三奈木黒田家御茶屋跡
三奈木黒田家御茶屋跡([古処山城 遺構・復元物])
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三奈木黒田家御茶屋跡の口コミ情報
2025年04月27日 龍馬備中守【】
福岡県甘木市の三奈木にある【三奈木黒田家御茶屋跡】♪福岡藩の筆頭家老で、旧下座郡12,000石を領した、三奈木黒田家の別邸跡となります♪別名を黒田屋敷や、御茶屋とも呼ばれます♪ここは英彦山街道と日田街道の交わる交通の要衝地でもあります♪
三奈木黒田家ですが、江戸時代、福岡藩の筆頭家老を代々勤めてきました♪本姓は加藤氏ですが、藩主黒田家との深い繋がりから、当主のみ黒田姓を名乗る事が許されていました♪
その為、藩主一族とは区別をして三奈木黒田家と呼称されています♪黒田家との繋がりは、福岡藩祖である黒田長政の父・黒田孝高(官兵衛、如水)と、初代当主黒田一成の父・加藤重徳に始まります♪
天正6年(1578年)織田信長に反旗を翻した摂津国・伊丹の領主である荒木村重は、有岡城に籠城します。播磨国・姫路城主であった黒田孝高(官兵衛)は、荒木村重の説得に向かいますが、逆に捕らえられ監禁されています。この時、牢番として黒田孝高を手厚く保護したのが、荒木村重家臣の加藤重徳です。
天正7年(1579年)有岡城落城の際には、約1年に及ぶ入牢のため歩けなくなった黒田孝高を、加藤重徳は黒田家臣である栗山備後利安と共に救出しています。黒田孝高は、その労に報いる為に、加藤重徳の次男・玉松(後の一成)を預かり、我が子同様に育て、黒田の姓を与えています♪
黒田一成は、黒田孝高・長政父子に従い、最年少ながら黒田二十四騎の一人として戦陣を駆け抜け、豊臣秀吉の九州平定、朝鮮の役、関ヶ原と、草創期の黒田家を懸命に支えました。
また、寛永14年(1637年)島原の乱では、黒田一成は幕府軍の軍議に加えられ、黒田一成が提案した兵糧攻めが採用されています。島原の乱の総攻撃では、福岡・秋月・東蓮寺の黒田三藩が乱の鎮圧に貢献しました。
福岡藩の体制が統治組織へと移行していく中で、藩主の権力をより確立する為に、盟友的存在であった黒田二十四騎の家臣達が次々と取り漬されていき、家禄を減じられていきます。
黒田利高・利則・直之といった黒田孝高の兄弟達の家系でさえ、その対象となっています。
しかし、三奈木黒田家は、唯一明治期まで一万石以上の家禄を維持し、家督相続と同時に家老の上座に就任しています。また、藩主が参勤交代で江戸に出立する際には、三奈木黒田家の屋敷(福岡城内)を訪問するのが慣例となっているなど、藩主との深い繋がりが窺えます。
三奈木黒田御茶屋跡に関しては、慶長5年(1600年)黒田長政が豊前より筑前に転封されると、その家臣である黒田一成には、三奈木を含む下座郡に知行地が与えられています。黒田一成はこの地に屋敷を建て、周囲に家臣団を配しています♪御茶屋にある庭園が作られたのもこの頃で、池の底に確認された一回り小さい護岸の石組みが、当初の池の大きさだと考えられます。明暦2年(1656年)福岡藩3代藩主・黒田光之が、筑後川での鵜飼い見物の後、この屋敷に宿泊しています。この頃の屋敷を描いた絵図には、現在とほぼ同じ形の池が見られる事から、三奈木黒田家2代当主・黒田一任が藩主の訪問に合せて建物を改築した際に、池を広げたり取水口を付け替えたりといった改変を行ったのでしょう。