笠木城(かさぎじょう)

笠木城の基本情報

通称・別名

笠木山城

所在地

福岡県宮若市宮田/飯塚市庄司

旧国名

筑前国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

宗像氏

築城年

天文20年(1551)

主な改修者

主な城主

宗像氏

廃城年

遺構

曲輪、石垣、横堀(空堀)、堀切、竪堀

指定文化財

市史跡

再建造物

周辺の城

鹿毛馬神籠石(福岡県飯塚市)[8.7km]
直方陣屋(福岡県直方市)[9.9km]
高野山城(福岡県飯塚市)[10.1km]
許斐山城(福岡県宗像市)[13.8km]
高鳥居城(福岡県糟屋郡)[14.4km]
鷹取山城(福岡県直方市)[14.8km]
猫城(福岡県中間市)[14.9km]
蔦ヶ嶽城(福岡県宗像市)[15.5km]
丸山城(福岡県糟屋郡)[15.6km]
立花城(福岡県福岡市)[16.2km]

笠木城の口コミ情報

2025年07月31日 大内周防守毛利
稲光城[笠木城  周辺城郭]



稲光城(いなみつじょう)は宮若市稲光地区にある丘城で築城年や城主、城番ともに不明の城です。

この稲光城が歴史の表舞台に登場したのが小金原の戦いです。小金原の戦いは後世につけられた戦いの名前で、この戦いで戦った立花方(大友方)では山東宗像表の戦い、清水原の戦いと呼び、対する宗像方は吉川庄の戦いと呼ばれていました(ここでは立花方の一次資料に従って清水原の戦いで以後統一します)。

清水原の戦いの背景として大まかな説明をすると天正九年(1581)に立花氏(居城は立花山城。宗像領の西側)が同じ大友方の毛利鎮実(もりしげざね。中国地方の毛利氏とは関係ありません)の籠る宗像領の東側にある鷹取山城に兵糧を送った帰り(11月13日)に宗像氏家中のものより襲撃された戦いです。立花氏と宗像氏は毛利氏が永禄11~12年にかけて北部九州を攻め撤退した後毛利方についていた宗像氏は大友氏と和睦を結んでいた関係であり、互いに婚姻関係を結んだり領土交換するなどして一時的な休戦状態になっていました。戦になったきっかけは一次資料から読み取ることはできませんが、この戦い以後は立花氏と宗像氏は対立し、他の反大友勢力と行動することになります(ただし宗像氏は毛利氏寄りの関係を持っており、龍造寺や島津と関係をもつ秋月氏とは必ずしも行動は一致していません)。

この戦いで戦場になったひとつが稲光城になります。宗像氏側では稲光城を「敵切寄」と記しており、これは大友方が元々あった城を接収し改修ないし陣地として構えていたことと推測されます(切寄は大友氏において城砦を再利用したものが多く見られる)。※「筑前の「切寄(きりよせ)」について」『九州の城 2』「北部九州中近世城郭研究会」より

稲光城のある稲光村は『宗像社第一宮御宝殿御棟上之置札』より天正6年に完成した本殿の造営に稲光村から動員されていたことから宗像領と考えられる。したがって稲光城も宗像氏の城であったことが考えられる。

城の縄張りであるが、稲光城のあるゴルフ場の造成の影響により断言はできないが現地で見る限り曲輪が3つからなっていたと考えられる。主郭を真ん中に置き、その南北に帯曲輪があったとされる。主郭のすぐ西に堀切がひとつ、そこからまた先に堀切がひとつある。

この堀切であるが、この地域を含む若宮庄の城は帯曲輪が主郭を囲み、堀切底部が帯曲輪と接続する。また堀切は竪堀をつけない仕組みになっています。

しかし、稲光城では主郭の周りに帯曲輪で囲んでおらず、また堀切と帯曲輪は堀切と接合せず単独の防御施設となっている。さらにふたつの堀切は両サイド共に竪堀となって麓に向かっている。

