馬ヶ岳城(うまがだけじょう)
馬ヶ岳城の基本情報
通称・別名
- 馬岳城、馬ヶ嶽城、大谷城
所在地
- 福岡県行橋市大字大谷/京都郡みやこ町犀川花熊
旧国名
- 豊前国
分類・構造
- 連郭式山城
天守構造
- -
築城主
- 源経基
築城年
- 天慶5年(942)
主な改修者
- 緒方氏、新田氏、長野氏
主な城主
- 源経基、緒方氏、少弐氏、菊池氏、規矩氏、新田氏、大内氏、大友氏、宇都宮氏、長野氏、細川氏
廃城年
- 慶長20年(1615)頃
遺構
- 曲輪、土塁、堀切、畝状竪堀群
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
御所ヶ谷神籠石(福岡県行橋市)[1.5km]
障子ヶ岳城(福岡県京都郡)[6.8km]
香春岳城(福岡県田川郡)[9.7km]
宇留津城(福岡県築上郡)[10.3km]
岩石城(福岡県田川郡)[13.2km]
豊前松山城(福岡県京都郡)[14.6km]
長野城(福岡県北九州市)[14.9km]
鷹取山城(福岡県直方市)[16.1km]
城井谷城(福岡県築上郡)[16.9km]
旭城(福岡県豊前市)[19.1km]
馬ヶ岳城の解説文
馬ヶ岳城の口コミ情報
2024年08月09日 星穏
馬ヶ岳城
2024年7月1日から御城印の販売が開始されました。
販売場所:行橋市歴史資料館
(コスメイト行橋2階)
販売時間:10時~18時
休館日 火曜日、年末年始及びお盆
販売価格:1枚200円
郵送でも購入可能です。また、守田蓑洲旧居でも購入できます。詳しくは行橋市ホームページにてご確認下さい。
2024年02月19日 星穏
毘沙門城[馬ヶ岳城 周辺城郭]
みやこ町犀川木井馬場にある豊前宇都宮氏の山城です。
宇都宮氏の拠点は、建久三年(1192)(諸説あり)に入部して約140年間居た木井馬場と、正慶年間(1332~34)に移った城井谷(築上町)の二つがあります。
毘沙門城は、関東御家人の宇都宮信房が豊前国に入部し最初の居城とした神楽城の出城で、東北の鬼門にあたり毘沙門天を祀ります。
主郭は細長く、南北に帯郭が取りつき、西尾根を空堀で断ち切っています。主郭の西側は、現在墓地となっていますが三段になっており、そのさらに西側を三重の土塁と堀切で尾根を断ち切り、北側に出丸を持ちます。
神楽城と毘沙門城の間を走る県道239号を走ると赤い鳥居が見え、そこから登ることが出来ます。
2024年02月05日 星穏
小笠原神社[馬ヶ岳城 寺社・史跡]
小倉城、小倉藩に関する紹介です。
(距離の関係で馬ヶ岳城の周辺スポットとなります)
みやこ町豊津にある小笠原神社は、初め小倉城内にありました。幕末の長州との戦いで自ら城を焼いたため藩庁が田川郡香春、豊津へと移り、小笠原神社も北九州市門司の和布刈(めかり)神社からみやこ町八景山招魂社(現護国神社)を経て現在の位置に建立されました。祀られているうちの一人、小倉小笠原藩初代藩主の小笠原忠真は、信濃松本藩藩主小笠原秀政を父とし、母は松平信康と徳姫の子である登久姫。すなわち織田信長と徳川家康の血を引く人物となります。
黒門は、同じくみやこ町豊津にある現育徳館中学・高校の敷地内にあり、創設当時の門として保存されています。育徳館は小倉城に開かれた藩校思永斎の流れを汲みます。同校からは多くの人材を輩出し、日本電気(現NEC)の創業者である岩垂邦彦氏、夏目漱石の小説『三四郎』のモデルともいわれるドイツ文学者・小宮豊隆の二人の卒業生の碑が敷地内にあります。
最寄り駅はいずれも平成筑豊鉄道田川線新豊津駅。
みやこ町豊津支所から歩いてすぐです。
2024年01月19日 星穏
宇都宮氏館[馬ヶ岳城 周辺城郭]
宇都宮氏館跡は、豊前宇都宮氏が約140年間居城したみやこ町犀川木井馬場の神楽城から正慶年間(1332~33)に本拠を移した築上町にあります。館跡がある城井谷は要所要所に山城が築かれ、谷全体をひとつの城郭としたので「瓢箪城」とも呼ばれます。
城井谷の松丸地区にある館跡は、150m✕120mの方形の台地上に築かれ、空堀跡や土塁、20棟以上の建物跡が確認されています。小字は立屋敷、隣接して上の峯、下の峯の地名があり、地元では館ノ内(タテンウチ)と呼ばれているようです。現在館跡は私有地となっており、立ち入り禁止となっています。周辺を見てまわるくらいしかできません。
