馬ヶ岳城(うまがだけじょう)
馬ヶ岳城の基本情報
通称・別名
- 馬岳城、馬ヶ嶽城、大谷城
所在地
- 福岡県行橋市大字大谷/京都郡みやこ町犀川花熊
旧国名
- 豊前国
分類・構造
- 連郭式山城
天守構造
- -
築城主
- 源経基
築城年
- 天慶5年(942)
主な改修者
- 緒方氏、新田氏、長野氏
主な城主
- 源経基、緒方氏、少弐氏、菊池氏、規矩氏、新田氏、大内氏、大友氏、宇都宮氏、長野氏、細川氏
廃城年
- 慶長20年(1615)頃
遺構
- 曲輪、土塁、堀切、畝状竪堀群
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
御所ヶ谷神籠石(福岡県行橋市)[1.5km]
障子ヶ岳城(福岡県京都郡)[6.8km]
香春岳城(福岡県田川郡)[9.7km]
宇留津城(福岡県築上郡)[10.3km]
岩石城(福岡県田川郡)[13.2km]
豊前松山城(福岡県京都郡)[14.6km]
長野城(福岡県北九州市)[14.9km]
鷹取山城(福岡県直方市)[16.1km]
城井谷城(福岡県築上郡)[16.9km]
旭城(福岡県豊前市)[19.1km]
馬ヶ岳城の解説文
馬ヶ岳城の口コミ情報
2022年08月29日 花ちゃん
馬ヶ岳城
馬ヶ岳は黒田官兵衛の居城として有名です。官兵衛はここから中津城、福岡城へと移っていきました。ここにいたのはそんなに長い期間ではなかったようです。
2022年05月19日 RED副将軍三遠オフ初参戦
馬ヶ岳城
豊臣秀吉 、黒田官兵衛ゆかりの山城🏯豊前北部の重要拠点であり、いつの時代も激しい争奪戦の舞台でした⚔
オススメ度 ★★★★⭐︎
942年に清和源氏の始祖である源経基が築いたと言われる歴史ある山城。後に橘公頼の一族が城主となり、7代続くも、1151年に九州に流されていた源為朝の侵攻により、当主の橘頼行は自害。その後は、草野氏、緒方氏、少弐氏の支配となりました。
南北朝時代となり、南朝方の菊池武重の攻撃により再び落城。1340年に新田義基が入城し、新田氏3代の支配が続きましたが、菊池氏の攻撃によりまたも落城。戦国時代になると、大内盛見の侵攻により落城し、今度は大内氏の支配下になります。
1469年、大内教幸は応仁の乱で周防国で陶弘護と戦うも敗北、馬ヶ岳城に逃亡するも自害。陶氏の支配となります。
1504年には大内氏庶流の鷲頭氏が城主となりますが、大友氏、大内氏、毛利氏の争奪の舞台となり、幾度も激しい争奪戦が繰り広げられました。1578年には、長野氏が入り居城とします。
しかし、1586年から始まった豊臣秀吉の九州征伐において長野氏は降伏。豊前国に黒田孝高が入封し居城となりましたが、直ぐに中津城を築いて移り、馬ヶ岳城は中津城の支城となります。
1600年、関ヶ原の戦いの後は小笠原氏が豊前国に入り、その属城となりますが、1615年には一国一城令によって廃城となりました。
見所
標高216mの馬ヶ岳に築かれています。ピークが二つあり、本丸と二の丸になっています。尾根筋は要所を堀切で分断されています。
山麓には居館跡があり、大規模な横堀と畝状阻塁が東側に配されています。最大の見所であり、見逃さないようにご注意下さい。
2021年12月11日 眞田左衛門佐十兵衛
馬ヶ岳城
黒田官兵衛の九州最初の居城で、山麓部分に土塁、堀切、畝状竪堀群などの遺構が残る。1586年天下統一を目指す豊臣秀吉は、停戦命令に従わない島津氏の征討を決定し、黒田官兵衛を軍奉行とした舞台を九州に送った。1587年3月28日に秀吉自ら遠征軍を率いて九州に上陸し、翌29日に馬ヶ岳城に入り、岩石城攻略戦の強攻策を決めた
2021年04月30日 【∴】源九郎豊前守牛若丸
山鹿城[馬ヶ岳城 周辺城郭]
「豊前国戦国事典」には、城井氏の一族である西郷氏が築城者で、出城として存在し、曲輪、土塁、空堀等が残っているそうです。
2021年04月30日 【∴】源九郎豊前守牛若丸
神楽城[馬ヶ岳城 周辺城郭]
「豊前国戦国事典」によると、文治2(1186)年に源頼朝から豊前国の地頭職に任ぜられた城井信房がここを本拠地として築き、その後城井氏数代が城井谷に移るまで本城としたようです。
その後城井谷の本城の出城になったようです。
2021年04月30日 【∴】源九郎豊前守牛若丸
毘沙門城[馬ヶ岳城 周辺城郭]
「豊前国戦国事典」によると、文治年間(1185-1190)に豊前国の地頭職となった城井信房が神楽城を築いて本城としたが、城の鬼門にあたるこの地に毘沙門天を祀り城を築いたそうです。
