障子ヶ岳城(しょうじがだけじょう)
障子ヶ岳城の基本情報
通称・別名
- 障子ケ岳城、牙城
所在地
- 福岡県京都郡みやこ町勝山松田
旧国名
- 豊前国
分類・構造
- 連郭式山城
天守構造
- -
築城主
- 足利統氏
築城年
- 延元元年〔南朝〕/建武3年〔北朝〕(1336)
主な改修者
- -
主な城主
- 足利氏、千葉氏、椙氏、門司氏、千手氏、黒田氏
廃城年
- 元和元年(1615)
遺構
- 曲輪、土塁、堀切
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
香春岳城(福岡県田川郡)[3.2km]
御所ヶ谷神籠石(福岡県行橋市)[5.5km]
馬ヶ岳城(福岡県行橋市)[6.8km]
鷹取山城(福岡県直方市)[9.6km]
岩石城(福岡県田川郡)[12.8km]
鹿毛馬神籠石(福岡県飯塚市)[12.9km]
長野城(福岡県北九州市)[13.5km]
直方陣屋(福岡県直方市)[14.9km]
大三ヶ岳城(福岡県北九州市)[15.5km]
畑城(福岡県北九州市)[16.2km]
障子ヶ岳城の口コミ情報
2024年04月02日 RED副将軍
障子ヶ岳城
整備が抜群で眺望が素晴らしい豊前の名城🏯
オススメ度 ★★★★★
1336年に足利統氏により築城。
足利尊氏に命じられて足利統氏が築いたとされ、新田義貞に敗れて九州に下った足利尊氏が体制を立て直し、宮方の菊池武敏・阿蘇惟直らと戦った多々良浜の戦いに備えて築かれたと思われます。
1368年には千葉光胤の侵攻により障子ヶ岳城は落城。その後は千葉氏の居城となります。
しかし、1399年に大内義弘の急襲により障子ヶ岳城は落城。千葉高胤と嫡男の千菊丸は筑前へと落ち延び、後に千葉氏を再興した千菊丸が障子ヶ岳城を取り戻すも長くは続かず千葉氏は滅亡。再び大内氏の属城となり家臣の門司国親が在城したとされます。
大内氏が衰退し、天正年間(1573年〜1592年)には毛利氏の支配となっていましたが、1579年に高橋元種により攻め落とされ、高橋元種の出城となるも、1586年には毛利氏・小早川氏が攻め寄せて落城。
1586年の豊臣秀吉の九州征伐において黒田孝高の陣に下り、宿舎として利用されたと云われ、翌1587年には豊臣秀吉も入城したとされます。
その後、豊前国に入部した黒田孝高の持城となるも1615年の元和の一国一城令により廃城となりました。
見所
標高427mの障子ヶ岳に築かれており、豊前国府から太宰府へ向かう官道であり京都郡と田川郡を結ぶ西海道豊前路がある七曲峠を押さえる要衝です。
南北に伸びる尾根上に築かれた典型的な連郭式。北から南へ北の丸、馬場、二の丸、本丸、出丸と連なります。
山頂の本丸は四方を土塁が巡り、南西下に堀切を挟んで出丸があり、その先にも堀切で南西尾根を遮断しています。
馬場と北の丸は高低差のある鋭い切岸と堀切で遮断され、二の丸と馬場にも土塁が敷設。北の丸の下にも堀切があり北尾根を遮断しています。
登城路でもある北尾根には砦跡もあり、砦跡から出丸までは約800mもある広い城域です。
整備が行き届き、眺望は抜群。技巧的というより、高低差のある鋭い切岸が防御の主体であるストロングスタイルの山城です。
行き方は、味見桜公園を目標に設定。北側麓の県道64号から味見トンネルの西側入口手前に林道があり味見桜公園に辿り着くことができます。麓から登ると比高は約350mもありますが、味見桜公園からは比高は約120mしかありません。約30分で辿り着くことができます。
但し、林道は途中から未舗装の狭い道となりますが普通車でも登れると思います。
2024年02月12日 織田上総介晃司
障子ヶ岳城
香春町採銅所(城の西側)より林道を通り味見桜公園に駐車。
公園先の登城口より登城。登城路は整備されてましたが傾斜がキツく、所々ロープが張ってあります。
故に革手袋は必要かと…
登城はキツいですが(1.4km・所要時間約40分)その労苦に値する遺構が目の前に広がります。
夏より冬場の登城をおすすめします。
2023年10月26日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
大坂山城[障子ヶ岳城 周辺城郭]
福岡県の田川郡の香春町にある【大坂山城】♪大坂山(別名・飯岳山で標高573m)から東に伸びる尾根上(標高472m)に城郭は築かれています♪もっともっ〜と、東側には御所ヶ谷神籠石、更には馬ヶ岳城と続いて行き、行橋市へと繋がる場所、田川郡と書きましたが、実際は田川、京都、仲津の三郡に跨る場所に城郭は立地しています♪
