岩門城(いわとじょう)

岩門城の基本情報

通称・別名

岩戸城、龍神山城、安徳城

所在地

福岡県那珂川市安徳字城山

旧国名

筑前国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

大蔵種光

築城年

長保元年(999)

主な改修者

主な城主

原田(大蔵)氏、少弐景資、大友氏、大内氏、志賀道輝(大友氏家臣)、筑紫氏

廃城年

天正15年(1587)

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

再建造物

説明板

周辺の城

一ノ岳城(福岡県那珂川市)[5.6km]
水城(福岡県太宰府市)[6.8km]
古野城(福岡県福岡市)[7.4km]
荒平城(福岡県福岡市)[7.7km]
大宰府(福岡県太宰府市)[8.5km]
基肄城(佐賀県三養基郡)[8.9km]
岩屋城(福岡県太宰府市)[9.4km]
稲居塚城(福岡県福岡市)[10.0km]
勝尾城筑紫氏城館(佐賀県鳥栖市)[10.2km]
大野城(福岡県大野城市)[10.3km]

岩門城の解説文



岩門城(いわとじょう)は、福岡県那珂川市山田にあった日本の城。

概要 

岩門城は標高195mの城山山頂に築かれており、現在は登山道が整備されている。城山は眺望が良くて、天気の良い日は玄界灘を見渡せる。岩門城は福岡県那珂川市にあるが、脊振山の山中を越えると佐賀県に出る。また、岩門城は筑前の博多と大宰府の中間にあるため、戦略上の要所にある城である。

沿革 

延久5年(1073年)[1]に、岩門城は原田種直の曾祖父である原田種資が移住して、以後大蔵氏流原田氏の本拠地とした。

寿永2年(1183年)に、木曽義仲に敗れて安徳天皇と平氏一門が九州へ逃れた際に、平家の家臣である原田種直[2](妻は平重盛の養女)は兵二千で守護して、居城岩門城に招いた。その近くに、安徳台と呼ばれる安徳天皇が仮の御所[3]を置いたと逸話[4]が残っている。元暦2年(1185年)、平氏が壇ノ浦の戦いで滅亡したため、原田氏は平家没官領として領地(3700町歩)[5]を没収された。

鎌倉幕府は太宰少弐に任じた武藤資頼に原田種直の3700町を全て拝領して、岩門城も支配したと思われる。以降、代々の武藤氏は太宰少弐職を世襲して少弐氏と名乗った。また、少弐氏は代々筑前守護を兼任している。

元寇の際は岩門城は、博多と大宰府の中間で守りの重要拠点となった。岩門城主の少弐景資が鎮西の御家人の総司令官として元軍と戦っている。弘安8年(1285年)、少弐氏は霜月騒動に巻き込まれ、少弐景資は岩門城で兄の少弐経資と戦い、破れて自刃する(岩門合戦)。

室町時代に入り、足利一門の渋川満頼が九州探題兼肥前守護になった以降、岩門城は渋川氏の城となった。肥前守護である渋川氏の肥前の拠点は綾部城(現・佐賀県みやき町)で、筑前守護で大宰府に拠点のある少弐氏と戦っている。長享元年(1487年)、渋川万寿丸は少弐政資に綾部城を攻められて、岩門城の近くの亀尾城[6]にて家臣、足助、森戸に殺されている。明応5年(1496年)、少弐政資は岩門城を支配した。渋川氏は中国地方の大内氏を頼り、翌年には大内氏が岩門城を奪還している。それ以降は、大内氏の家臣が那珂郡代を設けて城督を務めている。

大内氏の滅亡後は、大友氏が支配したが筑前を狙った毛利氏と岩門城をめぐって戦っている。大友氏が耳川の戦いで衰退した1580年頃には、筑紫氏が岩門城を支配している。豊臣秀吉の九州征伐時期に廃城になった。

参考文献 

  • 平井聖・村井益男・村田修三(編)『日本城郭大系 第18巻 福岡・熊本・鹿児島』、創史社、1979年
  • 渡辺文吉『武藤少弐興亡史』 海鳥社、1989年

岩門城の口コミ情報

2024年05月04日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
原田種直館[岩門城  周辺城郭]



福岡県の那珂川市の山田にある【原田種直館、安徳台遺跡】♪安徳台遺跡は福岡平野の1番奥程に立地し周辺を那珂川と裂田の溝、更には山々に囲まれています♪南側には弥生時代の裂田の溝が東西に流れ標高60mほどの高台になっています♪
古代より軍事基地としての要件を満たした、安徳台は平安時代末期、源氏に追われた平氏が寿永2年 1183年に安徳天皇と三種の神器と共に筑紫国の当地まで都落ちをしてきたと伝わります☆
落ち延びた安徳天皇はこの場所を仮りの御所としようとしました♪が…寿永4年(1185年)最期の決戦である壇ノ浦の戦いで平家と源氏が激突しました☆安徳天皇は壇ノ浦で入水しています…。。

