大野城(おおのじょう)
大野城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 福岡県大野城市/太宰府市/糟屋郡宇美町
旧国名
- 筑前国
分類・構造
- 神籠石式山城
天守構造
- なし
築城主
- 天智天皇
築城年
- 天智天皇4年(665)
主な改修者
- -
主な城主
- 防人司
廃城年
- 不明
遺構
- 石垣、土塁、門跡、礎石群
指定文化財
- 国特別史跡(大野城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
岩屋城(福岡県太宰府市)[1.6km]
大宰府(福岡県太宰府市)[2.9km]
有智山城(福岡県太宰府市)[3.3km]
水城(福岡県太宰府市)[3.6km]
宝満城(福岡県太宰府市)[4.4km]
稲居塚城(福岡県福岡市)[6.1km]
阿志岐山城(福岡県筑紫野市)[6.8km]
高鳥居城(福岡県糟屋郡)[6.8km]
古野城(福岡県福岡市)[9.3km]
丸山城(福岡県糟屋郡)[9.7km]
日本100名城・続日本100名城スタンプ情報
大野城の解説文
[引用元:Wikipedia「大野城」の項目]
大野城(おおのじょう/おおののき)は、福岡県の太宰府市・大野城市・糟屋郡宇美町にまたがる大城山(おおきやま)[1]に築かれた、日本の古代山城。城跡は、1953年(昭和28年)3月31日、国の特別史跡「大野城跡」に指定されている。
概要
大野城は、大宰府政庁跡の北側背後に聳える、標高410メートルの四王寺山(大城山)[2]に所在する。山頂を中心に馬蹄形状の尾根から谷を廻る土塁と石塁の外周城壁は、約6.8キロメートルである。そして、南側と北側の土塁が二重となり(城壁総長は8.4km)防備を固める。城域は東西約1.5キロメートル×南北約3キロメートルの、日本一の大規模な古代山城である[3]。城門は太宰府口城門など9か所が開く[4]。また、谷部では、浸透式で自然排水の百間石垣・水ノ手石垣などに加え、水口のある屯水石垣などが確認されている[5][6]。
大野城市の名称はこの大野城に由来する[7]。2006年4月6日には、日本100名城(86番)に選定された。
調査・研究
発掘調査では、太宰府口城門が三期にわたって建て替えられている。また、北石垣城門は、入口前面に1メートルほどの段差を設けた懸門構造であり[8]、門柱の軸受け金具の出土は国内初の事例である[9]。そして、約70棟の建物跡が確認され、数棟で一群となり、主城原(しゅじょうばる)礎石群など、城内8か所に分布する。掘立柱建物と礎石建物があり、倉庫と考えられている総柱礎石建物が多数存在するが、築城期以降の建物とされている。出土遺物は、墨書土器・軒丸瓦・軒平瓦・炭化米などが出土している[10]。
- 城跡の研究は、1926年(大正15年)、島田二郎が発表した「大野城址」を嚆矢とする[11]。
- 考古学的研究は、1950年~1960年の鏡山猛の踏査研究[12]をもとに、1973年(昭和48年)から九州歴史資料館が発掘調査を行っている。発掘調査の成果は、福岡県教育委員会 編集/発行 『特別史跡 大野城跡 ・I~IV』、1976年~1991年、で報告されている[13]。
- 平成15年7月、異常な豪雨で土砂災害が発生し、平成16年から6年間にわたり、約30か所で遺構関連復旧工事が施工された。
- 土塁の崩壊により、外郭線の全域の土塁基底部に列石が存在することが判明した。また、列石の前面で柱穴列が検出された[14]。
- 九州管内の城も、瀬戸内海沿岸の城も、その配置・構造から一体的・計画的に築かれたもので、七世紀後半の日本が取り組んだ一大国家事業である[15]。
- 1898年(明治31年)、高良山の列石遺構が学会に紹介され、「神籠石」の名称が定着した[16]。そして、その後の発掘調査で城郭遺構とされた。一方、文献に記載のある大野城などは、「古代山城」の名称で分類された。この二分類による論議が長く続いてきた。しかし、近年では、学史的な用語として扱われ[17]、全ての山城を共通の事項で検討することが定着してきた。また、日本の古代山城の築造目的は、対外的な防備の軍事機能のみで語られてきたが、地方統治の拠点的な役割も認識されるようになってきた[18]。
