岩切山城
岩切山城([古処山城 周辺城郭])
古処山城 に投稿された周辺スポット(カテゴリー:周辺城郭)、「岩切山城」の地図・口コミがご覧頂けます。
※「ニッポン城めぐり」アプリでは、スタンプラリースポットとなっている3,000城それぞれの地図に、周辺城郭や史跡など、様々な関連スポットを自由に追加できます。
岩切山城の口コミ情報
2025年04月26日 龍馬備中守【】
福岡県甘木市の三奈木にある【岩切山城】♪古くは美奈木・美嚢・蜷城とも書かれている、三奈木です♪筑後川支流の佐田川中流域に立地します♪地名の由来は神功皇后が熊襲を討った時、ここに、十万石の蜷をもって高十丈の城を築いた事に因むという伝説があります。(続風土記拾遺)
字田中原に縄文早期~晩期の田中原遺跡、字久保鳥に弥生中期の甕棺墓群、ヤツエには前方後円墳のヤツエ塚古墳があります♪清岩寺の背後の山に、この岩切山城があり、山の前に人埋塚があります♪
美嚢郷は平安期に見える郷名です♪『和名抄』には筑前国下座郡七郷の1つとなっています♪
中世には三奈木荘として、鎌倉期~室町期には荘園化し、機能しています♪中世も引き続き下座郡の内となっていて、立荘の時期や経緯などを直接示す史料は見られませんが『和名抄』に見える美嚢郷を中心にして、形成されていった荘園なのでしょうね♪
鎌倉期初頭には平氏没官領、ついで関東御領になっていた可能性も指摘されていますが、定かではありません。建長2年に前摂政・九条道家がその家領などを処分した際、三奈木荘も東福寺(京都府)領として、それに含まれていますが、家領となった時期や経緯などは知られていません。
正応元年(1288年)に弘安4年(1281年)の蒙古合戦に対する第2回目の勲功賞配分が行われ、三奈木荘の地頭・預所両職も豊後の志賀泰朝、薩摩の武光、国分寺等の各氏、肥前の深堀氏など各地の御家人に配分されています。中でも志賀泰朝には『下庄木部郷』などが割り当てられていて、荘園は上・下両荘に分けられていた様です。その後、志賀氏はこの勲功地を伝領し、南北朝末期までそれを辿ることができますが、以後は明らかではありません。一方、観応3年(1352年)安楽寺領注進状案には、安楽寺(現太宰府天満宮)も三奈木郷内に『長日十一面供䉼所』と称する所領を有しているとありますが、三奈木荘との関係は明らかではありません。
正平18年(1363年)征西将軍懐良親王が五条頼元に、蒙古合戦勲功賞配分地の当知行分を除く三奈木荘を賞賜しています。
応永9年(1402年)沙弥正言譲状案によると、長野入道正言は、その子息に『三奈木拾町之内参分壱』を譲与していますが、その後の状況をうかがわせる史料がない為、室町期から戦国期にかけては、古処山城を本拠地とした秋月氏の支配下にあった事が考えられます。
日本城郭大系では、秋月氏の支城で山下氏の城郭と記載はありました。
主郭は最高所で、中央に円墳と思われるマウンドがあります♪南背後を堀切で遮断しています。清岩寺側も城域と考えられます♪壇状の郭に見えてきます♪