この『安徳』の地名は第81代目・安徳天皇に因んで付けられたとされています♪
安徳天皇は、時の太宰少弐の官位であった大蔵種直の館が安徳台にあった為に当地に滞在したと伝わります♪今も安徳台には安徳天皇を祀る小さな祠が残ります♪

結果的に安徳天皇の死により原田種直は平家追討で領地を没収され幽閉されますが、後に許され鎌倉御家人となり筑前国怡土庄に所領を与えられ、高祖山城主・原田氏の祖となっています♪

眼下の東の麓には神功皇后が363年に那珂川から水を引いて切り開き人工的に造った用水路『裂田の溝』が流れ、守護神の裂田神社には神功皇后が祀られています♪
地盤は花崗岩からなり堅い岩盤で出来ていて掘削作業は難航したと云われています☆
西側を流れる那珂川は勿論の事、安徳台の東側を流れる【裂田の溝】も所謂、台地を守る堀として機能した事でしょう

2024年05月03日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
少弐景資墓所(伝)[岩門城  碑・説明板]



福岡県那珂川市の山田にある【少弐景資墓所 】♪岩門城の西側の麓に少弐景資墓所は残ります♪南側の墓所の背後は九千部山系の山々が標高を上げながら連なります♪

岩門城の歴史は入れ替わり立ち替わり多くの武将が城主を務めた城郭でもあります♪時代の流れと共に…原田(大蔵)氏、少弐景資氏、渋川氏、大友氏、大内氏、志賀道輝(大友氏家臣)氏、筑紫氏などが城主となっています♪このエリアは筑前博多と大宰府の中間にある為、戦略上の要衝にあたる重要な場所なのであります♪

元々は大蔵氏の流れを汲み込む原田氏の領有する地ではありましたが、元暦2年(1185年)平氏が壇ノ浦の戦いで滅亡した事により、原田氏は平家没官領として領地(3700町歩)を没収されています☆
鎌倉幕府は武藤資頼を太宰少弐に任じ、筑前、筑後一円に広がる大蔵氏流原田種直の3700町を全て与えました♪コレにより、そして武藤氏がこのエリアも支配したと考えられています♪以降、代々の武藤氏は太宰少弐職を世襲して、少弐氏と名乗る事となります♪少弐氏は北部九州の名族として発展していきました♪

この少弐景資は岩門城主として元寇襲来の際には鎮西の御家人の総司令官として、元軍との戦闘を行いました☆

名実ともに勢力を奮った景資ですが、弘安8年(1285年)鎌倉幕府の政変・霜月騒動に巻き込まれてしまいます。。
霜月騒動とは元寇後の論功問題等への対応の為、北条氏と有力御家人との間に起こった鎌倉幕府、最後の抗争です☆
この幕府内で起こった抗争ですが、関東、九州を中心に拡大していき幕府を二分化していった内乱です☆コレに巻き込まれて、少弐景資は岩門城で兄の少弐経資と戦い、破れて自刃しています☆これが岩門合戦です☆
岩門城の西側には、岩門合戦で実兄に敗れた、少弐景資墓所の五輪塔がヒッソリと残ります☆
今の時代では考え難い親族同士での武力での抗争☆生き残りを賭けた激しい戦闘は実兄である少弐経資に軍配が上がっています…☆

2024年05月02日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
裂田の溝[岩門城  遺構・復元物]



福岡県の那珂川市の山田にある【裂田の溝】♪今日は城郭では無くて、日本最古の農業用水路です♪

岩門城と安徳台遺跡の間を走る古代の用水路は延長5.5キロと長く伸びます♪
古来より東アジアとの交流拠点であった博多、太宰府を中心とした、筑前は古代日本の西の都といっても過言ではありません♪

養老4年(720年)に成立した『日本書紀』の神功皇后紀に記されている人工用水路で、岩門城と安徳台を見事に貫いた一大土木事業です♪神功皇后は363年に那珂川から水を引いて切り開き人工的な用水路『裂田の溝』を造ったと伝わります♪
この辺りの地盤は花崗岩からなり堅い岩盤で出来ていて掘削作業は難航したと云われています♪

『新羅征討』に記された伝承では『神功皇后が西の方を自ら討とうとして、神祇を祭祀しようとした。そして神への御供えのための田(神田)をつくろうとし、その神田に水を引く為に那珂川から溝を掘らせたが、迹驚岡(現在の安徳台です。)まで溝を掘ったところ、大磐がふさがって溝を通すことができなかった。皇后は武内宿禰を召して、剣と鏡を捧げて神に祈らせたところ、雷が激しくなり、その大磐を蹴り裂き、溝を通させた。そのため人々はその溝を裂田溝と呼んだ』とあります♪ファンタジーの世界ですねw

