許斐山城(このみやまじょう)
許斐山城の基本情報
通称・別名
- 許斐岳城、許斐嶽城、許斐城
所在地
- 福岡県宗像市王丸/福津市八並
旧国名
- 筑前国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 宗像氏平
築城年
- 大治年間(1126〜1131)
主な改修者
- -
主な城主
- 許斐(宗像)氏、占部氏(宗像氏家臣)
廃城年
- 天正15年(1587)
遺構
- 曲輪、土塁、堀切、横堀(空堀)、竪堀
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
片脇城(福岡県宗像市)[5.8km]
蔦ヶ嶽城(福岡県宗像市)[6.7km]
岡城(福岡県遠賀郡)[10.8km]
立花城(福岡県福岡市)[12.6km]
笠木城(福岡県宮若市)[13.8km]
猫城(福岡県中間市)[14.5km]
御飯ノ山城(福岡県福岡市)[15.4km]
丸山城(福岡県糟屋郡)[17.6km]
直方陣屋(福岡県直方市)[17.6km]
名島城(福岡県福岡市)[18.0km]
許斐山城の解説文
許斐山城の口コミ情報
2022年02月10日 大内周防守毛利
飯盛山城[許斐山城 周辺城郭]
福岡県の福津市にある飯盛山城です。
宗像氏の大友方(立花氏)に対する最前線の城郭です。城の東から南側には大友方の鶫岳城、臼ヶ岳城、小松岡砦、鷺白城に囲まれており、山頂からはこれらの城郭や宗像氏の大友方に対する拠点の城、許斐山城や立花氏の本拠地の立花山城を見ることができます(桜の木が茂って見えづらいですが)。
また飯盛山城の北には宗像領から立花領を繋ぐ博多往還があり、また南には旦の原という台地が広がっています。旦の原では永禄10(1567)年に南下する宗像軍と立花軍が戦ってます。その翌年には立花勢によって飯盛山城は陥落されましたが、さらにその翌年の永禄12(1569)年に博多を狙う毛利軍が南下した際にも飯盛山城は再び攻防の場となり、立花山城を毛利勢が攻めた際には宗像勢は飯盛山城の麓の旦の原に陣を敷きました。
天正九年の鞍手郡の戦い(小金原の戦い)に伴って、飯盛山城の東にある鶫岳城と福津市の宮地嶽神社のある宮地嶽城(宮地嶽切寄)が立花勢によって奪取されたので、この時点で飯盛山城は立花勢のものになっていた可能性があります(毛利勢が九州から引き上げたのち、宗像氏と立花氏の間で結ばれた和睦で、飯盛山城の西側にある西郷を立花勢に渡しているのでその時に立花勢のものになった可能性もあります)。
飯盛山城は主郭が三角形の形をしており、それぞれの隅の下には腰曲輪が設けられています。西側の腰曲輪の西には竪堀が伸びています。主郭は東から南にかけて土塁が巡らされています。飯盛山の南には駐車場があり、そこから登ることができます。途中、小規模な曲輪があり、その南東側に堀が伸びているものと見られます。
山は標高157mですが、麓が台地なので比高からすると60mぐらいの小さな三角形の形をした山です。駐車場や手洗い(少しボロい)、ベンチもあり、春には桜で人が多いかもしれないです。近くには九州自動車道の古賀SA(一般道から入ることができます)があるので行楽ついでにぜひ。
写真
①旦の原から見た飯盛山城
②通路と切岸
③主郭と東側から南側にかけてめぐる土塁
④腰曲輪
2022年01月24日 大内周防守毛利
許斐山城
許斐山城(このみやまじょう)と読みます。
宗像氏の大友(立花氏)に対する拠点の城として幾度も戦いの舞台となりました。宗像氏の城といえば本拠地の蔦ヶ嶽城をはじめ片脇城、宮永城にみられる畝状竪堀が見られますが、許斐山城には畝状竪堀は見られません。実際に行くとわかりますが、許斐山城の見所は横堀、横矢と巨大な堀切です。中でも堀切、横矢は織豊系城郭に見られる特徴で、北部九州の城郭にはあまり見られません。
城域は大きく分けると主郭域にあたるI区、主郭から南西に伸びる尾根上にあるII区、そして堀切挟んで尾立山にあるⅢ区からなります。
I区やⅢ区は竪堀や曲輪群を堀切で仕切るなど守りを固めています。