このことは他の若宮庄の城を築いた年との時間差や用兵術(ドクトリン)の違い、または若宮庄を支配していたと考えられる宗像氏とは別勢力によって構築されたことが考えられるが、推測の域を出ない。

稲光城は筑前の戦国時代の勢力を語る上で欠かせない城のひとつで清水原の戦い以後北部九州はより一層戦乱の渦に巻き込まれ、秀吉の九州平定まで戦が続くことになる。稲光城は再び戦場になった記録こそないものの宗像領の前線にあたり、広い宮若盆地に突出した丘城であることから見張りなどの役割などが想像できる。清水原の戦いの後すぐに鶇岳城や宮地嶽城を奪われ、宗像氏はその対応として田島(片脇城)・宮永(宮永城)の強化を強いられた(『無尽集 宗像氏貞書状写』「宗像市史史料編中世2 631」)。遺構こそほとんど残されていないもののこの城で起こった出来事をきっかけで戦乱に巻き込まれてしまったことに胸を痛まざるを得ないであろう。

写真
①帯曲輪
②堀切1(主郭側)
③堀切2(城外側)につながる竪堀
④道路の両サイドに堀切2
⑤堀切1と主郭切岸
⑥堀切1
⑦主郭
⑧主郭(左手に見える盛土は土塁か後世の造成の 際に盛られた盛土か不明)

2025年07月24日 大内周防守毛利
平山城Ⅲ[笠木城  周辺城郭]



平山城Ⅲは宮若市黒丸地区にある平山城I、Ⅱの背後にある最も高いところ(標高313m、比高213mほど)に位置する。

主郭は南北に長い楕円形をしており、周りを鋭い切岸を施しており、高さは6~7mもの高さがある。周囲は帯曲輪で囲み、南は南に伸びる尾根を断ち切るための3本の堀切(うち主郭側の堀切が最も大きい)、北も堀切を挟んで主郭よりも半分以下の高さの曲輪が南北に長く楕円形に伸びている。この曲輪も周りを帯曲輪で囲んでいるが、東側の帯曲輪は主郭に行くための通路を兼ねているため、北側では帯曲輪は途切れ西側の帯曲輪は通路を通る敵を高いところから見下ろす形となる。

いずれの堀切も帯曲輪と底部が接続しており、宮若・山口地域の城によく見られる形式である。主郭の北にある曲輪も西側から伸びる帯曲輪同様、下の通路を通る敵を上から見下ろし防御できるようにしている。長く伸びているため敵は長い間身をさらすことになりダメージをその間受け続けることになる。この曲輪を通り抜けたところで主郭には虎口がないため角度がきつい切岸を直登しなければならない。

主郭を囲む帯曲輪は敵が攻めるであろう比較的傾斜の緩い南東側に土塁を構築している。また南東から侵入してこれても南東側の帯曲輪は1段低くなっているため周囲から攻撃を受けることになる。

主郭の南側の堀切は3本あるが手前が大きく、残りの2本は規模が小さく浅くつくられている。これは主郭からの死角を生じさせないため、かつ攻め手の侵攻スピードを遅くさせるためだと考えられる。

北の曲輪の東を通る通路はさらに北側に石を積んで緩やかに通路を蛇行させている。後世のものであれば猪鹿垣にしては曲がりすぎており、造成だとしても石積みをつくらないほうが移動の便がいいので城と同じ時につくられたものだと考えられる。同様な石積みは筑後妙見城で見ることができる。石積みの先にある方形の平坦面は城郭に伴うものかどうかは不明である(待合場、待機場かもしれないが推測の域をでない)。

平山城Ⅲは平山城Iと比べると複雑な防御施設は少ないものの、効率よくダメージが与えられるよう主郭中心として死角をなくし、敵に長い時間ダメージを与え続ける仕組みとなっている。かなり高い場所にありながら、主郭の切岸は高さ、角度ともに圧巻でみる人を圧倒させるような迫力がある。

登山道はピンクリボンこそあるものの山道らしい山道はあまりないので事前調べやGPS、位置情報アプリは必須で服装(特に靴)はしっかりしたものでなくてはなりません。険しい谷も近くにあるので複数人の方がいいでしょう。