現在は横に道路が出来、住宅地が出来たりと往時と変わっている部分はあるものの、その流れは止まる事無く、よく残っています♪

2022年04月28日 大内周防守毛利
猫嶺城[岩門城  周辺城郭]



猫嶺城(ねことうげじょう)と読みます。猫城、猫尾ノ城とも呼ばれます。筑前大友五城の一つ、鷲ヶ岳城の麓の川を挟んだところにあり、博多から佐賀平野を往来する交通の要衝にあります。大内氏重臣の陶興房(陶道麒、陶晴賢の父)が肥前国神埼郡に侵攻する際に利用したかもしれません。後に猫嶺城は筑紫氏の番城として利用されています。この際は筑紫氏の博多侵攻の足がかりに利用されたかもしれません。

猫嶺城の立地は矢岳の尾根の先端に立地しており、那珂川に突出するようにして三方を川に囲まれています。

縄張りとしては主郭と南北に土塁に囲まれた腰曲輪が設けられています。北にある腰曲輪の北側の尾根伝いには堀切が2条掘られ、その北側は道路が通っているため堀切がそこにもあったかどうかは知ることができません。主郭の周りにも低い土塁が巡っているようにも見られます。主郭の南側は少し高まりがありますが、後述する採取した土器から古墳の高まりとも考えられます。

登城路は主郭の下を沿うようにつくられ、常に主郭からの攻撃にさらされることになります。

※採取した土器について。訳あって福岡市の埋蔵文化財センターの職員に見せてもらったところ七世紀末の須恵器の坏蓋であることが判明しました。須恵器は登城路の途中にあり、主郭(尾根の先端の上)から流れてきたものだと推測されます。したがって、猫嶺城がつくられる以前に古代に古墳が存在した可能性があります。私が土器を採取する以前にもこの場所では土器がよく採取されたようですが、どのような種類か記されていませんでした。

写真
①須恵器の断面
②須恵器の外側表面
③須恵器(上から)
④堀切に向かう道と主郭切岸
⑤主郭側の堀切
⑥主郭と土塁
⑦虎口
⑧登城路と主郭切岸

2022年04月07日 大内周防守毛利
老林城[岩門城  周辺城郭]



老林城(おとなばやしじょう)と読みます。亀ノ尾城の出城とされます。

老林城の主郭は弓形の形をしており、北側から攻める敵を挟み撃ちする形になります。主郭の周りには土塁がめぐっています。主郭の南側には堀切が多数存在しますが、今現在、藪化や山の斜面が砂になっていることから降りて確認するにはかなり大変です。主郭の北東側には腰曲輪が存在しますが、小さい木々が茂っていることから確認不可能です。

主郭の西側には多数の堀切が確認できます。特に主郭側の堀切はかなり深く、そこからの主郭への立ち上がりもかなり急です。堀切から北西に進むと土塁を伴った曲輪、帯曲輪があり、またさらに進むとまた土塁を伴った曲輪が存在します。

【アクセス】
ネットで行き方があがっていますが、団地の南西にあるガス施設から登るルートは完全に木や藪が茂っており通れない状態です(帰りに通って強行突破したもののダニを持ち帰ってしまいました)。

ヤマップに掲示してあるように団地の西側の五叉路を南西に行ったところの分かれ道を山のほうに行くと城に行くことができます。ただ完全に私有地内を通っていく形になります。

残っている遺構の割に行くのに苦労することや私有地内を通過することから気軽に行けるようなお城ではありません。

【写真】
 ①竪堀
 ②二重堀切
 ③堀切群の西端の堀切と土橋
 ④堀切と土橋
 ⑤主郭西の大堀切
 ⑥主郭の土塁と切岸
 ⑦主郭(幅が狭い)と両サイドの土塁
 ⑧南側の帯曲輪

2022年04月04日 大内周防守毛利
鷲ヶ岳城[岩門城  周辺城郭]



鷲ヶ岳城(わしがたけじょう)は大友筑前五城(立花山城、宝満山城、荒平城、柑子岳城)の一つ。永禄3(1560)年に大友方による筑紫秋月方攻略時に築城されたとされ、天正9(1581)年に筑紫広門によって落城したとされます。大鶴宗雲(宗周)が居城したとされる。

城郭はI〜Ⅲ区から構成されていますが、今回は時間の都合上Ⅰ、Ⅱ区の主要部分しか巡ることが出来ませんでしたが、とても素晴らしい城郭でした。

Ⅱ区は土塁によって登城路を制限したり、また曲輪の下に登城路を通すなどして敵兵が進まないようにしています。Ⅱ区の中心部には尾根の頂部に切岸を備えた見張り台を兼ねた曲輪があります。そのほか南側には連続した堀切があるそうです(雑木で進めず、写真撮れず)。

