直方陣屋(のおがたじんや)
直方陣屋の基本情報
通称・別名
- 直方城、東蓮寺陣屋
所在地
- 福岡県直方市山部
旧国名
- 筑前国
分類・構造
- 陣屋
天守構造
- なし
築城主
- 黒田長清
築城年
- 元禄元年(1688)
主な改修者
- -
主な城主
- 黒田氏
廃城年
- -
遺構
- 移築門(西徳寺)
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
鷹取山城(福岡県直方市)[5.8km]
鹿毛馬神籠石(福岡県飯塚市)[7.2km]
畑城(福岡県北九州市)[7.5km]
猫城(福岡県中間市)[8.7km]
笠木城(福岡県宮若市)[9.9km]
大三ヶ岳城(福岡県北九州市)[12.1km]
香春岳城(福岡県田川郡)[12.6km]
花尾城(福岡県北九州市)[13.1km]
障子ヶ岳城(福岡県京都郡)[14.9km]
黒崎城(福岡県北九州市)[15.0km]
直方陣屋の解説文
直方陣屋の口コミ情報
2025年07月07日 大内周防守毛利
龍ヶ岳城[直方陣屋 周辺城郭]
龍ヶ岳城(りゅうがだけじょう)は福岡県鞍手郡の宮若市龍徳にあります。登山道は六ヶ岳の山々を縦走するために整備されていますが南側のバイパスを橋で渡ったところから登るのがベストです。駐車場もあります。
歴史は中国地方西部を中心に治めた大内氏家臣で筑前の守護代を任された※杉氏が筑前国糟屋郡高鳥居城と共に居城したとされ、城主に興行、忠重、連並が入り、秀吉の九州平定の時までには城が秋月氏のものとなり坂田氏と深見氏が入城しています。杉氏は龍ヶ岳城を居城とする前に西側の谷を挟んだ祗園岳にある祗園岳城を本城とし、その後龍ヶ岳城に移り、祗園岳城には城番として杉太郎兵衛を置いたとされる。
※この城主を最初に務めた杉豊後守興行ですが、『筑前国續風土記拾遺』の「高鳥居城」の項にて古文書には見当たらず、ただある系図(不明)に延喜年間に鞍手郡に下向し杉氏と名乗りその十代目に興行がなる。其子弾正重並其子権頭連並其子太郎連緒(つらつぐ)と記されている。享禄中杉弾正重連並(重連、連並?)は香月七郎太夫興則か弟、とあり興行の養子となっている。これと「尾仲文書」にみえる杉統連(むねつら)は連並と同一人物とする説もあるが定かではない。
龍ヶ岳城は南北二つの峰からなりそれぞれの頂部に曲輪群を構築している。北郭の北は尾根が伸び他の山と繋がっている。その尾根には二つの堀切で断ち切る。堀切を越えた先の曲輪は帯曲輪として北郭の中心、核となる曲輪の周囲を囲んでいる。帯曲輪から中心の曲輪に繋がる道や虎口は存在しない。また帯曲輪は北側でコの字方に曲がっているため上の曲輪から十字砲火をかけることができる。
南郭に繋がる尾根は完全に遮断する堀切はなく、尾根の西側は緩斜面であるためかそちらに向けて長く土塁状の盛土が伸びている。
南郭は北郭ほどでは無いものの似たように中心に核となる曲輪を中心にして帯曲輪が二重三重に囲んでいる。北郭は切岸はかなり絶壁に近いものの、南郭はそれほど高くは無いため帯曲輪を増やし火点(迎撃ポイント)を設けている。南側から東側は主郭までの距離が短いためか畝状空堀やコの字に曲がった堀切を設け、攻め寄せる敵の数を制限、集中させピンポイントで迎撃するためのものと考えられる。南郭は北以外に繋がる尾根はなく、南側の2箇所の小さな平坦地には堀切がある。
尾根を挟んだ西側にある祗園岳城はほぼ全周を畝状空堀や、横堀で囲んで防御施設が分かりやすく見て取れるのに対して龍ヶ岳城は少し分かりづらい。祗園岳城から分かる畝状空堀は兵士一人一人が各々の敵を撃破し、ダメージも極端に与えにくいが、龍ヶ岳城は十字砲火や二重三重の帯曲輪による火点の多さから攻めてに対してダメージが与えやすくなっている。また尾根伝いに北側から攻め寄せる敵には北郭の絶壁と化した切岸により南郭を攻めるための足場をつくらせない意図が感じられる。龍ヶ岳城はマニア向けの城と言っていいでしょう(祗園岳城は山をそこまで登らなくて済みますが、龍ヶ岳城はそれなりに登ります)。
歴史は不明な点も多いですが、その防御施設から当時の人々が生き残りをかけた惨状を感じることの出来る城の一つだと思います。
2025年02月12日 織部正ひろゆき
直方陣屋
