岩石城(がんじゃくじょう)
岩石城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 福岡県田川郡添田町添田1788-2(添田公園)
旧国名
- 豊前国
分類・構造
- 山城
天守構造
- 独立式望楼型[2重3階/1991年築/RC造模擬]
築城主
- 大庭景親
築城年
- 保元3年(1158)
主な改修者
- 細川氏
主な城主
- 平氏、大庭氏、大友氏、大内氏、秋月氏
廃城年
- 元和元年(1615)
遺構
- 曲輪、石垣、堀切、井戸
指定文化財
- -
再建造物
- 模擬天守(添田町美術館)、石碑
周辺の城
-
城井谷城(福岡県築上郡)[11.2km]
益富城(福岡県嘉麻市)[11.7km]
香春岳城(福岡県田川郡)[12.1km]
御所ヶ谷神籠石(福岡県行橋市)[12.1km]
松尾城(福岡県朝倉郡)[12.6km]
障子ヶ岳城(福岡県京都郡)[12.8km]
馬ヶ岳城(福岡県行橋市)[13.2km]
鹿毛馬神籠石(福岡県飯塚市)[16.8km]
古処山城(福岡県朝倉市)[17.1km]
長岩城(大分県中津市)[18.6km]
岩石城の解説文
[引用元:Wikipedia「岩石城」の項目]
岩石城(がんじゃくじょう)とは、福岡県田川郡添田町添田1788番地の2にあった日本の城である。 標高454mの岩石山山頂を主郭とした山城であった。
歴史
平清盛が大宰大弐であった頃、保元3年(1158年)に大庭景親に築かせた、と伝わる。はるかのちには、子孫である大庭氏が城主として数代支配することになる。
標高はさほどではないにせよ、山岳修験道の修業場であった山に造られており「豊前一の堅城」「難攻不落」という評判もあった同城ではあるが、築城以降、菊池氏、大友氏、大内氏、秋月氏、豊臣秀吉の各大名に攻め落とされ、帰属の変更を繰り返しながら、重要な城として存続する歴史を繰り返す。 秀吉の九州征伐以降は小倉城の付城として存続し、毛利勝信や細川忠興らに支配されるが、江戸時代初期の1615年(元和元年)の元和の一国一城令により廃城となった。
1991年には山麓に7億5000万円の費用を掛けて模擬天守が建築された。模擬天守の1階は美術館となっており、入館料は無料。ただし、本来の岩石城とは無関係であり、城跡のメインとなる遺構は背後の山にあり、石垣や堀が残る。主郭近辺からは地域一帯を俯瞰することができ、同城がやはり重要な拠点であったことが推測される。
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岩石城の口コミ情報
2022年11月20日 眞田左衛門佐十兵衛
岩石城
岩石山山頂に天守台跡、すぐ下に本丸跡と山頂から八畳岩へ使った先に馬場跡、奥ノ院へ下りる途中に古井戸がある程度。奥ノ院の少し下に柱穴が数ヶ所見られ、所々に石割りの跡も見られる。一部石垣が残っていると説明板にあったが、見つかりませんでした。豊臣秀吉の九州平定の時、対抗した秋月種実方が3,000で立て篭もったが、秀吉方の蒲生氏郷、前田利長ら5,000の兵が1日で落城させた。この急峻な堅城を1日で落とすとは…秀吉方の圧倒的な装備(鉄砲)も相当な物だと思いました
2021年03月20日 龍馬備中守【佐竹扇】
戸城山城[岩石城 周辺城郭]
福岡県の田川郡にある戸城山城☆
戸城山城は鎌倉幕府が倒れた後の南北朝時代に築城された山城です☆比高は300m程あるのですが、畝状竪堀群が絶品です☆
肥後の菊池家の当主、南朝方の菊池武重が対立する北朝方の武将達に対する備えとして城を築き、子の菊池武光に守らせました☆
結果的に北朝方の畠山義深によって攻略されていき菊池氏は肥後へ退きます☆
畠山氏の持城となりますが、大内氏によって畠山氏は滅ぼされて更に戸代山城は大内氏を追い落とした大友親泰の居城となって行きます☆
豊臣秀吉による九州征伐の際には時の戸城山城主・馬屋原氏は秀吉への降伏を申し出ましたが許されず黒田官兵衛の攻撃を受けて落城しでしまいました☆
更に豊臣秀吉は岩石城攻略の際この戸城山に布陣し観戦たとか…そんな言い伝えもある戸城山城は、戦国時代の幕引きと共に廃城となりました☆
2020年06月19日 じょーうん豊前守
戸城山城[岩石城 周辺城郭]
戸城山城は1339年に菊池武重が築きました。
豊臣秀吉の九州征伐の時、城主であった馬屋原元有は降伏を申し出たが許されず、黒田官兵衛の攻撃を受け落城しました。
山頂は公園となり整備されて、横堀や土塁といった遺構が見やすいです。
奥に行くと整備はされてませんが、堀切や畝状竪堀群を見ることができます。
2012年12月16日
岩石城
駐車場はありませんでした。模擬天守はありますが、解説にある通り中は美術館。甲冑が一式だけ展示さるてました。
2012年11月04日 きたろう三世
岩石城
城跡へは、岩石城模擬天守を素通りして、適当な空き地に駐車して岩石山山頂を目指す。車道の終点からなら、徒歩30分程度で天守台に到着。