館跡から1キロ上流の伝法寺地区には、宇都宮氏が建立した岩戸見神社と正光寺があり、その南側に堂山城跡があります。堂山は城井谷が最も狭まった要所で、「一ノ戸」、「遠見番所」とも呼ばれます。城跡には、本丸、二の丸、堀切、土塁、土橋などが良好に残っていて、案内板を設置するなど整備されていました。堂山城跡は上流の寒田(さわだ)地区にある城井谷城からは距離があり、周辺の城郭のいずれからもスポット登録できませんでしたが、アプリの地図で正光寺付近を拡大していけば、堂山城跡の文字が出てきますので参考にされて下さい。城井川沿いの県道237号に面して案内板と登城口がありますが、現在途中から藪となっていますのでお覚悟を…。
宇都宮氏館跡、堂山城跡のいずれも駐車場はありませんが路肩駐車するスペースはあります。
①館跡。この先の高い位置に屋敷跡がある。
②館跡を南側から。
③県道沿いにある案内板。
④堂山城主郭。
⑤堂山城主郭から城井谷城の方をのぞむ。
⑥堂山城の虎口。
⑦堂山城の横堀と土塁。
⑧案内板。
2024年01月15日 星穏
神楽城[馬ヶ岳城 周辺城郭]
神楽城はみやこ町木井馬場にある、鎌倉時代から戦国時代にかけて豊前地方を支配した宇都宮氏が最初に築いた城です。のちに城井谷に移るまでの約140年間、ここを本拠としました。
神楽城の近くを流れる祓川にかかる赤い欄干の橋からまっすぐに延びる参道の奥に木井神社があります。この背後に広がる神楽城へは、境内にある登山口から約30分ほどで標高272mの山頂に着きます。本丸、二の丸、出丸、堀切、土塁、そして三十条の畝状竪堀群や曲輪跡などがある大規模な山城です。
ちなみに木井神社は、建久6(1195)年に宇都宮信房が下野国から宇都宮大明神を勧請して建てられました。境内には樹齢500年のイチイガシ(県指定天然記念物)がそびえています。10月に行われる秋祭り「九日祭り(くんちまつり)」では、弓の名手だったという宇都宮氏を偲ぶ流鏑馬神事も行われます。
神楽城から徒歩6分ほどの東北の鬼門にあたる所には、毘沙門天をまつる出城の毘沙門城もあります。そして、この地区一帯には広々とした屋敷区画の石垣や石列、井戸跡が多数残っているそうです。かなりの家臣団が住んでいたことが伺えます。また、地域の方々にとって宇都宮氏への想いは深いようで、いくつかある山城はいつ行っても草木が刈りとられきれいに整備されています。登城した日も手入れをされていました。城井谷城や馬ヶ岳城においでの際はぜひ、周辺の山城にも行かれることをおすすめします。
2023年12月02日 星穏
小笠原藩庁[馬ヶ岳城 周辺城郭]
みやこ町歴史民俗博物館の裏手に、小倉小笠原藩の藩庁跡があります。長州戦争に敗れ小倉城に火を放った後、小笠原藩は田川郡香春に移り、さらにここ豊津に移って藩庁を築きました。
高台に張りめぐらされた土塁がしっかり残っており、内側に天守閣を建設する予定だった説もあったと、説明板にありました。散策の途中で見つけたのですが、何回も通ったことのある場所で今までは気づきませんでした。しかし、城めぐりを始めてから土塁などを意識した結果、発見する事ができました。
博物館の前には、小倉藩と共に徳川幕府の盾となって戦った会津藩との交流の証である「鶴ヶ城吉野」という桜の木が植えられていました。周辺には、小倉藩の藩校の流れをくむ育徳館や豊前国分寺の三重塔、豊前国府跡などがありますので近くにおいでの際はぜひ。
2022年08月29日 花ちゃん
馬ヶ岳城
馬ヶ岳は黒田官兵衛の居城として有名です。官兵衛はここから中津城、福岡城へと移っていきました。ここにいたのはそんなに長い期間ではなかったようです。
2022年05月19日 RED副将軍
馬ヶ岳城
豊臣秀吉 、黒田官兵衛ゆかりの山城🏯豊前北部の重要拠点であり、いつの時代も激しい争奪戦の舞台でした⚔
オススメ度 ★★★★⭐︎
942年に清和源氏の始祖である源経基が築いたと言われる歴史ある山城。後に橘公頼の一族が城主となり、7代続くも、1151年に九州に流されていた源為朝の侵攻により、当主の橘頼行は自害。その後は、草野氏、緒方氏、少弐氏の支配となりました。