中でも上述したように横堀と横矢のあるII区はかなり特殊です。II区の真ん中には横矢のかかる東西の竪堀から曲輪を分断するように横堀でつないでいます。そして、横堀から主郭(北)側に土塁を挟み「金魚池」があります。金魚池は城の用水池と伝えられ、雨が降った時には水が溜まるそうです。また水を貯めるために池には粘土があったとされ、地域住民が再利用するために持って帰ったそうな。ただ横堀で隔てたII区北側は個人的に肥前名護屋城の三の丸に似ており、また金魚池は水手曲輪と比較すると城の規模に対して池の面積が大きいこと、池全部が用水池でなく建物があり、建物が朽ちた後、外壁が粘土として金魚池に堆積したのではないか?と考えさせられます。実際のところは発掘調査が行われないと分からない点が多い城です。
アクセス
登城口(登山口)は大きく王丸口と吉原口があります。王丸口は麓から山頂までひたすら階段です(ゆるやかコースもあります)。吉原口からだと比較的登りやすく感じます(階段は多いですが、王丸側に比べると少ないです)。
写真
①Ⅲ区とII区の間の堀切
②尾立山山頂の曲輪
③II区に繋がるI区の虎口
④金魚池と土塁
⑤II区北側の曲輪
⑥主郭(天守は確認されてない)
⑦横堀
⑧竪堀
2022年01月11日 大内周防守毛利
小松岡砦[許斐山城 周辺城郭]
小松岡砦(こまつがおかとりで)と読みます。
背後にある臼ヶ岳城とセットで里城になります。永禄年間に薦野、米多比勢が軍議を行い出撃した「養徳山の城」に比定され、『歴史史料としての戦国期城郭』によると現在の若宮神社のあるところが小松岡砦のあった場所と推定されます。
ため池を挟んだ養徳山には立花氏の重臣として活躍した薦野氏の墓があります。養徳山の名前から城域と考えられそうですが、山の斜面が加工されておらず、また墓のある頂部も平坦に加工されていないことから城域とは考えづらいです。
現在の若宮神社のある丘は急斜面に加工されており、頂部も平坦であり、その北側にはわずかですが土塁らしき盛り土があります。また若宮神社の背後には堀切があります。その尾根続きにももう一つ堀切らしきものがありますが、用水路が通っていることから堀切だったところをさらに深くしたのか、またもともとそこは堀切ではなかった可能性も考えられます。
場所は古賀駅前バス停から終点薦野バス停のすぐ斜め前にあります。
写真
①全景(右奥に見える山は臼ヶ岳城)②切岸 ③曲輪(若宮神社)と土塁 ④堀切 ⑤現代の用水路を通すためにつくられた窪み ⑥薦野増時の説明板 ⑦薦野増時墓所 ⑧養徳山山頂の墓所
2021年12月20日 大内周防守毛利
臼ヶ岳城[許斐山城 周辺城郭]
臼ヶ岳城、別名は薦野城(こもの)ともいいます。麓にある小松岡砦の詰城として立花氏に仕えた薦野氏の城郭とされます。
現地の案内看板では、臼ヶ岳城は薦野城として紹介され、城は一の丸、二の丸、本丸として分けられており、実際に標識もそのように示していますが、現地に訪れると「福岡県中近世城郭調査報告書」や「大友宗麟の城」で掲載されている縄張り図通り、城域は本丸のみです。一の丸、二の丸は曲輪のように広い場所ですが、尾根の削平や斜面を削るといった加工がされておらず、曲輪と呼ぶにはかなり難しい印象を受けました。
臼ヶ岳城は近隣の米多比城や鶫岳城と同様に単郭式の曲輪からなっていますが、主郭の削平がそれらに比べて甘く、土塁がなく、竪堀も数本、虎口も主郭の南端を沿うように導線が設けられ主郭に入るのみという2つの城に比べると防御性にかなり見劣りがあります。主郭の周りに腰曲輪もあるもののそれも削平が甘く、大きさもかなり小さいです。
切岸はかなり綺麗に構築されているので、立派な城郭であることを印象受けますが、あくまで麓の集落から避難するための詰城といった様子で、宗像氏との攻防戦としてつくられた城とは考えにくいです。
主郭からの眺めは西側のみ開かれていますが、眼下には立花方の小松岡砦や鷺白城。そして宗像側の宮地嶽城(宮地嶽切寄)、1567(永禄10)年の立花氏(道雪以前の鑑載の頃)と宗像氏の合戦の舞台のなった旦の原と何度も合戦の舞台となった飯盛山城を眺めることができます‼︎
