鷹取山城(たかとりやまじょう)
鷹取山城の基本情報
通称・別名
- 鷹取城、高取城
所在地
- 福岡県直方市大字永満寺鷹取山、田川郡福智町
旧国名
- 筑前国
分類・構造
- 連郭式山城
天守構造
- -
築城主
- 永井宗久
築城年
- 永承元年(1046)
主な改修者
- 黒田長政
主な城主
- 永井宗久、少弐氏、筑紫氏、大友氏、母里氏(黒田氏家臣)
廃城年
- 天正15年(1587)
遺構
- 曲輪、石垣、土塁、竪堀
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
直方陣屋(福岡県直方市)[5.8km]
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香春岳城(福岡県田川郡)[8.0km]
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鷹取山城の解説文
[引用元:Wikipedia「鷹取山城」の項目]
鷹取城(たかとりじょう)は、福岡県直方市永満寺にあった日本の城。別名鷹取山城。
なお、同時代に肥前鷹取城(筑紫氏領)とその西に肥前鷹取山城(少弐氏領)、筑前高鳥居城(杉氏、秋月氏、筑紫氏、星野氏領)、筑後鷹取城(星野氏領)など読音違いや同名の城があるので、常に混同された状況がある。
概要
城は福智山の支峰、鷹取山(標高633メートル)上に築かれた。中世の城郭の中でも屈指の標高を誇り、近世城郭としては他に例の無い高所に築かれた山城である。近世城郭としての鷹取城は、さながらトーチカを思わせる鉄壁の要塞であった。
歴史・沿革
平安時代から室町時代
最初に城を築いたのは、長谷川吉武というこの地に勢力を張っていた武士団の頭領であった。家臣の永井宗久に命じて築城したが、おそらく当時は砦に近いものであったと想像される[1]。
その後、後醍醐天皇:元弘3年/光厳天皇:正慶2年(1333年)、小弐頼尚がこの地に再度築城した。南朝:興国6年/北朝:康永4年、貞和元年(1345年)、小弐氏の家臣(分家)・筑紫統種が城主に任じられ、その後数代に渡り筑紫氏の居城となった。
戦国時代から安土桃山時代
戦国時代には大友氏の家臣である森鎮実が城主となった。天文11年(1542年)、大友氏から大内氏へ寝返った森鎮実は、大友義鎮の1万3千の大軍に攻められ落城。鎮実は降伏する。鎮実はその後は大友氏の家臣の鷹取城主として戦うが、天正8年(1580年)に猫城攻略に失敗するなど、目立った戦功は無い。
その後、豊臣秀吉の九州征伐があり、鷹取城を含む筑前の地は小早川隆景の領土となるが、その間の詳細は不明である。
江戸時代
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの論功行賞により筑前は黒田長政の領国となる。長政は福岡に本城を築くが、「筑前六端城」の制を敷き、豊前との国境の6ヶ所に支城を築く。その一城として鷹取城を再築し、城主には重臣・母里友信が1万8000石で入った。
慶長11年(1606年)に母里友信は大隅城に移り、代わって手塚光重が城主となる。
慶長20年(1615年)、一国一城令により廃城となる。
城郭
近世城郭としての鷹取城は、南北約100メートル、東西約80メートルほどであり、小規模なものである。しかし城郭は上下2段の曲輪で構成され、虎口は四ヶ所に設けられ、全周を石垣と櫓で囲い、その規模の小ささの割には異例というほどの防御設備で固めており、さながらトーチカを思わせるような鉄壁の要塞であった。
参考文献
- 歴史群像 2002年2月号 14頁-19頁 筑前鷹取城
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鷹取山城の口コミ情報
2021年03月28日 ぴろり対馬守
鷹取山城
福智山登山の途中に寄りました。水仙が綺麗ですよ。
2019年06月17日 笑門来猫
鷹取山城
八丁越から天空の城を眺める。噴火口じゃなくて城跡です。総石垣の城で、折れのある虎口の石垣など現存。鷹取山→福智山→八丁越までの往復+城跡ウロウロしすぎて5時間(^^;
2015年05月05日 柴崎権大納言幸助
鷹取山城
白糸の滝近くの駐車場が利用しやすいです。
登山道は福智山へ向かって登っていき、上野越で道が分かれます。
しっかりした装備と時間に余裕を持って城攻めしたいところです♪
2013年06月08日 刑部卿ス~パ~サイアク人
鷹取山城
本来の途上口は栄満寺貴船口ですが、崖崩れで道がありません。数年前、有志の手で再建を考えたこともあります。