南北朝時代となり、南朝方の菊池武重の攻撃により再び落城。1340年に新田義基が入城し、新田氏3代の支配が続きましたが、菊池氏の攻撃によりまたも落城。戦国時代になると、大内盛見の侵攻により落城し、今度は大内氏の支配下になります。
1469年、大内教幸は応仁の乱で周防国で陶弘護と戦うも敗北、馬ヶ岳城に逃亡するも自害。陶氏の支配となります。
1504年には大内氏庶流の鷲頭氏が城主となりますが、大友氏、大内氏、毛利氏の争奪の舞台となり、幾度も激しい争奪戦が繰り広げられました。1578年には、長野氏が入り居城とします。
しかし、1586年から始まった豊臣秀吉の九州征伐において長野氏は降伏。豊前国に黒田孝高が入封し居城となりましたが、直ぐに中津城を築いて移り、馬ヶ岳城は中津城の支城となります。
1600年、関ヶ原の戦いの後は小笠原氏が豊前国に入り、その属城となりますが、1615年には一国一城令によって廃城となりました。
見所
標高216mの馬ヶ岳に築かれています。ピークが二つあり、本丸と二の丸になっています。尾根筋は要所を堀切で分断されています。
山麓には居館跡があり、大規模な横堀と畝状阻塁が東側に配されています。最大の見所であり、見逃さないようにご注意下さい。
2021年12月11日 眞田左衛門佐十兵衛
馬ヶ岳城
黒田官兵衛の九州最初の居城で、山麓部分に土塁、堀切、畝状竪堀群などの遺構が残る。1586年天下統一を目指す豊臣秀吉は、停戦命令に従わない島津氏の征討を決定し、黒田官兵衛を軍奉行とした舞台を九州に送った。1587年3月28日に秀吉自ら遠征軍を率いて九州に上陸し、翌29日に馬ヶ岳城に入り、岩石城攻略戦の強攻策を決めた
2021年04月30日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
山鹿城[馬ヶ岳城 周辺城郭]
「豊前国戦国事典」には、城井氏の一族である西郷氏が築城者で、出城として存在し、曲輪、土塁、空堀等が残っているそうです。
2021年04月30日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
神楽城[馬ヶ岳城 周辺城郭]
「豊前国戦国事典」によると、文治2(1186)年に源頼朝から豊前国の地頭職に任ぜられた城井信房がここを本拠地として築き、その後城井氏数代が城井谷に移るまで本城としたようです。
その後城井谷の本城の出城になったようです。
2021年04月30日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
毘沙門城[馬ヶ岳城 周辺城郭]
「豊前国戦国事典」によると、文治年間(1185-1190)に豊前国の地頭職となった城井信房が神楽城を築いて本城としたが、城の鬼門にあたるこの地に毘沙門天を祀り城を築いたそうです。
それでこの城は神楽城の出城にあたるようです。
2021年04月30日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
渋見城[馬ヶ岳城 周辺城郭]
「豊前国戦国事典」には、城井氏の本城の前線の砦として築かれた戦国時代の山城で、城主は今村式部だったそうです。
2021年04月30日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
黒岩城[馬ヶ岳城 周辺城郭]
「豊前国戦国事典」によると、城井氏の本城を守る前線の砦として築城されたものだそうです。
2021年04月30日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
宝山城[馬ヶ岳城 周辺城郭]
「豊前国戦国事典」によると、馬ヶ岳城の出城として宝山伊豆守が築城した南北朝時代に築かれた平城のようです。
2021年04月29日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
宇都宮氏館[馬ヶ岳城 周辺城郭]
「豊前国戦国事典」には、松丸城としても紹介されていました。
築城者は城井鎮房だそうです。
2019年05月27日 Hassy中務大輔G3
