の領主となった小川壱岐守光氏が、月隈城を築城の際に、ここに一時仮城を置きました☆これが、この星隈城となります☆3年間、星隈城に居住した後に月隈城が完成し以後は月隈城がメインとなります♪
小川壱岐守光氏は関ヶ原の戦いで西軍に属していました☆父である小川祐忠はこの戦いで改易になってしまいますが、父・小川祐忠の正室の弟 にあたる一柳直盛の奔走もあり小川壱岐守光氏は豊後国・日田郡2万石に入領します☆日田藩の初代藩主様で豊臣秀吉、徳川家康に支えました☆
城郭はあくまで居館の為、防御遺構はほぼ無し☆尾根上に数段の段郭が配置され土塁、虎口が残る簡単なモノとなってます☆
またこの丘には星隈横穴墓群があって付近には三郎丸古墳がある為古くから何かしら人の気配がある様ですね♪
2019年09月18日 戸次豊前守紹運亮幸盛
永山城
2019年9月14日登城。1ヶ所コーンを置いてましたが、修復工事終わっていて天守台まで登れます。ここで蚊の総攻撃に遭いました。平山城なれど侮るなかれ。
2018年08月13日 織田上総介晃司
永山城
月隈公園(永山城)に駐車場があります(9:00〜17:00)
お盆は終日開放してます。
熊本地震と豪雨災害で石垣が崩落。修復の為、城山は立入禁止となってます。(2018/08/11現在)
豆田町が日田城下町の風情を残した観光地です。
「日田焼きそば」の店が多くありましたが、営業前に訪れたので食べる事ができませんでした(泣)
日田は良質の天然水が豊富で、サッポロビールの日田工場があります。
以前社員旅行で見学して、かなりビールを飲ませていただきました(`・з・)ノU☆Uヽ(・ω・´)
【追記】4年ぶりに訪れて、修復完了した石垣を見ることができ、日田焼きそばも食べることができました。
炒めるというより焼く感じで麺に焦げ目を付けてパリパリ食感をだしてます。美味しかった(2023/09/16)
2014年07月01日 にゃにゃーにょ豊後守
永山城
日田市街の北にある『月隈公園』が永山城址なのじゃ。
小高い月隈山の南側山麓が三ノ丸跡で、水堀や切込み接ぎの石垣などが残るのじゃが…三ノ丸の石垣は明治時代に築かれたそうなのじゃ。
登城すると山の斜面に多数の穴が開いておるぞい!
これは古代豪族の横穴墓だったそうじゃ。
夜は怖そうじゃのう…。
二ノ丸には『月隈神社』が鎮座しておるのじゃ。
正面には本丸の石垣があるが、堀の石垣とは違い丸石を使っておるのう(角は算木積み)。
その本丸の石垣の上からは日田の町並みが一望できるぞい!
奥には天守台と云われておる盛土があり、屋根つきの休憩場があるのじゃ。
城址の東側に駐車場・トイレ有。
☆豆田町
日田の観光と云えば一般的にはココじゃぞ!
江戸時代の町並みが残り多くの観光客が散策しておるぞい。
歴史好きは「天領日田資料館」や廣瀬淡窓の私塾「咸宜園」などが良さげじゃな!
☆日田焼きそば
日田のB級グルメでパリパリに焼いた麺と、モヤシがたくさん入っておるのが特徴じゃ!
☆久大本線日田駅の隣にある観光案内所でレンタサイクルを借りるとよいぞい。コインロッカー有。
2013年08月13日 たかぴょんどすえ勘解由長官
永山城
高速日田インター口バス停の間違いでした。訂正します。博多駅発の高速バスしか停まりませんのでご注意下さい。天神バスセンターや福岡空港も停車して来ます。天神、空港経由は一時間に一本で、天神経由で空港には停車しないバスは二本程度運行してます。
2013年08月13日 たかぴょんどすえ勘解由長官
永山城
日田林工高校のすぐ隣にあります。一部が高校になってます。行かれるならば、高速日田インターバス停が近いです。
2011年04月18日 ブイシカ摂政
永山城
陣屋跡の裏山にあたる月隈公園が永山城跡である。登城すると、城山の側壁に穿たれた古代の墓穴が無数にあり驚かされる