平山城最終地点とされる曲輪群(城)にふさわしい城の姿をしており、ここまで攻めてきた敵は疲弊した上で攻撃を受け続けることになる通路、そして虎口(入口)のない主郭を鋭い切岸を登らなければならないという難攻不落の城といっても過言では無い民衆の必死の思いが集まった結晶でもあります。

写真
①通路の石積み
②北曲輪と東側の通路兼帯曲輪
③主郭北側の堀切と主郭北面
④主郭北側堀切
⑤主郭東側帯曲輪
⑥主郭東側の切岸
⑦主郭南側堀切
⑧主郭南側の堀切から見た主郭南面

2025年07月24日 大内周防守毛利
平山城Ⅱ[笠木城  周辺城郭]



平山城Ⅱは平山城Iと同じく宮若市黒丸地区にある城のひとつで、3つあるとされる平山城を構成する城のひとつになる。標高は237m(比高は137mぐらい)、平山城Iの裏の尾根を登ったところにあります。

平山城Ⅱは曲輪が1つ、その東側に腰曲輪が1つ、南東に腰曲輪が3つほど並んでいる。西側の平山城Ⅲにつながる尾根の鞍部に堀切がある。

南東から堀切にかけて帯曲輪が2段ほどあるように見えるが、その下も同じ形状で数段下っているので後世の造成面と考えられる。したがって南東の腰曲輪も必ずしも腰曲輪と言いきれないところもある。

堀切であるが、真ん中の曲輪から少し離れた位置でしかも尾根のすぐ下に設けられていることから平山城Ⅱで籠城するには不利な位置になる。平山城Ⅲないし、背後の山々に避難、確保した上で尾根上から平山城Ⅱを越えてきた敵を迎撃するのに向いていると考えられる。

平山城Ⅱは明確に城とわかる遺構が曲輪(主郭)と東側のちょっとした腰曲輪、そして背後の尾根の麓にある堀切ぐらいで城というより平山城Ⅲや山々に迫る敵を迎撃するための構築物の集合体と感じられました。敵からすればこの城は急な斜面を登りきるまえに上から攻撃され、またこれから山を登ろうとする前に攻撃され、撃破したところでまた険しい山の斜面を登らなくてはならないので平山城Ⅲに迫る頃には敵の疲弊や人数の減少、士気の下落が期待できる大事な役目を担っていたと感じられました。ただでさえ急な斜面なのにこれで戦闘しなければならないとなると守り手としては頼もしい障害物のひとつに違いなかったでしょう。

写真
①東側腰曲輪と主郭(下から)
②東側腰曲輪から主郭
③主郭
④南東の連続腰曲輪
⑤堀切

2025年07月24日 大内周防守毛利
平山城Ⅰ[笠木城  周辺城郭]



平山城は宮若市黒丸地区にある城で、3つの丘城、山城から構成されていたとされる。『筑前國續風土記拾遺』、『福岡県地理全誌』に記されているが、平山城の正確な場所は不明なため「福岡県の中近世城館跡Ⅱ」(福岡県教育委員会編)に従って紹介する。平山城は安永氏の端城とされ、安永の名前は『天正十三年宗像氏貞分限帳』にて若宮衆の中に安永姓を確認できる。

以前取り上げた尾園城(尾園本城)では近くに八幡宮(山口八幡宮)が存在し、この平山城においても平山城Iのすぐ東に八幡宮(六社八幡宮)がある。天正九年(1581)の山東宗像表の戦い(鞍手郡吉川庄の戦い、小金原の戦い)にて宗像氏が大友勢(立花軍)に敗北した後に若宮庄の若宮八幡宮で社敵退散を祈っていることから、このふたつの八幡宮と城はこの戦いに関係したのかもしれません。

