益富城(ますとみじょう)
益富城の基本情報
通称・別名
- 大隈城
所在地
- 福岡県嘉麻市中益
旧国名
- 筑前国
分類・構造
- 山城
天守構造
- 不明
築城主
- 大内盛見
築城年
- 永享年間(1429〜1441)
主な改修者
- 秋月種実、後藤基次
主な城主
- 大内氏、杉氏、秋月氏、早川氏、後藤氏、母里氏
廃城年
- 元和元年(1615)
遺構
- 曲輪、移築搦手門、石垣、土塁、横堀
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
古処山城(福岡県朝倉市)[7.4km]
秋月城(福岡県朝倉市)[10.4km]
松尾城(福岡県朝倉郡)[10.9km]
岩石城(福岡県田川郡)[11.7km]
高野山城(福岡県飯塚市)[12.6km]
鹿毛馬神籠石(福岡県飯塚市)[14.6km]
宝満城(福岡県太宰府市)[16.9km]
香春岳城(福岡県田川郡)[17.4km]
阿志岐山城(福岡県筑紫野市)[18.0km]
有智山城(福岡県太宰府市)[18.0km]
益富城の解説文
[引用元:Wikipedia「益富城」の項目]
益富城(ますとみじょう)は、福岡県嘉麻市中益にあった日本の城。
歴史
永享年代、九州征伐の際に大内盛見が築城したといわれている。その後は日田街道と長崎街道を結ぶ町交通の要衝である大隈に築城された当城は争奪戦の的となり、永禄期(1560年頃)には毛利元就が領有し、城番に杉忠重を置いた。戦国時代末期には、古処山城を本拠とする秋月氏の支城の一つとなった。
安土桃山時代、豊臣秀吉による九州の役(天正14年(1586年)- 天正15年(1587年))で秋月氏が敗れた後は早川長政が城番となったが、早川氏は関ヶ原の戦いで西軍についたため、領地を召し上げられた。その後は関ヶ原の戦いの功績により筑前国一国を与えられた黒田氏が筑前六端城(ちくぜんろくはじろ)の一つとして位置づけ、家臣を居城させた。一時後藤基次が城主を務めたが、慶長11年(1606年)に基次が出奔した後、六端城の一つであった筑前国鷹取城より母里太兵衛が移されたが、 元和元年(1615年)に発布された一国一城令により、他の六端城とともに廃城とされた。
エピソード
豊臣軍が九州征伐で秋月氏が守る岩石城をわずか1日で陥落させたことにより、秋月氏は当城を破却して本拠の古処山城へ退却した。が、翌日の夜、古処山城から見下ろした大隈は火の海であった。そのうえ夜が明けると益富城は見事に修復されていた(一夜城ともいう。岐阜県の美濃攻めの一夜城とは違う)。実際は火の海にもなっておらず、村人が一斉に篝火を焚かせたものであり、城も村人の障子などを貼ったものであった。さらに、益富城に十分な水が溜まっているように見せかけるために白米を滝の如く流させたという話が残っている。(流した跡も残っている)
これに騙された秋月氏は戦意喪失し、降伏した。なお、この作戦に協力した村人に豊臣秀吉は陣羽織を与え、永世貢税を免除した。(華文刺縫陣羽織・昭和35年(1960年)に国の重要文化財指定、上町区・五日町区・三日町区が所有。保管は嘉麻市嘉穂庁舎)
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益富城の口コミ情報
2025年03月09日 龍馬備中守【】
竹生島城[益富城 周辺城郭]
福岡県嘉麻市の西郷にある【竹生島城】♪
城郭の場所は現在は竹生島神社のある、独立丘陵地となっています♪嘉麻は場所柄、古代より九州交通の要衝地(秋月街道と日田街道が交差する場所)となっていて、歴史的にも多くの出来事が起こっている場所でもあります♪