馬ヶ岳城跡臨時駐車場[馬ヶ岳城 駐車場]
駐車場出入口に、城跡までのルートがわかる案内看板が有ります。
駐車スペースは、マイクロバス2台、普通車9台です。
以前は仮設トイレが有りましたが、撤去されたようで無くなっていました。(2019/05/26現在)
2019年05月27日 Hassy中務大輔G3
馬ヶ岳城跡西谷駐車場[馬ヶ岳城 駐車場]
駐車場出入口そばに、城跡までのルートがわかる案内看板が有ります。
馬ヶ岳城の周辺スポット情報
太閤岩・官兵衛岩・又兵衛岩(遺構・復元物)
堀切(遺構・復元物)
堀切(遺構・復元物)
土塁と畝状竪堀群(遺構・復元物)
二の丸跡(遺構・復元物)
横堀跡(遺構・復元物)
本丸跡(遺構・復元物)
山鹿城(周辺城郭)
宇都宮氏館(周辺城郭)
宝山城(周辺城郭)
黒岩城(周辺城郭)
渋見城(周辺城郭)
毘沙門城(周辺城郭)
神楽城(周辺城郭)
豊前国府(周辺城郭)
小笠原藩庁(周辺城郭)
小笠原神社(寺社・史跡)
豊前国国分寺三重塔(寺社・史跡)
行橋市歴史資料館(御城印)
簡易トイレ(トイレ)
馬ヶ岳城跡西谷駐車場(駐車場)
馬ヶ岳城跡臨時駐車場(駐車場)
登山口(その他)
概要
行橋市とみやこ町の市町境にある標高216mの馬ヶ岳に築かれた中世の山城です。「馬ヶ岳」の名称は2つの峰が鞍を載せた神馬を連想させたためつけられたといわれています。馬ヶ岳城は豊前国の重要拠点であることから、中国地方の大内氏、毛利氏、豊後の大友氏などが激しい争奪戦を繰り広げました。
遺構
山城は山に土木工事を施して要塞化したもので、様々な防御施設があります。馬ヶ岳城は東西2つの峰の頂上を曲輪とし、西側を本丸、東側を二の丸としていたといわれています。その他、斜面を登ってくる敵の動きを制限する竪堀、尾根伝いに侵攻してくる敵を妨げる堀切、斜面を削って切り立たせた切岸などがあります。発掘調査を行っていないため建物があったかは現在のところ不明です。馬ヶ岳城の居館は馬ヶ岳の北側の谷にあったと推定されています。
その東の尾根には南北方向に数百mにわたって土塁や畝状空堀群(畑の畝のように空堀を連続させたもの)が築かれており、登山道沿いに見ることができます。
歴史
馬ヶ岳城は天慶5年(942)に源経基が築き、14世紀半ばから15世紀前半にかけて新田氏が拠点としていたという伝承がありますが、これらを裏付ける史料は確認されていません。史料に確かな記録が表れるのは応永12年(1405)のことで、九州探題の渋川満頼の書状にみられる馬ヶ岳城を攻め落としたとする記述です。また、天正3年(1575)には京都、伊勢神宮へ旅行する島津家久が「長野殿の城有」と記しています。天正14年(1586)になると天下統一を目指す豊臣秀吉が九州で一大勢力を築いていた島津氏を征伐するため、黒田官兵衛が軍奉行を務める軍を投入します。当時、馬ヶ岳城主であった長野三郎左衛門は秀吉方に服属し、馬ヶ岳城は秀吉の勢力下に置かれました。
翌年3月には秀吉自ら軍を率いて九州へ上陸し、馬ヶ岳城に入ります。ここで秀吉は2泊し、その間に秀吉と敵対する秋月氏の岩石城(添田町)攻略のための軍議を開いています。軍議の結果、猛攻をかけることが決まり、難攻不落で知られていた岩石城をわずか1日で陥落させました。
そのまま破竹の勢いで進撃し、5月には島津氏の本拠である薩摩国まで攻め込むと島津氏は降伏、九州は平定されました。その後、九州国分が行われ豊前6郡が官兵衛に与えられると官兵衛は馬ヶ岳城を拠点としました。その理由は、馬ヶ岳城が古くから拠点とされていたこと、領地の南側に黒田氏の支配を不服とする宇都宮氏がいたことが挙げられます。
これらの反抗勢力を鎮圧すると官兵衛は城下町を形成しやすい平地に中津城(大分県中津市)を築きます。
このように近世になると山城はほとんど使われなくなり、鉄砲などの新たな戦術に対する防御機能を持たせることと相まって平城へと移り変わっていきます。馬ヶ岳城はちょうどその移行期にある城で、城郭の歴史を知るうえでは欠かせない城といえるでしょう。また、馬ヶ岳の西隣には古代山城である御所ヶ谷神籠石も築かれており、古代山城と中世山城を見比べてその違いを実感するのも面白いでしょう。