平山城の標高はおおよそ平山城Iが193m、Ⅱが237m、Ⅲが313mに位置する。城のある宮若市は内陸の盆地なので麓の平地の標高が100前後になる。

アクセスとしては近くの平山寺に車を停め、柵を開け(ちゃんと閉めること。近くにアナグマを始めとする害獣が多くいます)六社八幡宮に向かい、そのすぐ裏手が平山城Iとなります。ⅡとⅢはピンクリボンに従って山を登ることになります(直登に近いところも多々あり)。

平山城Ⅰは方形の曲輪が2つ東西に並び、この曲輪間を堀切で遮断している。この堀切は宮若市の城に多く見られるように曲輪を囲む帯曲輪と堀切底部が連結する形(堀切底部の方が1mぐらい高く、小さな竪堀を介して連結する)になる。

また西側の曲輪と西に続く尾根を分断するために堀切がある。この堀切はⅠの中で最も大きく、底部は完全に帯曲輪と一緒になっている。

帯曲輪は周囲に土塁が設けられているところがあり、またそれぞれの曲輪の切岸下に横堀がある。報告書の縄張り図には無いが、現地に行くと西側の曲輪下に突出した張り出しがある。これは帯曲輪、堀切に侵入し、曲輪に攻め込もうとする敵を側面から攻撃できるような足場と考えられる。

西の曲輪には土塁が2つあり、1つは西の尾根に取り付いた敵を射撃するためのものとされる土塁。もうひとつの土塁は西曲輪のやや東寄りにあり、曲輪間の堀切から登ってきた敵を土塁越し、または土塁上から攻撃するものと考えられる。曲輪の広さは東の方が大きいが、防御施設からみると西側の曲輪の方が強固なものとなっている(東側の曲輪には土塁なし)。

平山城Ⅰは規模こそ小さいものの防御施設は整っており、城の位置や比高から戦争になったらいち早く体制を整え、人々を後方の城や山々に避難させている間に敵を殲滅ないし被害を与え、時間を稼ぐ重要な働きが考えられる。この地域の人々にとって大事な生存戦略の手段を考えさせられる重要な城のひとつと感じさせられました。

写真
①東曲輪下の横堀と土塁
②西曲輪の横堀
③曲輪間の堀切につながる竪堀
④曲輪間の堀切
⑤西曲輪の東寄りの土塁越しから見る堀切と東曲輪
⑥西曲輪の西端の土塁と堀切を挟んだ尾根
⑦帯曲輪に突出した足場
⑧平山城Iの西端の尾根を断ち切る堀切

2025年07月20日 大内周防守毛利
山下城[笠木城  周辺城郭]



山下城(やまじたじょう)と呼びます。宮若市山口の郡道と宮若方面の道が交差する尾園城の南側、同一の尾根上に位置する城のひとつです。『福岡県地理全誌』によれば宗像の臣、金子又三郎ガ在城したとされる(金子又三郎の名は天正十三年分限帳に載っている)。

城の縄張りとしては小さな単郭の主郭がひとつ。南側に続く尾根を堀切で断ち切る。その堀切の底部を主郭周りの帯曲輪が連結した形を呈しており、尾園城や宮若地域の城で見られる「帯曲輪連結型堀切」としている(名称は新修 宗像市史より)。城の北に位置する尾園城を守ることに特化しているためか南側とは対照的に北側の帯曲輪と尾根の境界がはっきりしておらず、帯曲輪からなだらかな斜面の尾根がそのまま北に伸びる形となる。南からの侵攻を防ぐための城であることを裏付けるように北側に虎口らしき少し緩やかな傾斜面や通路が少し見受けられる(ただしこの城の主郭はほぼ全周にわたり険しい切岸で防御しており、北側の斜面は「他の面と比べると比較的」緩やかなだけで、決して緩やかな訳では無い)。南の堀切に落ちた敵が弱点である北側に回り込まないように北と東側に土塁の突出や段差が構築されている。

極めて単純な構造であるが、北にある尾園城さらにその先にある宗像領を守るために敵の進行を妨げる形で南側の防御に全て割り切っていることが縄張りからくみ取れる。他の城の築城に労力をさかれたためか必要最低限の労力で南から来る敵から宗像を守る必死な思いが鋭い切岸、巨大な堀切を生み出し、決死の思いで戦っていただろうと感じられました。

