古処山城(こしょさんじょう)
古処山城の基本情報
通称・別名
- 古所山城、経ヶ峯城
所在地
- 福岡県朝倉市秋月野鳥
旧国名
- 筑前国
分類・構造
- 山城
天守構造
- 不明
築城主
- 原田種雄
築城年
- 建仁3年(1203)
主な改修者
- -
主な城主
- 秋月氏、大友氏
廃城年
- 天正15年(1587)
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)、畝状竪堀群
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
秋月城(福岡県朝倉市)[3.5km]
益富城(福岡県嘉麻市)[7.4km]
松尾城(福岡県朝倉郡)[9.3km]
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乙隈城(福岡県小郡市)[14.6km]
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高野山城(福岡県飯塚市)[15.4km]
宝満城(福岡県太宰府市)[15.8km]
有智山城(福岡県太宰府市)[16.7km]
岩石城(福岡県田川郡)[17.1km]
古処山城の解説文
[引用元:Wikipedia「古処山城」の項目]
古処山城(こしょさんじょう)は、福岡県朝倉市野鳥にあった日本の城(山城)。秋月氏の本拠地であった。
歴史
建仁3年(1203年)、秋月氏の先祖である原田種雄が築城した[1]。山麓には平時の居館として秋月氏宅所(杉本城)が建てられたとされ、現在の秋月城(秋月陣屋)付近に所在したとされるが、発掘調査等で確認されておらず正確な所在地はよくわかっていない[2]。
弘治3年(1557年)、大友氏による猛攻により陥落し、城主秋月文種は自害、次男秋月種実は毛利元就のもとへ落ち延びた。その後は大友氏が城を守っていたが数年後に秋月種実は城を取り戻し、島津氏に従属して12郡36万石を治める大名となり最盛期を迎える。しかし天正15年(1587年)、豊臣秀吉による九州征伐に敗れ、秋月氏は日向国高鍋3万石に移され廃城となった。
元和9年(1623年)に黒田氏が秋月5万石を所領し、古処山城麓に秋月城(秋月陣屋)を築いた。なお、現在の秋月城黒門(県の有形文化財)は古処山城の搦手門を移築したとの伝承もあるが、江戸時代前期の建築と考えられている[3]。
参考文献
- 平井聖ほか 1979「秋月陣屋」「古処山城」『日本城郭大系』第18巻(福岡・熊本・鹿児島)pp.75-76
- 福岡県教育委員会 2014『福岡県の中近世城館跡Ⅰ-筑前地域編1-(https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/72561)』福岡県文化財調査報告書 第249集 pp.14-15
- 「古処山城」pp.85-89
- 「秋月陣屋」pp.144-146
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古処山城の口コミ情報
2025年04月27日 龍馬備中守【】
三奈木黒田家御茶屋跡[古処山城 遺構・復元物]
福岡県甘木市の三奈木にある【三奈木黒田家御茶屋跡】♪福岡藩の筆頭家老で、旧下座郡12,000石を領した、三奈木黒田家の別邸跡となります♪別名を黒田屋敷や、御茶屋とも呼ばれます♪ここは英彦山街道と日田街道の交わる交通の要衝地でもあります♪
三奈木黒田家ですが、江戸時代、福岡藩の筆頭家老を代々勤めてきました♪本姓は加藤氏ですが、藩主黒田家との深い繋がりから、当主のみ黒田姓を名乗る事が許されていました♪
その為、藩主一族とは区別をして三奈木黒田家と呼称されています♪黒田家との繋がりは、福岡藩祖である黒田長政の父・黒田孝高(官兵衛、如水)と、初代当主黒田一成の父・加藤重徳に始まります♪
天正6年(1578年)織田信長に反旗を翻した摂津国・伊丹の領主である荒木村重は、有岡城に籠城します。播磨国・姫路城主であった黒田孝高(官兵衛)は、荒木村重の説得に向かいますが、逆に捕らえられ監禁されています。この時、牢番として黒田孝高を手厚く保護したのが、荒木村重家臣の加藤重徳です。
