有智山城(うちやまじょう)
有智山城の基本情報
通称・別名
- 内山城、大宰少弐城
所在地
- 福岡県太宰府市大字内山
旧国名
- 筑前国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 少弐氏
築城年
- 13世紀中期
主な改修者
- 高橋氏?
主な城主
- 少弐氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 碑
周辺の城
-
宝満城(福岡県太宰府市)[1.2km]
大野城(福岡県大野城市)[3.3km]
岩屋城(福岡県太宰府市)[3.6km]
大宰府(福岡県太宰府市)[4.6km]
阿志岐山城(福岡県筑紫野市)[5.0km]
水城(福岡県太宰府市)[6.3km]
高鳥居城(福岡県糟屋郡)[7.7km]
稲居塚城(福岡県福岡市)[9.1km]
高野山城(福岡県飯塚市)[9.3km]
基肄城(佐賀県三養基郡)[11.2km]
有智山城の解説文
[引用元:Wikipedia「有智山城」の項目]
有智山城(うちやまじょう)は、福岡県大宰府市内山にあった日本の城。
概要
有智山城は標高829mの宝満山の中腹の西に標高 310m 付近[1]に位置する山城である。竈門神社下宮からの宝満山登山口から登ると、途中の看板に『有智山城跡』と分岐あり。そこから、尾根を登った場所に遺構が残っている。
沿革
有智山城は少弐氏により築かれた城で少弐氏の本城[2]である。宝満山の九重原[3]と呼ばれる有智山寺坊跡を通り尾根を登ったところに築かれている。少弐氏は初代の武藤資頼が、源頼朝より太宰少弐職に任じられて大宰府の長官となった、以降代々の武藤氏は太宰少弐職を世襲して少弐氏と名乗った。また、少弐氏は代々筑前守護を兼任している。
元寇の際は少弐景資は鎮西(九州)の御家人の総司令官となり、元軍と最前線で戦っている。弘安5年(1282年) には鎌倉幕府は、元寇の後に少弐氏へ恩賞として、岩門城[4]・大宰府城(浦ノ城)の築城を行った。浦ノ城は太宰府天満宮西から500mの小高い丘にあり、少弐氏の居館となった。有智山城は、戦の際の詰城になったと思われる。
建武3年(1336年)2月、後醍醐天皇と敵対した足利尊氏は京都で敗れて、九州に落ち延びた。その際、足利尊氏は少弐頼尚の援軍とともに九州に上陸した。この時、頼尚の父である少弐貞経は、菊池武敏・阿蘇惟直などに、有智山城を攻められた。有智山城は要害でなかなか落ちなかったが、一族と有智山寺の衆供に裏切りが出たため、城が落ちて少弐貞経は自刃している。その後、少弐頼尚は足利尊氏とともに菊池、阿蘇軍に多々良浜の戦いで勝利して、有智山城を取り戻している。
永和2年(1367年)、九州探題今川貞世(了俊)に従っていた大内義弘が有智山城を攻めて少弐頼澄は敗れている。
少弐氏はその後、筑前を九州に進出した大内氏に奪われたため、大宰府を失った。その後、何度か少弐氏は筑前を回復したが、西国最強の大内氏に敗れて肥前に逃れたために廃城になったと思われる。
参考資料
- 福岡県教育委員会(編)『福岡県の中近世城郭跡Ⅰ 筑前地域編1』福岡県教育委員会、2014年
- 平井聖・村井益男・村田修三(編)『日本城郭大系 第18巻 福岡・熊本・鹿児島』、創史社、1979年
- 渡辺文吉『武藤少弐興亡史』 海鳥社、1989年
[続きを見る]
有智山城の口コミ情報
2025年12月15日 龍馬備中守【】
浦ノ城[有智山城 周辺城郭]
福岡県太宰府市の連歌屋にある【浦ノ城】♪太宰府天満宮の西約300メートルほど、御笠川にかかる浦城橋の北側一体の高台の端に、城郭は存在します。現在、城跡は浦ノ公園となり、周りは住宅地化されている為、遺構は残りません。今の姿から分かることは、高台であること、御笠川が濠の役割を果たしていたことでしょう。当時の状況を知る由がない為、地形や地名などで判断する事が多いですが、遺構が無くても、そこに歴史があったのなら、もうそれだけで、充分なのです。
さて、この浦ノ城ですが、城主は少弐氏と伝わります。元は藤原南家・藤原千常流の武藤氏として、武蔵国の住人だったのですが、鎌倉時代に九州に土着し、大宰少弐(=九州の軍事長官)となっています。武藤小次郎資頼は、大宰少弐となってからは、補任のある無しに関わらず、以降は少弐氏を名乗っていきます。