遊具などがありますが工事中で、公園としては荒れ気味でした。
2023年04月09日 suzucat右兵衛督
直方陣屋
直方市体育館の北隣の多賀公園が直方藩主館跡(直方陣屋跡)のようです。公園西下の歩道沿い(体育館北隣すぐ)に「直方藩主館跡」の説明板と「直方城址」の石碑が並んで設置されていました。体育館の裏側(東北隅)から公園には行けますが案内板もなく遺構はないようです。体育館の駐車場を利用させていただきました。
2022年08月21日 ᴿᴱᴰ 副将軍
直方陣屋
直方藩4代の陣屋跡🏯
公園化により遺構はほぼ消失。
オススメ度 ★⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
1688年に黒田長清によって築城。
1623年に黒田長政の4男である黒田高政以来、
直方藩は三代が東蓮寺に陣屋を構えていました。しかし、三代黒田長寛が福岡藩の家督を継いだため一度は消滅。長寛は弟の長清に新田五万石を与えて再び直方に陣屋を構えました。
この時に以前の東蓮寺陣屋は廃し、妙見山にこ直方陣屋を新たに築いたものです。
黒田長清の嫡男である継高は、宗家に子がいなかったため宗家の福岡藩5代藩主を継ぎました。そのため、直方藩は1720年に黒田長清が没すると廃藩となり、所領は福岡藩に返されました。
見所
現在は多賀児童公園となっており遺構はほぼ消失。荒廃した公園という感じです。
多賀神社と藤姫稲荷神社の間にある切通しは堀跡と云われています。
隣接している多賀神社と直方市立石炭記念館も併せてどうぞ!
2022年05月29日 薩摩相模守義弘維新斎
直方陣屋
直方市にある直方陣屋跡は、黒田藩支藩の直方藩の城跡。JR直方駅から徒歩約10分ぐらいで登城できます。隣地には、多賀神社、体育館、直方市石炭記念館があります。特に登城後は、直方市石炭記念館に立ち寄ると筑豊炭鉱の歴史が理解できます。
陣屋跡は、公園となっておりますが、この時期は草が繁茂して大変。特に遺構らしいものがありませんが、陣屋から西徳寺に移築された山門が唯一の遺構らしい。
2020年08月19日 堀切凡夫
直方陣屋
現在は公園ではありますが、直方の町並みを一望できたであろう立地の良さが物語っています。
2017年05月20日 にゃにゃーにょ豊後守
直方陣屋
直方陣屋は、江戸時代に一時期存在した福岡藩の支藩じゃ。
陣屋は「御館(おたて)」と称されておったそうじゃ。
JR筑豊本線(福北ゆたか線)直方駅の西口から見える「西徳寺」の山門は、直方藩が福岡藩に吸収された享保五年(1720)以降に御館から移築された薬医門で、現存する唯一の遺構なのじゃ。
「直方城址」碑は、西徳寺から500m程南の御館山(多賀公園)の西側道路沿いに解説板と共にあるのじゃ。
直方市体育館を目指すとわかりやすいかのう?
他に体育館の南側と、線路の東方にある新町北公園にも解説板があるぞい。
★黒田長政の四男高政が元和九年(1623)に東蓮寺藩を開き、陣屋は現在の殿町にある双林院辺りにあったそうじゃ。
東蓮寺を「直方」に改名したのは三代長寛(綱政)の頃じゃ。
長寛は後に福岡藩主を嗣いだため一時藩主不在となるが、弟の長清が四代藩主となり居館を御館山に移したのじゃ。
その後長男の継高も福岡藩主を嗣いだため、長清が没すると共に直方藩も廃藩となったのじゃ。
☆近くに多賀神社や直方市石炭記念館などもあるので、その際に寄ってみてはどうかのう♪
本藩の福岡藩に福岡城がすでにあり、1国1城令により支藩である直方藩は城が持てなかったため、陣屋造りの館を建設した。
概要
市街地の西の丘上にあり、通称御館山(おたてやま)と呼ぶ。直方藩後期の藩主居館跡。陣屋造りで約50間四方ほどの規模であり、当時は、直方新館などと呼んだ。南の丘下には堀と表門・横門を開く。跡地は住宅化して、堀跡のほかはほとんど痕跡を留めない。また、市内山部の西徳寺の山門は、藩主居館からの移築と伝えるが、どの門であるかは不明。また、隣接する市立体育館横に民間団体が建てた「直方城址」の石碑があるが、表示が間違いであるのはいうまでもなく、位置も異なっている。
資料として、間取りや周辺地形を描いた「直方御館絵図」、および規模を書いた「直方御曲輪諸口間数記」がある。
出典
・「長崎街道 歴史の道調査報告書第1集」平成15年3月、福岡県教育委員会発行