天正7年(1579年)有岡城落城の際には、約1年に及ぶ入牢のため歩けなくなった黒田孝高を、加藤重徳は黒田家臣である栗山備後利安と共に救出しています。黒田孝高は、その労に報いる為に、加藤重徳の次男・玉松(後の一成)を預かり、我が子同様に育て、黒田の姓を与えています♪
黒田一成は、黒田孝高・長政父子に従い、最年少ながら黒田二十四騎の一人として戦陣を駆け抜け、豊臣秀吉の九州平定、朝鮮の役、関ヶ原と、草創期の黒田家を懸命に支えました。
また、寛永14年(1637年)島原の乱では、黒田一成は幕府軍の軍議に加えられ、黒田一成が提案した兵糧攻めが採用されています。島原の乱の総攻撃では、福岡・秋月・東蓮寺の黒田三藩が乱の鎮圧に貢献しました。
福岡藩の体制が統治組織へと移行していく中で、藩主の権力をより確立する為に、盟友的存在であった黒田二十四騎の家臣達が次々と取り漬されていき、家禄を減じられていきます。
黒田利高・利則・直之といった黒田孝高の兄弟達の家系でさえ、その対象となっています。
しかし、三奈木黒田家は、唯一明治期まで一万石以上の家禄を維持し、家督相続と同時に家老の上座に就任しています。また、藩主が参勤交代で江戸に出立する際には、三奈木黒田家の屋敷(福岡城内)を訪問するのが慣例となっているなど、藩主との深い繋がりが窺えます。
三奈木黒田御茶屋跡に関しては、慶長5年(1600年)黒田長政が豊前より筑前に転封されると、その家臣である黒田一成には、三奈木を含む下座郡に知行地が与えられています。黒田一成はこの地に屋敷を建て、周囲に家臣団を配しています♪御茶屋にある庭園が作られたのもこの頃で、池の底に確認された一回り小さい護岸の石組みが、当初の池の大きさだと考えられます。明暦2年(1656年)福岡藩3代藩主・黒田光之が、筑後川での鵜飼い見物の後、この屋敷に宿泊しています。この頃の屋敷を描いた絵図には、現在とほぼ同じ形の池が見られる事から、三奈木黒田家2代当主・黒田一任が藩主の訪問に合せて建物を改築した際に、池を広げたり取水口を付け替えたりといった改変を行ったのでしょう。
2025年04月26日 龍馬備中守【】
岩切山城[古処山城 周辺城郭]
福岡県甘木市の三奈木にある【岩切山城】♪古くは美奈木・美嚢・蜷城とも書かれている、三奈木です♪筑後川支流の佐田川中流域に立地します♪地名の由来は神功皇后が熊襲を討った時、ここに、十万石の蜷をもって高十丈の城を築いた事に因むという伝説があります。(続風土記拾遺)
字田中原に縄文早期~晩期の田中原遺跡、字久保鳥に弥生中期の甕棺墓群、ヤツエには前方後円墳のヤツエ塚古墳があります♪清岩寺の背後の山に、この岩切山城があり、山の前に人埋塚があります♪
美嚢郷は平安期に見える郷名です♪『和名抄』には筑前国下座郡七郷の1つとなっています♪
中世には三奈木荘として、鎌倉期~室町期には荘園化し、機能しています♪中世も引き続き下座郡の内となっていて、立荘の時期や経緯などを直接示す史料は見られませんが『和名抄』に見える美嚢郷を中心にして、形成されていった荘園なのでしょうね♪
鎌倉期初頭には平氏没官領、ついで関東御領になっていた可能性も指摘されていますが、定かではありません。建長2年に前摂政・九条道家がその家領などを処分した際、三奈木荘も東福寺(京都府)領として、それに含まれていますが、家領となった時期や経緯などは知られていません。
正応元年(1288年)に弘安4年(1281年)の蒙古合戦に対する第2回目の勲功賞配分が行われ、三奈木荘の地頭・預所両職も豊後の志賀泰朝、薩摩の武光、国分寺等の各氏、肥前の深堀氏など各地の御家人に配分されています。中でも志賀泰朝には『下庄木部郷』などが割り当てられていて、荘園は上・下両荘に分けられていた様です。その後、志賀氏はこの勲功地を伝領し、南北朝末期までそれを辿ることができますが、以後は明らかではありません。一方、観応3年(1352年)安楽寺領注進状案には、安楽寺(現太宰府天満宮)も三奈木郷内に『長日十一面供䉼所』と称する所領を有しているとありますが、三奈木荘との関係は明らかではありません。
正平18年(1363年)征西将軍懐良親王が五条頼元に、蒙古合戦勲功賞配分地の当知行分を除く三奈木荘を賞賜しています。