弘安5(1282年)鎮西奉行所が博多に設けられた際、鎌倉幕府はその補償並びに恩賞として、少弐経資の為に大宰府に城を造らせています。この大宰府の城が浦ノ城であります。少弐氏の居城は、近隣では有智山城などがあって、この浦ノ城は、少弐氏の為に幕府が築いた府の公城公館(少弐氏に残された大宰府の公的役所としての城)という特徴があったと考えられています。なので、太宰府政庁からも近いのです。
現在は、浦之城と岩渕と地名を残すだけであります。どこまでが城の範囲なのか?今は分かりませんが、昭和45年頃まで、浦ノ城は南下する谷を囲んで『コ』の字型に高まりがあった様で、それ程高い丘ではないですが、傾斜は急峻であった様です。コレは、現在もコンクリートで固められてはいますが、鋭い崖となっています。東側の尾根を『ジョウセン山』西側の尾根を『ナラコ山』と呼び、中央は水田だった様であります。浦ノ城は、まるで横矢の様なコの字形の急峻な傾斜を持つ丘陵と、南面を流れる御笠川を外濠としてうまく利用した、丘城だったのでしょうね。
2025年12月13日 龍馬備中守【】
高尾山城[有智山城 周辺城郭]
福岡県筑紫野市の石穴にある【高尾山城】♪石穴神社の背後、標高158mの高雄山に城郭は存在します。築城年代等は定かではありません。北西側に岩屋城、北東側に宝満山城と、明らかに標高の高い城郭を背後に背負います。
この筑紫野エリアは二日市の地峡を境に、西南側の城が筑紫氏の領域、北東側の城が高橋氏に属している、所謂境目にあたるという事は、博多見城で記載しました。正に二日市から北東側に位置する為、高橋氏の城郭でありましょう。
高尾山城の立地から、岩屋城と宝満山城の前線といった城郭に見えます。
ハッキリした歴史は無いのですが、高尾山城は、当初は高橋紹運の家臣の城だったと『古戦古城図』では伝えています。また『城数之覚』では筑紫氏の高尾ノ城として、さらに『拾遺』によると、岩屋城合戦の際は秋月方(島津軍)の陣所と記載されています。その拾遺には『天正十四年薩摩勢岩屋城を攻し時、秋月氏の陳址と云。山上巽(南東)より乾(北西)に四十三間。坤(南西)より艮(北東)に南にて四間半北にて六間有。東南の方に武者走あり。又筋違にから堀あり。』とあります。という訳で、城主は高橋紹運家臣→筑紫氏→秋月氏と思われます。
城の北北東側の約半分は、ゴルフ場を造る際に消滅していて、現在残る部分は一部となっています。
2021年05月30日 眞田左衛門佐十兵衛
有智山城
仏頂山頂の少し宝満山側からうさぎ道を通り50分程下山していくと有智山城跡内に入って行けます 草木が生い茂り、開けた場所が少ないですが、二重空壕跡の近くに石垣も確認出来ました 説明板が少なく城跡全体が分かりづらいです
下りていくと承天寺別院と書かれた立派な山門があります
太宰府方面から竈門神社の突き当たりを左折して進んでいくと看板が見えてきます 駐車場らしき場所はありませんが、少し広くなった場所に駐車出来ると思います もう少し整備していただきたいです💦
2016年07月05日
有智山城
アクセスは西鉄太宰府駅からバスで内山(竈門神社)下車徒歩約35分。道沿いにある案内表示に従い登城しました。駐車場は竈門神社にあります。
鎌倉〜室町期に活躍した武藤少弐氏代々の居城とされますが、戦国期の宝満城の出城と見る説もありはっきりしません。実際訪れてみると城と言うより館跡に近い印象でした。尚近くの承天寺別院からは石垣や焼けた土が発掘されており、承天寺別院が有智山城跡ではないかとの説もあります。
元寇の功績により北九州最大の守護大名となった少弐氏ですが、南北朝期になると観応の擾乱などの流動的情勢の中で南朝方の菊池氏や室町幕府の九州探題今川了俊・北九州の分国化を図る大内氏等と対立。徐々にその勢力を失います。その際幾度も大宰府の争奪戦を繰り広げており、戦国初期に少弐政資が大内義興によって筑前から追われるまでの間、この城は数度の落城を経験したようです。
遺構は一部石積みされた土塁、その内側に土橋がかかる空堀、石積のある大手門跡とそこから左右に伸びる土塁、土塁内側にも空堀のような跡があり、その先には井戸跡、城域東端には大堀切と土橋が残ります。