今でこそ嘉麻市になっていますが、この場所は古くは碓井と言う地名で、平安時代の辞書『和名紗』には、既に筑前碓井郷として、その名があります♪和銅4年(711年)頃より、碓井郷は観世音寺に寄進され『封戸郷』と呼ばれ、徐々に荘園化されていったと考えられています♪
当地、西郷内には、条里を示す字名として、
西郷付近に一坪・二坪・三坪、下臼井付近に三十六などの地名が残り、碓井封戸は荘園化していたことが分かります♪また碓井封戸に接する荘園として、桂川町土師には永観2年(984年)頃から安楽寺領となった土師荘があり、八王寺を境にしてしばしば、紛争が起こっています♪
保安元年(1120年)以前に観世音寺は奈良の東大寺の末寺となり、年貢米も奈良の東大寺に送られる事になっています♪この年貢米ですが、碓井から船で遠賀川を下り、河口まで運送されたものと考えられています♪暦応4年(1341年)に碓井封戸の梶取乙王丸が東大寺に提出した碓井年貢米に関する起請文には、年貢米船が、瀬戸内海の舞洲沖で海賊と交戦した苦労が記されています。
まぁまぁ〜♪碓井封戸近辺は、寺院が大きな力を持っていたという訳なのです♪
鎌倉期の碓井封戸についてですが、寛喜3年(1231年)、東大寺衆徒が末寺観世音寺や碓井封戸以下の寺領を請うた文書に、地頭が年貢運上を妨げたり、土民が年貢を出す事に抵抗した記録があります。いつの時代も、税金は嫌でありますwかくして碓井封戸でも地頭の荘園領地化が進み、農民も消極的な抵抗を行ってはいます。東大寺にとって、碓井封戸の年貢は、重要な収入源でありました。不思議なのが、鎌倉期以降は武士の荘園侵略が強くなるタイミングでありますが、碓井封戸に関しては、まだまだ、寺領が幅を利かせた時代なのでありました。
南北朝期の争乱に入ると、碓井封戸は、暦応4年の梶取乙王丸の起請文を最後に、東大寺文書や他の文書から全く見られなくなる事から、これ以後は碓井封戸が東大寺の支配から独立したと思われます。やっとこさ、武家の社会が華開いていきました♪
文明10年(1478年)碓井駿河守資重が周防・大内政弘から早良郷の領地を与えられていて、南北朝期から戦国期以前に、碓井封戸を東大寺領から脱却させたのは、恐らく碓井氏と思われます♪
戦国時代には長らく少弐氏の支配を受けていた碓井の地は、嘉吉2年(1442年)千手・馬見の戦の後、大内氏の支配を受けています。
しかし、応仁の乱の後は少弐氏と結んだ宗氏の影響が強くあったとされ、碓井地域は文明元年の頃は宗貞国の支配下にあったと考えられています。さらに文明10年には、大内政弘は碓井駿河守資重に領地を与え、天文4年(1535年)大内義隆が太宰府天満宮月次連歌結番を定めた中に、嘉穂地方の豪族の中に碓井験河守の名があります。
その後、大内氏滅亡後の碓井の地は、豊後・大友氏と薩摩・島津氏と組んだ秋月氏の攻防が繰り広げられました。島津氏が耳川の戦いで天正6年(1578年)に大友氏を破った後に、秋月氏の支配下となっています。
さて、竹生島城ですが、詳細不明であります。天正15年の豊臣秀吉による九州征伐の後に、島津氏が降伏すると、この地は小早川隆景の地となり、竹生島城の直ぐ西の金毘羅山(琴平山)にある日野山城に、家臣である日野左近を配置しています。
現在、城跡にある竹生島神社ですが、元禄16年(1703年)近江国から勧請したと伝わります。竹生島神社がある削平地を主郭として、西側背後にある高まり(前方後円墳)を取り込み、櫓台の様にして、空堀を巡らせています。
2025年01月12日 明石家船上
益富城
城域がすごく広い全体を確認してまわると1日がかりになる城割の跡もなまなましくわかる