関連の歴史
『日本書紀』には、「・・・大野(おおの)と椽(き)、二城(ふたつのき)を築かしむ」と、記載する[19]。また、『続日本紀』に、「大宰府をして大野、基肄(きい)、鞠智(くくち)の、三城を繕治せしむ」と、記載された城である[20]。
大野城は、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した後、大和朝廷が倭(日本)の防衛のために築いた古代山城である。665年(天智天皇4年)、基肄城とともに築いたことが『日本書紀』に記載されている。城郭の建設を担当したのは亡命百済人で、「兵法に閑(なら)う」と評された、軍事技術の専門家の憶礼福留(おくらいふくる)と四比福夫(しひふくぶ)である。また、大野城・基肄城とともに長門国にも亡命百済人が城を建設しているが、城の名称は記載されず、所在地も不明である[21]。そして、『続日本紀』の698年(文武天皇2年)には、 大野城・基肄城・鞠智城の三城の修復記事が記載されている。
天智政権は白村江の敗戦以降、唐・高句麗・新羅の交戦に加担せず、友好外交に徹しながら、対馬~九州の北部~瀬戸内海~畿内と連携する防衛体制を整える。また、大宰府都城の外郭は、険しい連山の地形と、それに連なる大野城・基肄城と平野部の水城大堤・小水城などで防備を固める。この原型は、百済泗沘都城にあるとされている[22]。
大野城が所在する「山」の名は、『万葉集』や『風土記』逸文は、「大野山」や「大城山」と記述する[23]。
『日本書紀』に記載された白村江の戦いと、防御施設の設置記事は下記の通り。
- 天智天皇2年(663年):白村江の戦いで、倭(日本)・百済復興軍は、朝鮮半島で唐・新羅連合軍に大敗した。
- 天智天皇3年(664年):対馬島・壱岐島・筑紫国などに防人と烽(とぶひ)を配備し、筑紫国に水城を築く。
- 天智天皇4年(665年):長門国に城を築き、筑紫国に大野城と基肄城を築く。
- 天智天皇6年(667年):大和國に高安城・讃岐国に屋嶋城・対馬国に金田城を築く。この年、中大兄皇子は大津に遷都し、翌年の正月に天智天皇となる。
その他
- 大野城跡の史跡指定面積の8割は宇美町(うみまち)に属し、百間石垣や増長天礎石群などの遺構が所在する[24]。増長天礎石群は内周土塁に沿った四棟の礎石建物跡で、見学者が多いため、「イラスト復元の説明板」への変更が検討されている[25]。
- 平成25年~27年の三か年にわたり、「水城・大野城・基肄城 1350年記念事業」が企画され、関連自治体に加え、官民も連携した各種の記念事業が展開された[26]。
- 聖地としての「四王寺山」の名称は、宝亀5年(774年)の外敵駆逐を祈願する護国の寺、四王寺(四天王寺・四王院)の建立に起因する。その後、伽藍は現在の毘沙門堂に変遷する。また、十二世紀には多くの経塚が造営され、十八世紀末には山内の要所に三十三観音の石像が安置され、現在に至る。
現地情報
- 城域は、「福岡県立四王寺県民の森」として遊歩道が整備され、「県民の森センター」に駐車場(150台)や休憩所などがある。
- 西鉄太宰府線太宰府駅から「県民の森センター」まで車で約15分、徒歩約50分。
- JR九州(九州旅客鉄道)香椎線宇美駅から「県民の森センター」まで車で約15分。
- 九州自動車道太宰府インターチェンジから約6km。
参考文献
- 文化庁文化財部 監修 『月刊 文化財』 631号(古代山城の世界)、第一法規、2016年。
- 小田富士雄 編 『季刊 考古学』 136号(西日本の「天智紀」山城)、雄山閣、2016年。
- 九州歴史資料館 編集/発行 『特別史跡 大野城跡』(大宰府史跡ガイドブック 2)、2015年。
- 都府楼編集委員会 『都府楼』 47号(大野城・基肄城 築造1350年記念)、古都大宰府保存協会、2015年。
- 西谷正 編 『東アジア考古学辞典』、東京堂出版、2007年、ISBN 978-4-490-10712-8。
- 小島憲之 他 項注・訳 『日本書紀 ③』、小学館、1998年、ISBN 4-09-658004-X。
