松尾城(まつおじょう)
松尾城の基本情報
通称・別名
- 小石原城
所在地
- 福岡県朝倉郡東峰村大字小石原
旧国名
- 筑前国
分類・構造
- 丘城
天守構造
- -
築城主
- 不明
築城年
- 不明
主な改修者
- 黒田長政
主な城主
- 宝珠山山城守、中間統胤
廃城年
- 元和元年(1615)
遺構
- 曲輪、石垣、横堀(空堀)、堀切、枡形、虎口、櫓台、礎石建物跡、畝状竪堀群
指定文化財
- 県史跡(松尾城跡)
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
古処山城(福岡県朝倉市)[9.3km]
益富城(福岡県嘉麻市)[10.9km]
麻底良城(福岡県朝倉市)[11.7km]
秋月城(福岡県朝倉市)[12.1km]
岩石城(福岡県田川郡)[12.6km]
杷木神籠石(福岡県朝倉市)[12.8km]
城井谷城(福岡県築上郡)[15.5km]
永山城(大分県日田市)[18.6km]
日隈城(大分県日田市)[19.9km]
長岩城(大分県中津市)[20.6km]
松尾城の解説文
松尾城の口コミ情報
2023年05月24日 源山城守@ポンコ2…㉔㉕
駐車場[松尾城 駐車場]
先達の方が仰るように500号線沿いに看板出ており、ほんの少し進むと駐車場に。村役場ホームページに20台駐車できるとあり、それくらい駐車できます。
ここに縄張り図付の案内板あるので、予習忘れても無問題です。
険しそうな登城口はすぐそばにありますが、道中それほど険しさはなく、そこから途中の案内板に従い進むと5分ほどで修復された石垣が見え城址に着きました。落葉などありやや滑りやすく傾斜もあり、スーツ革靴でも歩けましたがお勧めしません。上りより下りのほうが足に力入るからキツイかもしれません。
郭の3石分の石垣や虎口などは修復されており、郭の南北には10数本の畝状竪堀があるとのことでしたが、残念ながら笹や草に覆われうっすらと面影か感じられる程度で、東の3本の堀切はわからずでした。周囲の見渡しもよく、街道を抑えてたのが伺えました。
竪堀以外にも虎口はしっかりした形式で整備されており、郭内の建物礎石や櫓台、横矢掛りなど小規模ながらギュッと詰め込まれた感がよかったです。筑前六端城というだけあって境目に、隣国豊前の細川越中守対策を行った黒田長政の念みたいなんがなんとなく伝わりました。
繁茂し始めた草みながら山城は、桜咲く前だなと実感しつつもお手軽でよかったです。所要時間は30分ほどでした。
2023年05月16日 装鉄城大膳大夫乱怒
松尾城
小石原の交差点を国道500号線へまがり、すぐに案内板あります。そのまま入ると駐車場があり、民家奥の小道から行くと新しい登城道ができ、キチンと案内表示があり、迷う心配がなく8分で城跡着きました。石垣が修復整備されていて、来て良かったです。
2023年02月04日 左兵衛佐けんちん
松尾城
駐車場に停めたら、少し登ると先が竹藪になります。白いポールのところに右→松尾城と小さい看板があるので斜面を登っていってください。間違えると竹やぶを分けながら進む羽目になります…写真見てくださいね!