2024年10月25日 あんどー左近衛少将
益富城
かなり広い城郭です。旅先なので駆け足でまわってしまいました説明碑が至る所に立ててあって、とても助かります。しっかりと城趾を堪能できました惜しむらくは一夜城イベントの前だったらしく、骨組みだけを確認させられました笑
2023年09月14日 ʀᴇᴅ副将軍
益富城
歴史が古く様々な時代の遺構が残る巨大山城🏯
オススメ度 ★★★★★
永享年間(1429年〜1441年)初頭に大内盛見により築城。
大内盛見は、九州探題である渋川満直を援助し室町幕府の九州勢力拡大に取り組み、その際に益富城は築かれたとされます。
日田街道と長崎街道を結ぶ交通の要衝であり、その後は大内氏や大友氏などによる争奪戦が繰り広げられました。
1560年頃には毛利元就の領有となり城番として杉忠重が入城。その後、戦国時代末期には秋月氏の支配となり古処山城の支城のひとつとなっていました。
1587年、豊臣秀吉による九州征伐においては岩石城が一日で落城すると益富城で籠城していた秋月種実は益富城を破却して古処山城に退避。
豊臣秀吉は、かがり火を焚いて障子や戸板を集めることで、益富城を修復し一夜城を築いた様に見せかけて古処山城の秋月種実を驚かせたとされます。その後、秋月種実は剃髪し、茶器の楢柴肩衝と国俊の刀を豊臣秀吉に献上して降伏しました。
代わって豊臣秀吉家臣の早川長政が城番となり入城しましたが、早川氏は関ヶ原の戦いにおいて西軍に付いたため領地は没収。
その後、関ヶ原の戦いによる軍功で筑前に入封した黒田長政は六端城の一つとして後藤又兵衛を城主として入城させますが、1606年に後藤又兵衛が黒田家を出奔したため、代わって母里友信が入封。
1615年に元和の一国一城令により廃城となりました。
見所
標高189mの益富山ピークに築かれており、南東から北西に伸びた尾根上に二の丸、本丸、馬屋と連なり、北東下には水曲輪が配されています。更にその先の山陵には出城群が広がる広大な城郭です。
本丸と二の丸は櫓台で区切られ、横矢掛けの張り出しや石積みの土塁が巡ります。
本丸の北西と二の丸の南東に櫓台が併設された虎口が開口し、見事な桝形が形成されているのが見所です。
本丸北側下には畝状竪堀群がよく残っており、ここも見所のひとつです。
馬屋の北側先端部には石垣が巡らされていますが積み方が古く秋月氏時代のものです。
行き方は、国道211号から志祇神社を目指し更に北へ進むと城域まで車で登ることができ駐車場もあります。
但し、城域はかなり広いので時間は多めに取っておいた方が良いです。出城群まで回るとすると1日がかりになると思います。
2022年09月13日 龍馬備中守【】
長谷山城[益富城 周辺城郭]
福岡県の嘉麻市にある【長谷山城】♪長谷山城は嘉穂盆地に目立つ山、千手川と泉河内川との間にある標高311m程の長谷山の山頂に築かれています♪
城域は長谷山全域に及んでいて非常に見応えがあり、巨大な城郭であります☆勿論、見晴らしは素晴らしく良くて眼下には嘉麻市碓井・ 遠く福智山・ 香春三山・ 飯塚市までも展望できる正に城郭に適した立地と言えます♪
室町時代に豊前筑前の守護・大内盛見が築城しています♪嘉麻・穂波・御坂3郡の領主として高橋盛綱を城主としています♪
戦国時代には古処山に本城を置く秋月種実が、秋月城を北を固める支城として改修したと思われ秋月二十四城の1城に数えられています♪
堀切(二重堀切、三重堀切)土塁♪山城好きが好む遺構が明瞭に残っています♪
長谷山の山頂を主郭として、北、東に出城を構えて城郭を防御しています♪
