御所ヶ谷神籠石(ごしょがたにこうごいし)
御所ヶ谷神籠石の基本情報
通称・別名
- 御所ケ谷神籠石
所在地
- 福岡県行橋市津積/京都郡みやこ町犀川木山
旧国名
- 豊前国
分類・構造
- 神籠石式山城
天守構造
- なし
築城主
- 不明
築城年
- 7世紀後期
主な改修者
- -
主な城主
- 不明
廃城年
- 不明
遺構
- 列石、土塁、門跡
指定文化財
- 国史跡(御所ヶ谷神籠石)
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
馬ヶ岳城(福岡県行橋市)[1.5km]
障子ヶ岳城(福岡県京都郡)[5.5km]
香春岳城(福岡県田川郡)[8.2km]
宇留津城(福岡県築上郡)[11.7km]
岩石城(福岡県田川郡)[12.1km]
鷹取山城(福岡県直方市)[15.0km]
長野城(福岡県北九州市)[15.0km]
豊前松山城(福岡県京都郡)[15.5km]
城井谷城(福岡県築上郡)[16.8km]
鹿毛馬神籠石(福岡県飯塚市)[18.0km]
御所ヶ谷神籠石の解説文
御所ヶ谷神籠石の口コミ情報
2021年12月11日 眞田左衛門佐十兵衛
御所ヶ谷神籠石
7世紀後半頃に国土防衛のために築かれた神籠石系山城。城の外周は約3キロで、地形の険しいホトギ山山頂周辺を除いて2キロ以上に渡って、版築工法の高さ3〜5mの土塁をめぐらせている。7つある城門跡の中でも、花崗岩の切石を巧みに積み上げ通水口を設けた中門跡の石塁は圧巻!
2021年04月30日 【∴】源九郎豊前守牛若丸
大坂山城[御所ヶ谷神籠石 周辺城郭]
「豊前国戦国事典」には、築城者が杉因幡守とありました。(築城者にちなんで?)別名を因州城とも言うようです。
2021年04月30日 【∴】源九郎豊前守牛若丸
十鞍山城[御所ヶ谷神籠石 周辺城郭]
「豊前国戦国事典」によると、元歴の頃(1184-1185)、平氏家人が築城し籠った平安時代の山城とありました。
2021年04月30日 【∴】源九郎豊前守牛若丸
柳瀬城[御所ヶ谷神籠石 周辺城郭]
「豊前国戦国事典」によると、築城者は、城井氏一族の西郷氏だそうです。
空堀があるそうですが雑木がよく繁っているため遺構が分かりにくいようです。
2021年04月30日 【∴】源九郎豊前守牛若丸
不動ヶ岳城[御所ヶ谷神籠石 周辺城郭]
「豊前国戦国事典」によると、築城者は城井氏一族の西郷高瀬(一説には広瀬唯信)で空堀や石塁等の遺構が残っているそうです。
概要
行橋市南西部とみやこ町の市町境にある標高247mの御所ヶ岳に築かれた古代山城です。「神籠石」は『日本書紀』などに記録がなく、長らくその用途について論争がありましたが、現在は白村江の戦い(663年)に敗れた倭(日本)が唐や新羅の侵攻に備えて築城した山城だと考えられています。御所ヶ谷神籠石は谷を取り込むように築かれており、外周は約3km、うち2.2kmに城壁を巡らしています。城壁がない場所は急峻な地形を利用しているとみられます。
遺構
城壁は土塁と石塁で造られています。土塁は朝鮮半島から伝来した版築技法を用いて築かれていますが、これは板枠の中で土を薄く層状に積みながら突き固めていく技法で、高さは3~5mに及びます。こうして築かれた土塁は非常に堅固なものとなり、現在もその姿を留めています。石塁は水が流れる谷部に築かれています。石材は現地で調達できる花崗岩で、これを丁寧に方形に加工して利用しています。一部の石材はL字型に加工する切り欠き技法を用いており、これらの石材を巧みに組み合わせて積み上げます。
石塁のうち最も大きな規模を誇るのが中門石塁です。中門石塁は幅約30mにわたり谷を塞ぐように築かれたもので、上段5m、下段2mの2段構築となっており、下段には谷部の水を排水するための石樋が設けられています。石材は横目地を通す布積みで安定性が高く、現在もその威容をとどめています。
中門石塁に次ぐのが西門石塁です。こちらも丁寧に加工した花崗岩を積み上げていますが、積み方は目地を縦に通す重箱積みであるため安定性に乏しく、現在は大部分が崩落しています。これらの城門には横矢をかけられるようにするため左右の土塁を外側に張り出して築くといった防御上有利となる工夫もなされています。
城内には列石、礎石建物跡、馬立場石塁があります。列石は版築土塁を築く際の基礎で、御所ヶ谷神籠石ではこの列石が土塁の中に埋め込まれていますが、東門の南側では露出している箇所を見ることができます。
礎石建物跡は南北に延びる尾根上にあります。方形の石材を柱の基礎としており、建物の規模は3間×4間です。馬立場石塁は西門から南へ約200m進んだところにありますが、これは貯水池の堤防であると考えられます。
中門と東門の間にある谷には東石塁が築かれています。ここは平成31年度の西日本豪雨により毀損したため、令和元~2年度に発掘調査および解体工事を実施しました。石塁の大規模な解体工事は今回が初めてで、御所ヶ谷神籠石の構造を知るうえで重要な機会となりました。調査の結果、中門にみられる石樋を想起させるような構造が見つかりました。また、石塁が築かれていたのは水分を多量に含んだ砂質層の上であることも分かりました。岩盤まであと数十cmといったところでありながら何故このような軟弱な地盤の上に築いたのかは今後の検討課題となります。
石塁石材の正面は方形に加工して隙間なく積み上げていますが、見えない背面はあまり手を加えておらず、生じた隙間には拳大の石を多量に詰めていました。石塁の背面には拳~人頭大の裏込石が詰められて、その上部に版築土塁が築かれています。石塁解体中に須恵器坏片が1点出土しており、東石塁が7世紀後半に築かれたことが分かりました。第2東門でも同時期の遺物が出土しており、これらの資料は御所ヶ谷神籠石の築城時期を知るうえで重要な発見です。
築城から1,300年を経た今もその姿を留める御所ヶ谷神籠石は当時の土木技術の水準の高さを示しています。また、大規模な石塁や土塁を築いていることから、当時、国防の重要拠点として考えられていたことを示しているといえるでしょう。