蔦ヶ嶽城(つたがたけじょう)
蔦ヶ嶽城の基本情報
通称・別名
- 蔦岳城、蔦山城、岳山城、赤間山城、赤馬山城
所在地
- 福岡県宗像市陵厳寺/遠賀郡岡垣町上畑
旧国名
- 筑前国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 宗像妙忠
築城年
- 永禄3年(1560)
主な改修者
- 宗像氏貞
主な城主
- 宗像氏
廃城年
- 天正16年(1588)
遺構
- 曲輪、堀切、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
岡城(福岡県遠賀郡)[4.5km]
許斐山城(福岡県宗像市)[6.7km]
片脇城(福岡県宗像市)[7.5km]
猫城(福岡県中間市)[9.1km]
山鹿城(福岡県遠賀郡)[11.4km]
直方陣屋(福岡県直方市)[15.1km]
笠木城(福岡県宮若市)[15.5km]
畑城(福岡県北九州市)[15.8km]
花房山城(福岡県北九州市)[17.5km]
黒崎城(福岡県北九州市)[17.9km]
蔦ヶ嶽城の解説文
[引用元:Wikipedia「蔦ヶ嶽城」の項目]
蔦ヶ嶽城(つたがたけじょう)は、福岡県宗像市と遠賀郡岡垣町との境にあった日本の城。宗像氏の居城。別名・蔦ヶ岳城、赤間山城、岳山城。
概要
標高369.3メートルの城山山頂にある。
築城年は不明だが、11世紀代の第6代・宗像大宮司宗像妙忠が築城したと伝わる[1]。第54代宗像大宮司宗像氏俊、第79代宗像大宮司宗像氏貞が改修を行う[2]。氏貞の改修は大規模なもので、尾根を削平し多数の曲輪を造成。曲輪群は南北800メートル以上、東西1キロメートル以上に及び福岡県内では屈指の大城郭である。曲輪の斜面には高石垣は無いものの切岸になっており、その下方には畝状竪堀としては北部九州最多クラスの170条の竪堀が設けられ、堀切と共に、尾根伝いに侵攻することが困難な構造になっていた。
戦国末期に宗像氏貞による大改修と共に岳山の城と名付けられ戦国大名の宗像氏の居城となったが、1588年(天正16年)に九州征伐の帰途に立ち寄った豊臣秀吉の命により廃城となった。この時に櫓や石垣を破却したとされる占部貞保の記録が残っている。現在目立つ痕跡は、本丸跡北側斜面に水穴と南側にわずかに野良積みの石塁が残るのみであるが、土塁、堀切、竪堀の痕跡は残っており、山頂付近では登山に苦労する者も見られる。
尚、二の丸跡に残る石垣は、1939年(昭和14年)に建設された青少年修養道場「城山閣」のものであり、宗像氏の城とは直接の関係は無い。
歴史
1336年、足利尊氏が、多々良浜の戦いの際に入城する。
1370年に荒廃していた蔦ヶ嶽城を第54代宗像大宮司・宗像氏俊が修築し、入城した。
1559年、大友氏の家臣の立花鑑載、怒留湯直方、麻生鎮氏(宗像鎮氏)の数千の軍勢による侵略を受けて落城し、宗像氏貞が大島に逃亡した。
1560年、領地奪還となった宗像氏貞は、また立花鑑載、怒留湯直方と吉弘鑑理、立花道雪、臼杵鑑速、高橋鑑種ら5千の軍勢による侵略を受けるも、撃退した。
1561年に第79代宗像大宮司宗像氏貞が大改修。名を岳山城とし、居城とした。
1567年、氏貞が立花山城を襲撃したが立花鑑載、怒留湯直方の反撃を受けて蔦ヶ嶽城下まで戦って、劣勢を転じて大友勢を撃退した。
1586年3月4日に、岳山(蔦ヶ嶽)城で氏貞が42年の生涯に幕を閉じ、宗像家が断絶する。
1588年、九州征伐の帰途で赤間にたちよった豊臣秀吉の命により廃城となる。
参考文献
- 廣崎篤夫 1995『福岡県の城』海鳥社
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蔦ヶ嶽城の口コミ情報
2023年04月06日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
白山城[蔦ヶ嶽城 周辺城郭]
福岡県の宗像市にある【白山城】♪孔大寺山より南西に伸びた中腹の尾根、標高319mの白山山頂を城域としました♪宗像大宮司である宗像氏の城郭です♪