写真
①堀切
②主郭の切岸と帯曲輪
③東側に突出した土塁
④主郭北側(帯曲輪と段差)
⑤帯曲輪と切岸
⑥主郭北側東側の段差
⑦帯曲輪
⑧主郭

2025年07月14日 大内周防守毛利
尾園城[笠木城  周辺城郭]



尾園城もとい尾園本城は宮若市山口に所在する丘城である。尾園本城は幕末に写された『筑前要領』(香月文書)に記された城の名前で城主を尾園加賀守としている。ただし戦国時代にこの地域を支配していた宗像氏の『天正十三年宗像氏貞分限帳』(元和年間に写される)には尾園氏の名前が見られない。尾園本城は明治につくられた『福岡県地理全誌』では宮山城とされ、柴田左京の居城と記されている。柴田左京は天正十三年分限帳に宗像氏貞の家中に書かれていることから宗像氏貞の時には柴田左京が入っていることからこちらの方が信ぴょう性が高いだろう。
(『筑前要領』であるが、表書きの人物とその人物が行動した年代や当時の大名間の関係性に矛盾が生じている。また内容から推測する限りでは大友氏を正当化するように見て取れることから軍記物の側面が強いのではないかと思われる)

当城は立花山城を拠点とする立花氏(大友勢)が宗像を攻める際、若宮庄(宮若市)から宗像に攻めるルートと江戸時代の唐津街道から途中分岐して古代の郡道とされる見坂峠(現在の九州自動車道のルート)を越えて宗像に攻めるルートの交差点にあたる重要な地点である。尾園本城の周囲には尾根伝いに山下城、平地を挟んで茶臼山城があるなど城が密集していることから当時の緊迫した状況が感じられる。

城の縄張りですが、長方形の形をしており(私が現地を見た限りそれプラス南側に少し張り出しがあるように感じられた)、両端に堀切により緩やかな尾根を分断している。この堀切の底部は主郭を囲む帯曲輪と繋がっている。堀切は竪堀と繋がる構造ではないため時代の古い形式とされるが、堀切の底が帯曲輪と一体と為している城は若宮庄の城によく見られるもので他の地域にはあまり見られないことからこの地域の軍事的なドクトリンとしてこのような堀切になったとも考えられる。ちなみにこの堀切帯曲輪連結が古いタイプだということを裏付ける史料的考古学的な資料はなく、単に形式論から推測されただけである。またこの城は丘城とはいえかなり周囲が緩やかなため堀切から竪堀を繋げたところで労働力、維持管理の費用や手間を考えるとあまり効果はないであろう。
西側の堀切の城外側は土塁をなしており、敵はこの土塁(外から攻めると土塁と分かりづらい)を登ってからようやく堀切の存在に気付き、堀切に敵兵を落とし負傷させる仕組みとされる。
帯曲輪は完全に一周している訳ではなく、東側の堀切南側の帯曲輪と接続するところに土塁を設け遮断している。
宗像氏の兵士の動員数や周囲の城の数を踏まえると切岸や堀切、最低限の土塁を構築するといった必要最低限の防御施設を構築していることが伺える。堀切は2mぐらいの深さだと推測されるが、落下すれば負傷は避けられない。堀切は角度のきつい薬研の構造が今もはっきりと見て取れる。周囲の城が近いため連携しながら敵の兵を分散し、ゲリラ戦を行うことも十分可能である。

アクセスは山口八幡宮から裏山を登ったところにあります。

写真
①②切岸
③東側堀切
④帯曲輪と堀切を遮断する土塁
⑤主郭(西側は1段高くなっています)
⑥石碑
⑦⑧西側堀切

2024年04月01日 ヒデタカ筑前守
尾園城[笠木城  周辺城郭]