応永9年(1402年)沙弥正言譲状案によると、長野入道正言は、その子息に『三奈木拾町之内参分壱』を譲与していますが、その後の状況をうかがわせる史料がない為、室町期から戦国期にかけては、古処山城を本拠地とした秋月氏の支配下にあった事が考えられます。
日本城郭大系では、秋月氏の支城で山下氏の城郭と記載はありました。
主郭は最高所で、中央に円墳と思われるマウンドがあります♪南背後を堀切で遮断しています。清岩寺側も城域と考えられます♪壇状の郭に見えてきます♪
2022年09月10日 龍馬備中守【】
千手城[古処山城 周辺城郭]
福岡県の嘉麻市にある【千手城】♪現在は千手八幡宮が祀られています☆
古処山の北麓に立地し、遠賀川の支流、千手川に合流する小流の谷間や台地に田畑が開け集落が点在しています☆
千手は『せんず』と読みます☆
地名の由来は、文明年間創建の曹洞宗千手寺からきているとも云われています☆
ただ、南北朝時代には既に千手という名前が出てきている為に、寧ろ、地名から寺の名前がきていると思われます♪
繰り返しになりますが、千手は南北朝時代から見える地名になります☆
南朝方である筑後の人木屋行実や草野永幸らが、ココ千手にて北朝方と戦い勝利しています♪千手城は在地豪族である千手氏の城郭と伝わります☆千手氏は、南北朝時代、南朝方に属し活躍していて、千手城は南朝方の有力拠点だった様です☆
が一時、北朝方に陥れられ、一色範光が立て籠って居たのを、南朝方が再び取り返しています☆
戦国時代になると、この地は少弐氏の知行地になっています☆
ですが、往時の領主・少弐教頼は、将軍足利義教に対して反乱を起こした播磨国の赤松満祐の追い討ちに失敗します☆
これにより少弐教頼は、幕府の命を受けた大内氏に攻撃を受ける立場になっていきます…。千手城でもその攻防戦が行われています☆
時を進めて戦国時代♪
秋月文種が毛利氏に通じて大内氏に反した為に、大内家臣・豊前・佐田氏や豊後・萩原氏と馬見において秋月軍と戦っています☆
築城年代は不明となりますが、城主は秋月氏の家臣・千手八太郎という人物の名前が出てきています☆
主郭の西側には綺麗に横堀が廻ります☆
高い土塁に横堀☆千手城の1番の見所でしょう☆主郭の北側の切岸は非常に鋭く激戦を物語ります♪
2021年02月11日 ヒデタカ筑前守
千手城[古処山城 周辺城郭]
千手八幡宮が千手城跡です。土塁・段状の曲輪・横堀・切岸地形の遺構が残っています
2020年12月08日 榎晴信肥後守
古処山城
古処山城、南の曲輪へはこの案内坂から右へと登ります。
2017年03月05日 カーネル
古処山城
甘鉄甘木駅から甘木観光路線バスに乗る
野鳥バス停止まりですが、7-9月はその先の古処山入り口まで行ってくれます
野鳥で降りたら、本覚寺を目指して緩斜面の舗装路を登りますが、車道は遠回りですが、畑の合間をほぼ直線で抜けれる道があります
10分ほどで本覚寺に着き、ここから頂上まで2.9km。沢沿いの舗装路を歩きます
すぐに山道になりますが、脇の沢に滝が無数にあり、癒されながら40分登ると車道と合流します。車はここまで入れます
九州自然歩道の道標に従って、登ります
登山者がいっぱいいるので、道は整備されており、傾斜はあっても段差が小さいので、ゆっくり登れば大変ではないと思います
山頂から西の尾根にかなり下ると、平場にでます。曲輪ですかね?
来た道をもどり、本覚寺にお参りしてバス停へ
野鳥バス停から山頂まで往復8km+西尾根散策+本覚寺お参りで3時間半でした
2015年11月02日 柴崎権大納言幸助
古処山城
古処林道で五号目まで車で行けます。そこから1.1キロで山頂とのことで「楽チン」と思いきや、なかなかの傾斜の、足場の所々悪い道をひたすら登ります。まあ紅葉も楽しみながらゆっくり登ればよろしいかと…。山頂の岩場に登れば、景色を360度味わえます♪
2013年05月05日 大宰少弐ためぞう
古処山城
古処林道を突き当たったところに車を停めて、そこから1.1キロの山道。実際45分かかりましたが、ももとふくらはぎが悲鳴をあげました。
山頂には標高を表す表示と、祀られた神様のみ…
土塁や堀などは見つけきらなかった自分は、まだまだ城の知識が甘いのか…?
ちなみに下り終えると膝が笑ってました。
こんなところに城を作ったなんて…攻める方も守る方も大変!!