龍ヶ岳城
龍ヶ岳城([直方陣屋 周辺城郭])
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龍ヶ岳城の口コミ情報
2025年07月07日 大内周防守毛利
龍ヶ岳城(りゅうがだけじょう)は福岡県鞍手郡の宮若市龍徳にあります。登山道は六ヶ岳の山々を縦走するために整備されていますが南側のバイパスを橋で渡ったところから登るのがベストです。駐車場もあります。
歴史は中国地方西部を中心に治めた大内氏家臣で筑前の守護代を任された※杉氏が筑前国糟屋郡高鳥居城と共に居城したとされ、城主に興行、忠重、連並が入り、秀吉の九州平定の時までには城が秋月氏のものとなり坂田氏と深見氏が入城しています。杉氏は龍ヶ岳城を居城とする前に西側の谷を挟んだ祗園岳にある祗園岳城を本城とし、その後龍ヶ岳城に移り、祗園岳城には城番として杉太郎兵衛を置いたとされる。
※この城主を最初に務めた杉豊後守興行ですが、『筑前国續風土記拾遺』の「高鳥居城」の項にて古文書には見当たらず、ただある系図(不明)に延喜年間に鞍手郡に下向し杉氏と名乗りその十代目に興行がなる。其子弾正重並其子権頭連並其子太郎連緒(つらつぐ)と記されている。享禄中杉弾正重連並(重連、連並?)は香月七郎太夫興則か弟、とあり興行の養子となっている。これと「尾仲文書」にみえる杉統連(むねつら)は連並と同一人物とする説もあるが定かではない。
龍ヶ岳城は南北二つの峰からなりそれぞれの頂部に曲輪群を構築している。北郭の北は尾根が伸び他の山と繋がっている。その尾根には二つの堀切で断ち切る。堀切を越えた先の曲輪は帯曲輪として北郭の中心、核となる曲輪の周囲を囲んでいる。帯曲輪から中心の曲輪に繋がる道や虎口は存在しない。また帯曲輪は北側でコの字方に曲がっているため上の曲輪から十字砲火をかけることができる。
南郭に繋がる尾根は完全に遮断する堀切はなく、尾根の西側は緩斜面であるためかそちらに向けて長く土塁状の盛土が伸びている。
南郭は北郭ほどでは無いものの似たように中心に核となる曲輪を中心にして帯曲輪が二重三重に囲んでいる。北郭は切岸はかなり絶壁に近いものの、南郭はそれほど高くは無いため帯曲輪を増やし火点(迎撃ポイント)を設けている。南側から東側は主郭までの距離が短いためか畝状空堀やコの字に曲がった堀切を設け、攻め寄せる敵の数を制限、集中させピンポイントで迎撃するためのものと考えられる。南郭は北以外に繋がる尾根はなく、南側の2箇所の小さな平坦地には堀切がある。
尾根を挟んだ西側にある祗園岳城はほぼ全周を畝状空堀や、横堀で囲んで防御施設が分かりやすく見て取れるのに対して龍ヶ岳城は少し分かりづらい。祗園岳城から分かる畝状空堀は兵士一人一人が各々の敵を撃破し、ダメージも極端に与えにくいが、龍ヶ岳城は十字砲火や二重三重の帯曲輪による火点の多さから攻めてに対してダメージが与えやすくなっている。また尾根伝いに北側から攻め寄せる敵には北郭の絶壁と化した切岸により南郭を攻めるための足場をつくらせない意図が感じられる。龍ヶ岳城はマニア向けの城と言っていいでしょう(祗園岳城は山をそこまで登らなくて済みますが、龍ヶ岳城はそれなりに登ります)。
歴史は不明な点も多いですが、その防御施設から当時の人々が生き残りをかけた惨状を感じることの出来る城の一つだと思います。