山口八幡宮より直ぐに取り付けます。八幡宮の裏側が城郭で、小城なので巡りやすくドライブスルー的な城跡です。

2023年12月06日 ヒデタカ筑前守
白旗山城[笠木城  周辺城郭]

擊鼓神社から取り付くことが出来ます。反対側はソーラー施設となっていて、立ち入り禁止です。山頂が本丸ということですが、 主郭の面影はありません。石垣、石切場、土塁、空堀の跡らしいものは見受けられます。

2023年12月06日 ヒデタカ筑前守
地蔵山城[笠木城  周辺城郭]

私有地にて鳥獣対策用のネットが有り、立ち入りは出来ません。

2023年12月06日 ヒデタカ筑前守
鬢鏡山城[笠木城  周辺城郭]

麓の白山神社に駐車可能。白山宮まで参道があり比較的に分かりやすいです。金生城経由で白山宮から尾根伝いに鬢鏡山城跡まで登りました。低山ですが道に迷う要素もありますので、気をつけて登ることが必要です。

2023年12月06日 ヒデタカ筑前守
金生城[笠木城  周辺城郭]

金生城跡は麓の白山神社に駐車可能。城跡の少し下の白山宮まで参道があるので比較的に分かりやすいと思います。しかし低山でも道に迷う要素がありますので用心して登ることが必要です。
また鬢鏡山城跡にも行くことが出来ます。

2023年11月21日 昌幸近江守更に吉
犬鳴御別館[笠木城  周辺城郭]



福岡藩が最後に築いた城ともされる犬鳴御別館。
外国の脅威が増した幕末、家老の加藤司書が有事の際の藩主の逃げ城として、山に囲まれた犬鳴地区に目をつけ慶応元年(1865)に建設を始めました。
徳川治世の揺らぎの影響は福岡藩にも現れ、天皇親政を目指した「勤皇派」と幕府を補佐していく「佐幕派」の対立がありました。加藤司書は勤皇派で、佐幕派から「この館は藩主を幽閉するためのもの」と疑いをかけられ、ついに藩主黒田長知は加藤司書はじめ勤皇派24名を処刑しました。
その時犬鳴御別館は建設途中でしたが、犬鳴御茶屋と名を変え翌年完成。
藩主長知が明治2(1869)年に一度だけ訪れました。館はその後荒廃が進み、明治17(1884)年の暴風雨で倒壊してしまいました。

当時の絵図によると、最上段に館、下側に6つに区画された平地となっていて足軽長屋・武器庫・トイレ・お宮様などがあったそうです。
現在残されているのは館周りで、大手と搦手門跡と庭の池跡が確認できます。

桜の木がたくさんありましたので、春は城跡との素晴らしいコラボが拝めるかも。たぶん桜の隠れスポットですよー。
是非訪れてくださいませ。

【写真の説明】
①大手口
②大手口の前には番所があった。
③池は石垣で囲まれていた。
④崩れてしまった石垣
⑤搦手口。石段が確認できる。
⑥搦手口石垣
⑦館全景
⑧登城路脇に埋まる石積み。長屋のあった区画の裏込石か?

2023年04月30日 龍馬備中守【】
犬鳴御別館[笠木城  周辺城郭]



福岡県の宮若市にある【犬鳴御別館】♪犬鳴連峰の深い谷間(犬鳴谷)にある福岡・黒田家の別館となります♪現在は犬鳴ダムの北側に居館跡は存在します♪

『福岡者海岸故 攘夷之時也或ハ長防御征伐ニ付而者 英夷加担致すべき間 海岸之城ハ 不都合とて 右様犬鳴山え別館取立候』と残り、幕末期にマシュー・ペリーが黒船で浦賀へ来航以来、この日本国には緊張が走りました☆長きに渡る徳川幕府の鎖国政策により日本へ平和をもたらしたと同時に、異国人の来航と共に慌てふためく事となりました☆徳川幕府の異国人への対応は?諸藩も注目した大きな出来事です☆

不安定な外部環境で元治元年(1864年)に福岡藩・黒田家の家老、加藤司書の推挙により国内外に対する防備の為に、有事に備えて築城されたのが、この犬鳴御別館となります♪