アクセス
薦野バス停からそこまで離れておらず、山道も整備されているので登りやすいです(ところどころ山道が狭く、落ちそうなところもありますが)。
写真
①南東より②堀切から竪堀へ③東側切岸④堀切⑤主郭と崩落によるえぐり?⑥案内板⑦主郭北側の腰曲輪⑧風景(右側の真ん中にある三角形の山(飯盛山城)と左端の森(鷺白城)と真ん中の虹色の煙突のある台地が旦の原です)
2021年12月20日 大内周防守毛利
鶫岳城[許斐山城 周辺城郭]
鶫岳城(つぐみたけじょう)と読みます。立花城督の城砦のひとつで、宗像領と接する境目の城です。
「豊前覚書」には在番者として天正9年の鞍手郡吉川庄合戦(鷹取城の救援として向かっていた戸次氏と宗像氏、秋月氏の戦い)が起こった年に院内衆(糟屋郡のうち、立花山の北側の諸郷村。薦野、米多比など)、大津留宗秀があたりました。
鶫岳城は鶫岳(標高340m)の上に築かれ、宗像領側の北側と西岳ルートは極めて山の斜面が急で、南西側の尾根が続くところには堀切で断ち切り、そこから切岸で急斜面を構築しています。宗像領側の北側にのみ畝状竪堀が構築され、宗像氏に対して睨みをきかせていたことが想定されます。北側以外の面には切岸が綺麗につくられています。米多比城の山城部と同様に基本単郭式で構成され、主郭は三段に分けられており、北東隅と南西隅には虎口が設けられ、北東隅の虎口には馬出のような腰曲輪がつくられ、南西側の虎口には主郭南にある腰曲輪に繋がります。また米多比城ほどではないですが、曲輪の周りには低いながらも土塁がめぐらされています。
南側の腰曲輪は主郭との付け根あたりに両サイドを竪堀として落ちており、それをつなぐように若干のくぼみがあることから堀切だった可能性があります。
また福岡県中近世城館遺跡調査報告書などに掲載されている図面には載っていないですが、鶫岳の舎利蔵ルートには腰曲輪みたいな小規模な曲輪が点在しています。
米多比城に比べたら畝状竪堀の数はかなり少ないですが、立地や切岸の構築、土塁、曲輪内の削平具合からして極めて防御性の高い重要な城であったことが分かります。
アクセス
鶫岳は青瀧寺から登る西岳ルートと舎利蔵ルートがあります。西岳ルートは寺から奥に入る道は笹やシダが多い茂っており(踏み跡は明瞭かつピンクリボンもあるので間違えることはありません)、かつ不動明王過ぎからは山の急斜面かつ道が踏み跡程度で小石が多いことからしっかりした登山装備で登ることをおすすめします。舎利蔵ルートは坂が緩くて、広いので登りやすく、ピンクリボンもあるのでオススメですが、山に入る道がかなり分かりづらいのです。
写真
①② 畝状竪堀③ 北東隅虎口④ 北東隅虎口の外側の曲輪⑤ 土塁と切岸⑥南西隅虎口と土塁⑦南側腰曲輪⑧舎利蔵ルート途中にある曲輪?
遺構
宗像市と福津市の市境にそびえる許斐山の山頂に位置する。別名、許斐岳(嶽)城、許斐城ともいう。本丸である山頂には王子神社の祠があり、一段下がった場所に二の丸、さらに馬場と呼ばれる広い曲輪が存在する。周囲には多くの帯曲輪や堀切が残る。
また、城内には金魚池という名の付いた用水池があり、ここにも土塁、空堀などの遺構を見ることができる。
歴史
大治年間(1126~1131)に宗像大宮司15代・氏平が築城し、宗像一族の許斐氏の居城となった。永禄3年(1560)、戸次鑑連(立花道雪)を始めとする大友勢が宗像領に押し寄せた際には、許斐山城の占部(うらべ)尚安らの奮戦でこれを撃退している。
その後も数度にわたって大友勢を退けた宗像氏だったが、天正11年(1583)の立花道雪・高橋紹運らによる侵攻で許斐山城はついに落城し、守将の宗像民部は城を捨てて逃亡したという。その後の豊臣秀吉による九州平定により城は廃された。
交通
・JR鹿児島本線東郷駅から車で約10分参考文献
・『日本城郭大系 第18巻』新人物往来社、1980年。・『神郡宗像 第14号』宗像大社、2018年。
・『週刊日本の城』デアゴスティーニ・ジャパン、2013年。