それでこの城は神楽城の出城にあたるようです。
2021年04月30日 【∴】源九郎豊前守牛若丸
渋見城[馬ヶ岳城 周辺城郭]
「豊前国戦国事典」には、城井氏の本城の前線の砦として築かれた戦国時代の山城で、城主は今村式部だったそうです。
2021年04月30日 【∴】源九郎豊前守牛若丸
黒岩城[馬ヶ岳城 周辺城郭]
「豊前国戦国事典」によると、城井氏の本城を守る前線の砦として築城されたものだそうです。
2021年04月30日 【∴】源九郎豊前守牛若丸
宝山城[馬ヶ岳城 周辺城郭]
「豊前国戦国事典」によると、馬ヶ岳城の出城として宝山伊豆守が築城した南北朝時代に築かれた平城のようです。
2021年04月29日 【∴】源九郎豊前守牛若丸
宇都宮氏館[馬ヶ岳城 周辺城郭]
「豊前国戦国事典」には、松丸城としても紹介されていました。
築城者は城井鎮房だそうです。
2019年05月27日 Hassy中務大輔G3
馬ヶ岳城跡臨時駐車場[馬ヶ岳城 駐車場]
駐車場出入口に、城跡までのルートがわかる案内看板が有ります。
駐車スペースは、マイクロバス2台、普通車9台です。
以前は仮設トイレが有りましたが、撤去されたようで無くなっていました。(2019/05/26現在)
2019年05月27日 Hassy中務大輔G3
馬ヶ岳城跡西谷駐車場[馬ヶ岳城 駐車場]
駐車場出入口そばに、城跡までのルートがわかる案内看板が有ります。
概要
行橋市とみやこ町の市町境にある標高216mの馬ヶ岳に築かれた中世の山城です。「馬ヶ岳」の名称は2つの峰が鞍を載せた神馬を連想させたためつけられたといわれています。馬ヶ岳城は豊前国の重要拠点であることから、中国地方の大内氏、毛利氏、豊後の大友氏などが激しい争奪戦を繰り広げました。
遺構
山城は山に土木工事を施して要塞化したもので、様々な防御施設があります。馬ヶ岳城は東西2つの峰の頂上を曲輪とし、西側を本丸、東側を二の丸としていたといわれています。その他、斜面を登ってくる敵の動きを制限する竪堀、尾根伝いに侵攻してくる敵を妨げる堀切、斜面を削って切り立たせた切岸などがあります。発掘調査を行っていないため建物があったかは現在のところ不明です。馬ヶ岳城の居館は馬ヶ岳の北側の谷にあったと推定されています。
その東の尾根には南北方向に数百mにわたって土塁や畝状空堀群(畑の畝のように空堀を連続させたもの)が築かれており、登山道沿いに見ることができます。
歴史
馬ヶ岳城は天慶5年(942)に源経基が築き、14世紀半ばから15世紀前半にかけて新田氏が拠点としていたという伝承がありますが、これらを裏付ける史料は確認されていません。史料に確かな記録が表れるのは応永12年(1405)のことで、九州探題の渋川満頼の書状にみられる馬ヶ岳城を攻め落としたとする記述です。また、天正3年(1575)には京都、伊勢神宮へ旅行する島津家久が「長野殿の城有」と記しています。天正14年(1586)になると天下統一を目指す豊臣秀吉が九州で一大勢力を築いていた島津氏を征伐するため、黒田官兵衛が軍奉行を務める軍を投入します。当時、馬ヶ岳城主であった長野三郎左衛門は秀吉方に服属し、馬ヶ岳城は秀吉の勢力下に置かれました。
翌年3月には秀吉自ら軍を率いて九州へ上陸し、馬ヶ岳城に入ります。ここで秀吉は2泊し、その間に秀吉と敵対する秋月氏の岩石城(添田町)攻略のための軍議を開いています。軍議の結果、猛攻をかけることが決まり、難攻不落で知られていた岩石城をわずか1日で陥落させました。
そのまま破竹の勢いで進撃し、5月には島津氏の本拠である薩摩国まで攻め込むと島津氏は降伏、九州は平定されました。その後、九州国分が行われ豊前6郡が官兵衛に与えられると官兵衛は馬ヶ岳城を拠点としました。その理由は、馬ヶ岳城が古くから拠点とされていたこと、領地の南側に黒田氏の支配を不服とする宇都宮氏がいたことが挙げられます。
これらの反抗勢力を鎮圧すると官兵衛は城下町を形成しやすい平地に中津城(大分県中津市)を築きます。
このように近世になると山城はほとんど使われなくなり、鉄砲などの新たな戦術に対する防御機能を持たせることと相まって平城へと移り変わっていきます。馬ヶ岳城はちょうどその移行期にある城で、城郭の歴史を知るうえでは欠かせない城といえるでしょう。また、馬ヶ岳の西隣には古代山城である御所ヶ谷神籠石も築かれており、古代山城と中世山城を見比べてその違いを実感するのも面白いでしょう。