Ⅰ区には西側に大堀切を構えています。またⅡ区では土の構造物がメインでしたが、I区では石垣を見ることができます。中でも主郭の石垣は綺麗に整えられています。なお主郭は雑木まみれです。一部展望が開ており、荒平山や立花山、宗像四山、宮地嶽を見ることができます。

またI区とII区の間には土塁のついた土橋が設けられ、さらにその西側の竪堀からスロープを通って土橋に入ることができ、立花山城のイバノヲ・大タヲ地区を関連させられます。
詳細は「福岡県の中近世城館跡II」に載ってますので参考にしてください。

【注意】南面利(なめり)集落を過ぎて林道に入るとネットが繋がらなくなります。GPSは大丈夫でした。事前に地図やヤマップなどを使って道を頭に入れておきましょう。

足場がたくさんの落ち葉や真砂土なので大変滑りやすいので登山の服装で挑みましょう。

夏場はダニや蜂の巣窟になりそうなので注意しましょう。

写真
 ①土塁により曲げられる土橋
 ②II区の虎口
 ③I区とII区の間の土橋と土塁
 ④II区の下の登城路と切岸(かなり滑ります)
 ⑤I区の石垣
 ⑥I区とII区の間のスロープと土塁、土橋
 ⑦主郭の石垣
 ⑧主郭からの風景

2022年04月03日 大内周防守毛利
新城山城[岩門城  周辺城郭]



筑紫氏の持ち城「隈本ノ城」に推測されます。

丘陵の先端部分に城郭が築かれており、土塁や横堀、竪堀が巧みに使われています。現在でもかなり遺構が残っています。主郭部分には古墳がありますが、石室は崩落しています。「福岡県の中近世城館跡Ⅱ」では南の堀切までを城の範囲としていますが、その南側の尾根には綺麗に平坦にされており、また堀切の南側にも土塁状の盛り土があることからその範囲まで城域が及んでいた可能性があります。尾根を横切るように道路が通っているところが城の南端の堀切跡と推測されます。

2019年05月31日 笑門来猫
岩門城



九州の御家人を率いて元寇を打ち破った日本の大将軍、少弐景資の居城。しかし家督争いで実兄に攻められ落城。本丸側から堀切を見下ろす。

2018年05月25日 徳にぃ図書頭銀座のすずめ
岩門城

行かれるなら
那珂川町の火葬場「華石苑」を目指してください。
縁起は悪いかも。ですが綺麗な建物です。

南から行かれる方はそこを通り過ぎてから(城跡入り口を過ぎて直ぐ)、北から行かれる方はそこの手前の坂の途中に駐車場があります(トイレはありません)。

北の曲輪まで行けば那珂川町、福岡市が一望できます。
ただ、枯れ葉などで歩きにくいですから雨や雨の後は滑ります。ご注意下さい。


2015年03月29日 水瀬筑後守名雪
岩門城

1183年、源義仲の入京に伴って、当時わずか5歳の安徳天皇は、平家一門に連れられて、大宰府を経由し屋島へと赴く、とある。この大宰府を経由した時に、わずか2~3ヶ月の間だが滞在したのが、今の福岡県筑紫郡那珂川町安徳台に当たる地と思われる。ここでは、原田種直が安徳天皇を御所ヶ原と呼ばれる地で迎え、御所ヶ原を見下ろす岩門城から、源氏の追っ手に対する警護を行った、との一説がある。この岩門城は、その後の元寇でも警備の拠点として用いられた地でもある。

今日、とても貴重な情報を色々と教えて頂いた地元の方に大変感謝致します。

2014年03月08日 筑前守とんかつ
岩門城

岩門城趾は標高195.4mの城山にある。

駐車場あり。上梶原側からアクセスする場合は、県道56号線那珂川南中を過ぎた辺りから左手に入り、1.5km程で左手下に駐車場がある。

登山口は駐車場から少し登った右手にある。遊歩道になっている。

城山までは基本登山になるが、地元那珂川町が協賛して遊歩道を作っており、特に登山の装備がなくても歩ける程度にはなっている。

登山口から頂上までは徒歩約10分。途中、三の曲輪、二の曲輪を経て、本郭へと繋がっている。更にその先には北の曲輪があり、そこは展望スペースとなっている。そこからは福岡市、春日市が一望出来る。天気が良い日には、博多湾や、立花山も見えると言う。

岩門城の周辺スポット情報

 裂田の溝(遺構・復元物)

 少弐景資墓所(伝)(碑・説明板)

 新城山城(周辺城郭)

 猫嶺城(周辺城郭)

 鷲ヶ岳城(周辺城郭)

 老林城(周辺城郭)

 原田種直館(周辺城郭)

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