北側の平山地区辺りを大手として、出城を連発♪主郭に近寄る敵兵をココでシャットアウト♪南側を搦手にしていた♪そんな造りだった様です♪
2022年04月04日 ビーンズマン右衛門督
益富城
郭の形がよくわかる状態になっている。石垣などよくボランティアの方が整備しておられる。6、7合目まで車であがれる。道を作るために破壊されているのかもしれないところもあるが、興味深い城である。
2021年09月20日 織田上総介晃司
益富城
益富城の近くまで車で行くことができます。(リア攻めマップ参照)
以前は水の手曲輪に停めることができたみたいですが、今は鉄製の柵も設置され車は入れません。
移築搦手門のある麟翁寺には駐車場が無く、車の方は駐車場探しに苦労します。
移築大手門のある善照寺には大きな駐車場があります。
秋月から益富城へ向かったのだが…
酷道322号だったのがトンネル開通したので国道322号になってた。(≧▽≦)
2021年06月17日 戸次豊前守紹運亮幸盛
移設搦手門[益富城 遺構・復元物]
麓の麟翁寺に移設された搦手門があります。
麟翁寺は黒田八騎の一人、母里太兵衛友信の菩提寺でもあり、門をくぐって右奥に太兵衛のお墓もあります。
また、門の近くに、あの『日本号』のレプリカも飾られています(本物は福岡市の博物館に展示されているみたいです)。
写真の顔出しパネルは年中飾られているか不明です。大河ドラマで太兵衛が取り上げられたからか分かりませんが、顔出しパネルはかなり綺麗です。
周りは住宅街で、専用駐車場もどこにあるのか分かりにくいので、車で行く際はご注意ください。
2021年05月04日 ヒデタカ筑前守
畝堀[益富城 遺構・復元物]
この道路脇の畝堀は通り過ぎてしまうと思うので見逃さないようにお願いします。
2021年03月13日 ヒデタカ筑前守
鷺山城[益富城 周辺城郭]
遺構は段の曲輪・井戸・切岸を見受けられますが私有地です
2020年12月14日 刻印爺弾正忠抱杏葉
益富城
公園としてキレイに整備されておりかなり上まで車で行けます。駐車場もありますので黒田の六端城の中では気軽に行ける城跡と思います。
水曲輪付近にある崩れた石垣の石には矢穴が確認出来ました。途中でやめた矢穴や、まっすぐ割れずに使われてない石などがあり、面白かったです。
すぐ近くに岩石城跡もありますよ。
2020年03月01日 戸次豊前守紹運亮幸盛
益富城
以前は二の丸下の水の手曲輪に車を停められたみたいですが、そこには車は停められません。水の手曲輪への入口にポール状の車止めがありました。トイレや案内板があるところから200mほど先に進むと10台ほど停められる綺麗な駐車場があります。城跡自体はあちこちに案内板があり、保存状態もよいので非常に見やすいです。ベンチもあちこちにあるのでゆっくり休みながら回れます。後藤又兵衛の顔出しパネルは少し風化しつつあります。哀川翔さんのサインは少し見にくくなってました。登城日:2020.1.13
2014年05月16日 母里但馬守太兵衛
益富城
5月18日に城の近くの鱗翁寺にて母里友信の400年式典が開催されます。時間は、15時からです。
2013年05月05日 大宰少弐ためぞう
益富城
国道211号から山頂を見ると建物が見え、それが益富城の本丸にあります。
軽自動車だと躊躇してしまいそうな激しい坂を登ったところに駐車場みたいなものがあるんですが、遊歩道を少し行ったところにも駐車場があり、そちらに停めたほうがいいと思いますよ。
城跡は大手と搦手の両方にある桝形虎口がわかりやすく、白米流し跡などもあります。
秋には一夜城を再現するような看板がありました。