築城年は不明です‥‥が、豊前・宇都宮一族の西郷隆頼、杉因幡守隆哉の城郭と伝わります♪大坂山城の南麓の大坂集落には西郷氏の菩提寺である、興聖寺や伝西郷隆頼の墓所と伝わるモノがあります♪
杉氏と云う武将は豊前国の武将で周防国・大内氏の譜代家臣です♪戦国時代の本拠は豊前ながら、大内氏本拠の山口県域に一族は多くて、他に和泉・長門・筑前などで守護代に登用されている一族です♪幕末の吉田松陰の実家などが知られています♪
杉家をクローズアップします♪杉家初代とされる杉貞弘は『観応の擾乱』の往時には足利直冬の武将として記録のある人物で、観応3年(1352年)には同じく足利直冬配下の内藤藤時と共に、対立勢力の大内弘世と度々交戦しています♪この大内弘世は南北朝が一度合体した正平一統後に一時、足利直冬に属しましたが最終的には離反をしています♪正平一統以後の杉氏については史料が少なくて、『観応の擾乱』発生から半世紀後には、大内弘世の子・義弘が起こした『応永の乱』の頃、完全に大内家の勢力に組み込まれており、『応永記』※応永の乱について描かれている軍記物には、大内配下の武将として杉豊後入道、杉備中守、杉九郎などが名を連ねます♪
この杉家は他に和泉・長門・筑前など守護代に登用されてもいます♪一族幅広い活躍です♪周防国・大内氏の晩期、大内義興・義隆の時代には『杉八家』と呼ばれる8つの家系があったともされていますが、その系図は明確ではありません☆この頃の筑前守護代家・豊前守護代家を中心に九州方面の攻略を進めて、大友氏・少弐氏と博多や大宰府の支配権を争っています☆天文20年(1551年)に発生した大内氏の家臣・陶晴賢の謀反劇では、各家で対応が分かれるなど大きく混乱☆大内氏の滅亡を生き延びた家も、帰属先は対立しあう安芸国・毛利方、豊後国・大友方に袂を分かちます☆
さて、永禄9年(1566年)宝満山城主・高橋鑑種をはじめ、秋月種実らは大友氏から離反して挙兵しています☆永禄11年(1568年)には杉因幡守隆哉も、毛利氏に庇護されていた西郷隆頼と共に大坂山城で籠城していますが、大友勢に攻め込まれ降伏‥‥『大坂山の戦い』です♪『都郡大坂山ヲ 杉因幡守、西郷両人で取り誘え候、是又せめ落とされ、杉領も西郷も向参し候』とあります☆
両名が、大坂山城で挙兵したが、大友方に攻め落とされたという内容です☆
永禄12年(1569年)には、西郷隆頼は豊前国で50町を大友氏から預けられています♪
見所は浅めではありますが、畝状竪堀群♪
香春城の支城群と思われる大坂山城♪
香春城の城主は、秋月種実の実子である高橋元種が在城しています♪秋月氏の城郭の防御の要と言えば、やっぱり畝状竪堀群ですね♪
2022年11月04日 カツ
障子ヶ岳城
中世山城の中でナンバーワンに面白い!是非おすすめします!
2021年04月30日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
塔ヶ峰城[障子ヶ岳城 周辺城郭]
「豊前国戦国事典」には、戦国時代の山城で曲輪と掘切が残っているそうです。
築城者と築城年代は詳らかではないようです。
2021年04月30日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
花立城[障子ヶ岳城 周辺城郭]
「豊前国戦国事典」によると、諸文献に記載がなく詳細は不明な山城だそうです。
2021年04月30日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
勝山城[障子ヶ岳城 周辺城郭]
「豊前国戦国事典」によると、築城者は城井氏で出城であったとありました。
2021年04月30日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
尾倉山城[障子ヶ岳城 周辺城郭]
「豊前国戦国事典」には、築城者や築城年代は詳らかではないようですが戦国時代の山城とありました。
2019年05月03日 兵庫頭あっきい
障子ヶ岳城
更に進むと北の丸と馬場を分断する空濠跡へ。
2019年05月01日 大学助さくにゃん
公園[障子ヶ岳城 駐車場]
ここに車止めれます。来るのは西側からです。今回東側から入り途中で車では進めず途中で車を止めて行きました。