この城郭は宗像氏国によって築城♪父である宗像氏実の時代は源平合戦の時で宗像大宮司家は源氏方として力を注ぎ、後に御家人として活躍しました♪
文治5年に宗像氏実は宗像大宮司職を、子の宗像氏国に譲っています♪宗像氏国は本拠地をコノ白山へ移し居城♪
宗像氏国は白山城を本拠地にして後に戦国時代に宗像氏貞が蔦ヶ嶽城を再築するまでの380年間もの間、宗像家の本城として、その役割を果たしました♪
白山城主・宗像氏国は鎌倉時代に子の宗像氏重に大宮司職を譲ると宗像大社の南背後にある片脇城へ移り白山城は宗像氏重の居城になっています☆
更に南北朝時代に入ると宗像大宮司の宗像範氏は京都で新田義貞、北畠顕家らに破れて九州に逃れた足利尊氏を白山城に迎えています☆その後、足利尊氏は多々良浜へ出陣し南朝主力、菊池武敏を撃破しています☆戦国時代に入ると宗像正氏は周防国の大内氏に従い大内家の重臣・陶晴賢の謀叛に遭った大内義隆が長門大寧寺で自刃した事に殉じています☆
この出来事により宗像家では内紛が発生☆長門にいて陶晴賢の支援をうけた宗像家の鍋寿丸☆鍋寿丸は白山城に拠って蔦ヶ岳城を居城とした同じく宗像家の千代松と対峙しています☆
2人の宗像家の家督相続争いは陶晴賢が支援した鍋寿丸に軍配が上がりました☆その後、鍋寿丸は宗像大宮司職を継ぎ宗像氏貞を名乗っています♪
永禄5年(1562年)に宗像氏貞は岳山城を改修し居城を白山城から蔦ヶ嶽城に移しています♪宗像氏貞は家臣・石松但馬守に命じ、父、宗像正氏の正室と宗像氏男の妻(菊姫)とを謀殺…。しかし宗像氏貞が最後となり宗像大宮司家は断絶…白山城の麓には増福禅院が残り菊姫の墓が残ります☆この増福禅院は宗像氏貞が開基しています♪
白山の山頂に主郭を置き南西に伸びた尾根を平坦地にし郭群を造り込みます☆1番のオススメは主郭北西側、一面に設けている畝状竪堀群♪ここの畝状竪堀群の状態は良く先端を堀切で遮断♪畝状竪堀群を連発する宗像家の城郭群♪陶晴賢が支援した宗像家♪周防国の大内氏、その家臣の陶晴賢の城郭も多くの竪堀を連続させ、畝状竪堀群を造り出しています♪北部九州に畝状竪堀群が多いのは恐らく大内氏の影響が色濃く出ているのでしょう♪
2023年03月09日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
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2023年02月03日 虹雷 大宰大弐 サンダー
蔦ヶ嶽城
車で来られる方は、登山口横に3台程度駐車スペースがありますが、台数が限られるためご留意ください。約1時間程度で往復出来ますので、しばらく待つと下山者と入れ替われる可能性も高いかなと思います。トイレもあります。
2021年05月30日 眞田左衛門佐十兵衛
蔦ヶ嶽城
蔦ヶ嶽城(城山369m)
1336年に宗像大宮司氏俊が、九州に落ち延びて再起をはかる足利尊氏を擁護し宗像館に招いた
戦国時代に入り、宗像氏貞が大友氏との戦いで籠城し、落城しなかった堅城
豊臣秀吉が天下統一後に筑前国に入った小早川隆景によって取り壊された
山頂にある本丸、二の丸や累々と築かれた曲輪や堀などが残る
2017年04月25日 カーネル
蔦ヶ嶽城
鹿児島本線教育大前駅。改札を出ると周辺案内図があり、城山登山口まで1kmの案内があります
改札を出たら北の大通りを渡ります。次いで教育大の回りを、時計回りに歩くことになります
かすれた文字で←登山口の看板もあったりします。新明池を過ぎると林道は登りへ
教育大の北側に、駐車場と水場と登山口があり、ここから山頂まで1kmです
最初の段差のある階段はキツイですが、あと~mという案内がでるのがうれしい
分岐が多数ありますが、道は整備されているし、城山頂上の文字に従えば迷うことはありません
頂上に近づくと、曲輪っぽい広場が階段状になってます。駅から40分で山頂着
山頂は広かったです。記念撮影して帰りました
駅から往復して1時間半弱でした