2022年03月16日 【✾】源九郎豊前守牛若丸
国見城[松尾城 周辺城郭]
「日本城郭大系」には、天正元年から大友氏が肥前・筑後の兵を防ぐために設けたそうです。標高864mの国見山頂にあり烽台の跡か、とありました。
2022年03月16日 【✾】源九郎豊前守牛若丸
安禅寺砦[松尾城 周辺城郭]
「日本城郭大系」では、日田郡津江庄の長谷部信連(津江殿)の三家老の一人、佐藤出雲守永信は、津江庄大野村の内、本大野の西五丁ばかりの雪ケ嶽の半腹に居館を構えていたようですが、津江殿没落の後は津江の山奥から日田に出て中城に館を造り、日田八郡老の一人になったとありました。
大友氏が改易になったあと、佐藤山城守鎮真は子の四郎右衛門尉長治と領内の小野小竹村に館を構えたそうです。城跡は安禅寺の上の山上にあって蔵屋敷跡もあるとの事です。
2022年03月15日 【✾】源九郎豊前守牛若丸
針目山城[松尾城 周辺城郭]
「日本城郭大系」には、大友義鑑の命で財津主殿亮永石が城代となるとありました。
2019年05月02日 兵庫頭あっきい
松尾城
笹を掻き分け登ってくると城の西側の石垣が目に飛び込んできました。
2019年05月01日 大学助さくにゃん
虎口[松尾城 遺構・復元物]
駐車場からここまで笹がいっぱいでした。
2017年10月23日 じょーうん隠岐守
松尾城
7月の豪雨により松尾城のある東峰村が被害を受けて、周りの道が通行止めや片側通行でしたが、3カ月たった現在かなり解消されました。
前は広い駐車場だったのですが、今はそこに村営住宅が建つので、かなり狭くなってますが、5台ぐらいは止めれます。
2016年04月12日 藤原朝臣掃部頭純長
松尾城
秋月城近くのR500からは松尾城へは行けません、ダム建設の為全面通行止めだつた
2015年05月05日 柴崎権大納言幸助
松尾城
駐車場には、たくさん停めるスペースがあります。5分程度の軽い登山で、すぐ着きます。整備されているので、全体像も分かり、遺構を楽しめます♪雨上がりはヘビが各所でお出迎え…(; ̄ー ̄A
天正10年(1582)には大友宗麟が小石原に攻め入って松尾城を打ち崩したとの記録がある。慶長5年(1600)に黒田長政が関ヶ原の戦いの功により、豊前中津から筑前に入国したあとは黒田家の支配下に入る。慶長6年(1601)には、領内に6つの端城を設け、重臣が配されるが、松尾城には土地鑑があった黒田(中間)六郎右衛門統胤が城主となる。その後、松尾城は元和元年(1615)、幕府の一国一城令により破却される。
検出した遺構
主郭斜面には畝状竪堀が北側に13本と南側に11本あり、東側の尾根には堀切が3本ある。畝状竪堀は、尾根脇の斜面を等高線と直角に交わる方向に掘った竪掘とその脇の竪土塁を交互に畝状に並べ築いたもので、山麓から攻め登ってくる敵を阻止するためのもので、堀切は丘陵尾根上からの敵進入を遮断するものである。丘陵中央部には二段に造成された主郭がある。下段の西側には幅4mほど城の出入口である虎口があり、東中央部に3間×5間(下屋付き)の建物礎石がある。上段は1.2mほど高く、西端北側に3間×5間と東側に1間×1間の建物礎石がある。東端に約5m×16m ・ 高さ70cmほどの櫓台がある。
また、主郭部を囲うように全周160mほどの土塁と石垣が巡る。南側や虎口・櫓台は矢穴痕が残る花崗岩を用いた石垣で、北側の土塁は下部に地山に含まれる安山岩を雑に積み、この石垣を包むように版築している。ただ、中央横矢部分と西隅部は南側と同様に塔ノ瀬地区や小石原鼓地区西側に見られる花崗岩を多く使った石垣になっている。
主郭中央部の南北・南側石垣の東隅と西隅・北側石垣の西隅部に「横矢」と呼ばれる城壁に迫った敵に対し側面から攻撃するために石垣線を部分的に長方形の突出しや、緩い曲線状にした部分があり、戦闘を意識した造りになっている。
出土した遺物
発掘調査では、中世の青磁・白磁・赤絵・染付の碗皿片、黒色土器・瓦器碗片、近世の陶器碗・鉢類片や時期不明の鉄滓、石臼、石塔などがあった。ただ、瓦は出土していない。保存整備事業
平成10年度から13年度にかけて行われた発掘調査によって、主郭部分には石垣や土塁が巡らされ、内部には礎石建物跡などの近世的な遺構と、主郭周囲には堀切や畝状竪堀群などの戦国期の遺構が見つかった。しかし、石垣は一国一城令によって大半は壊され、また、遺構の一部は近年の木材を搬出するための索道で削平されていた。