明治初期まで使用された、この別館には石垣が残されています♪犬鳴御別館には御殿、城外には足軽詰所・宝蔵・火薬蔵などがあったとされていて、犬鳴に入る各峠に番所を築き犬鳴在住の足軽を配していました♪犬鳴御別館は城郭要素を取り込んだ居館と言えます♪

2023年04月27日 龍馬備中守【】
宮永城[笠木城  周辺城郭]



福岡県の宮若市にある【宮永城】♪宮永集落(南)と大谷集落(北)の間にある雁城の山頂、標高333mに城郭は存在します♪

別名を雁城山城、繋木城とも呼ばれています♪宗像氏の鞍手郡西部防衛拠点の城郭となります♪往時、宮永城の立地する若宮盆地は他の勢力(秋月氏、杉氏、戸次氏、麻生氏♪後者2名はやや離れてますが…)との接触点でもあります♪宗像だけでは無くて、南側の若宮も支配をしていた宗像氏です♪

島津軍🆚大友軍が対峙した耳川の戦い☆
大敗を喫した九州の雄、大友宗麟☆
此れをキッカケに筑前では秋月氏をはじめとする反大友勢力が拡大☆

大友氏の家臣で立花山城主の戸次道雪は、鞍手郡・田川郡の境にある鷹取城に籠る毛利鎮真の元へ兵糧を輸送しますが、帰路を待ち受けた宗像氏貞勢と吉川庄清水原で一戦を交える事になります☆

小金原合戦です☆
この戦いをキッカケに宗像氏と大友氏は再び交戦状態になります…
城郭までは被害が及ばなかったと思われますが、眼下では火蓋が切って落とされました☆
往時、宮永城の城主は宗像氏貞の家臣・吉田杢之助が勤番したと伝わります☆

宮永城は南北に伸びる雁城山頂部を削平し、城郭を造り混んでいます♪南側には二重に堀切を造り東西、特に西側にビッチリ畝状竪堀群を配します♪※南東側にも畝状竪堀群♪
竪堀を動線兼としていると思われ主要部へ誘います♪宗像系城郭の特徴が良く出たオススメ城郭です♪

2020年10月27日 戸次豊前守紹運亮幸盛
犬鳴御別館[笠木城  周辺城郭]

別館の手前300メートルくらいに金網があり、そこに車を停めまれます。金網の両サイドの隙間から歩いて入って行き、ヘアピンカーブのように曲がって行くと別館跡が見えてきます。遺構は石垣だけですが、この石垣が素晴らしいです。向かって右が入口(虎口)でしょうが、左奥にもあります。中央の石垣は破却されたような感じですが、どこにも持って行かれず残っています。奥のやぶの中にも小さめの石垣があります。県道からの道は一方通行なのでご注意を。

笠木城の周辺スポット情報

 犬鳴御別館(周辺城郭)

 湯原草場城(周辺城郭)

 黒丸城(周辺城郭)

 白旗山城(周辺城郭)

 宮永城(周辺城郭)

 金生城(周辺城郭)

 白山(周辺城郭)

 鬢鏡山城(周辺城郭)

 地蔵山城(周辺城郭)

 尾園城(周辺城郭)

 平山城Ⅱ(周辺城郭)

 平山城Ⅲ(周辺城郭)

 高丸城(周辺城郭)

 平山城Ⅰ(周辺城郭)

 黒巣城(周辺城郭)

 山下城(周辺城郭)

 丸尾城(周辺城郭)

 茶臼山城(周辺城郭)

 草場城(周辺城郭)

 立林城(周辺城郭)

 熊ヶ城(周辺城郭)

 友池城(周辺城郭)

 堀谷城(周辺城郭)

 岡田城(周辺城郭)

 古賀城(周辺城郭)

 吉川下村城(周辺城郭)

 稲光城(周辺城郭)

 大音館(寺社・史跡)

 駐車場(駐車場)

 登山口(その他)

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