- 齋藤慎一・向井一雄 著 『日本城郭史』、吉川弘文館、2016年、ISBN 978-4-642-08303-4。
- 向井一雄 著 『よみがえる古代山城』、吉川弘文館、2017年、ISBN 978-4-642-05840-7。
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大野城の口コミ情報
2024年04月01日 HAL2000壱岐守
大野城
日本古代のとても大きな山城。しかも山頂は窪んでおり、しかもその中にある主郭となるエリアはまた小高くなっている、という複雑な地形に造られています。遠くから見ても大きな山であることがわかるくらいですが、歩いて登ることもできます。いくつも登山道があるので、トレッキングにはもってこいです。ただし幾つかの登山道は、整備が行き届いておらず、迷ったりもするので、時間とコース設定には余裕を持つようにするといいと思います。下山時に、水城まで歩いてみましたが、山の尾根筋が水城までずっと続いており、防衛機能にとても特化していることがわかりました。中大兄皇子(当時)が白村江の戦いの敗戦によって、反撃をいかに恐れたのかが伝わってくるようでした。
2024年01月22日 【配龍】りん
大石垣[大野城 遺構・復元物]
四王寺焼米ヶ原駐車場から徒歩20分くらいで到着しました。こちらの大石垣も2003年の豪雨災害により壊滅的な被害を受けたようです。
すれ違った地元の方のお話によると、修復のための発掘調査過程で山からの水を逃がすための構造が確認できたということでした。
また、残された石は当時のものばかりではなく、修理などが繰り返された痕跡があるとのことでした。
2022年09月27日 マグロ常陸介祐平
百間石垣[大野城 遺構・復元物]
1300年前に作られた100mを超える石垣が残っていて感動しました。
2022年07月09日 虹雷 大宰大弐 サンダー
駐車スペース(2台程度)[大野城 駐車場]
百間石垣のすぐ下に2台ほど駐車できるスペースがあります。正規の駐車場ではありませんが、短時間の見学であれば迷惑にならないように駐車させていただいてもいいかと思います。
2022年07月09日 虹雷 大宰大弐 サンダー
主城原礎石群、北石垣・小石垣案内板[大野城 碑・説明板]
左手に少し下方に主城原礎石群、右手は小石垣から北石垣方面。
2022年07月09日 虹雷 大宰大弐 サンダー
主城原方面案内板[大野城 碑・説明板]
少し分かりにくいですが、大通り沿いに主城原方面入り口の案内看板があります。集落の間の町を抜けて、坂道を登るとゆっくり歩いて20分から30分で到着します。
2022年02月13日 織田上総介晃司
大野城
四王寺県民の森は9:00オープンなので朝駆けでは停める事ができない。また大野城が東京ドーム40個分という広大な城なので今回は焼米ケ原駐車場に停めて太宰府口城門。車で進み、百間石垣を見学。
大野城の規模からすればほんの一部ですが見どころのある場所は見れたのではないかと…
2021年05月31日 眞田左衛門佐十兵衛
大野城
大野城(日本100名城No.86)
白村江の戦い(663年)の後、唐・新羅からの侵攻に備えて西日本各地に築かれた山城の1つで、北西の水城、南方や基肄城とともに太宰府政庁を中心とした防衛ラインを形成。
この山城は百済の亡命高官2名による戦略的・技術的指導のもと築城されたことが日本書紀に記されている。
一般的に朝鮮式山城と呼ばれている。
山頂と山腹に土塁が、谷間には石垣が構築されており、城内への入り口が5ヶ所と食料の備蓄や居住に利用されたと考えられる70棟余りの建物が丘陵を造成した平坦面に残されている。
北石垣や小石垣、百間石垣、大石垣などが残されている。
礎石群も点在している。
焼米ヶ原駐車場からぐるっと尾根に沿って約8キロの土塁の上を歩けるようになっている。
すぐ近くの岩屋城とセットで一日中史跡を楽しめる。
2020年09月22日 徳にぃ図書頭銀座のすずめ
大野城
百間石垣を見て、北石垣(小石垣)を経由して主城原を目指すのは体力に自信のない方にはお勧め出来ません(急峻な登りです)。主城原へ行くなら県民の森センターに駐車して林道四王寺線を右側(岩屋城方面)に歩いて直ぐ、住宅地へ左折すると楽に行けます。
2018年11月23日 はぎじろう
大野城
[2018/11 ]太宰府側からの道は今年9月の大雨で土砂崩れし封鎖との事。北側からのルートで登城しました。
2017年05月08日 小早川安芸守ケンケン
大野城
百名城スタンプを、している人は要注意!5時前には、スタンプを撤去してます。その場合は太宰府市役所で捺印するしかありません。大宰府天満宮近くにあります。
2016年08月14日 シバヤン左兵衛督肝胆相照
大野城
遠く白村江の戦いにて唐•新羅の連合軍に敗れた日本が本土防衛の為に、築城とのこと。
岩屋城の水の手口から周囲約8㎞に及ぶ気の遠くなる規模です。対馬海峡を越えて攻めてくるとよんだのでしょう。
朝鮮式山城との事ですが、大宰府口城門周りや城門復元図を見るに当時の最先端技術者、多分、百済の土木技術者の方が関わってるのでしょう。
日本版の万里の長城やと考えたほうが分かりやすいと思います。
時代を経て戦国時代にこの城塞群を再利用した一つが岩屋城なのかなと思います。ここの城の大石を運んできて島津軍に投げつけて武器に利用されたようです。
岩屋城本丸、二の丸の山道に、よく似た石があちこちに見かけました。
7月14日から始まって10日目城兵の疲労度は限界にきて死傷者が増え矢弾がつき、これらの大石•小石を武器にしたんでしょう。水の手口守備の立花からの増援、吉田左京以下20名が守るこの地も27日に全滅玉砕。この日夕方、本丸も紹運以下全滅玉砕。
重い、辛い話に胸が詰まりました(つд`)
2016年01月26日 まるき〜陸中守
大野城
東京ドーム約40個分の縄張りがあるそうで…
想像するだけでΣ(゚д゚lll)
100名城スタンプは太宰府展示館内でも押す事ができました
簡単な資料の販売もしています
ここからはるか向こうに見える山一帯が大野城の縄張りという事らしく探索するには相当時間が掛かりそうです。
太宰府展示館
時間 9:00〜16:30
月曜日休館 駐車場は無料
2015年12月29日 右近衛大将緑奥
大野城
年末年始に日本100名城である大野城跡へ行かれる皆さまへ。期間中、普段100名城スタンプが置かれている場所はお休みですが、安心して下さい。大宰府駅前にある太宰府市観光案内所にスタンプが設置されています。(2015年12月現在)
2015年05月11日 コロ助
大野城
太宰府駅にレンタサイクルがあります(1日\500 電動アシストは\800)。
普通の自転車を借りたのですが、思っていた以上に自分の体力が落ちていて坂が登れず、殆ど自転車を押しながら坂を歩きました。電動アシストを借りなかった判断ミスと日頃の不摂生をひたすら反省しながら歩いて、1時間10分程で到着。
100名城スタンプの置いてある県民の森管理事務所に、散策マップがあります。マップの史跡巡りコースの所要時間は2時間になっていましたが、百間石垣・北石垣・小石垣・主城原礎石群・増長天礎石群・大石垣・太宰府口城門をのんびり巡ったら3時間半。とにかく広いです。
宇美口門跡〜北石垣〜北石垣城門跡の辺りは足場が悪いです。城域内、圏外が多かったです。太宰府口城門と、そこに繋がる水ノ手石垣と土塁が特に素敵でした。
新緑が気持ち良く、トレッキングをされている方が多かったです。帰路は下り坂なので、太宰府駅まで15分で到着しました。
2014年01月07日 むじんと大膳大夫監督
大野城
100名城の1つですが、スタンプの印鑑が薄いので注意してください。
大野城の周辺スポット情報
百間石垣(遺構・復元物)
主城原礎石群(遺構・復元物)
北石垣(遺構・復元物)
大石垣(遺構・復元物)
太宰府口城門跡(遺構・復元物)
水ノ手口石垣(遺構・復元物)
小石垣(遺構・復元物)
百間石垣(遺構・復元物)
増長天礎石群(遺構・復元物)
主城原方面案内板(碑・説明板)
主城原礎石群、北石垣・小石垣案内板(碑・説明板)
主城原礎石群登山口(碑・説明板)
北石垣登山口(碑・説明板)
大野城市総合体育館(スタンプ)
四王寺県民の森管理事務所(スタンプ)
太宰府市文化ふれあい館(スタンプ)
太宰府展示館(スタンプ)
駐車場(駐車場)
駐車場(駐車場)
駐車スペース(2台程度)(駐車場)