立花城(たちばなじょう)

立花城の基本情報

通称・別名

立花山城

所在地

福岡県福岡市東区立花山

旧国名

筑前国

分類・構造

平山城

天守構造

不明

築城主

立花貞載

築城年

元徳2年(1330)

主な改修者

小早川隆景

主な城主

立花氏、大友氏、小早川氏

廃城年

慶長6年(1601)

遺構

曲輪、石垣

指定文化財

再建造物

周辺の城

御飯ノ山城(福岡県福岡市)[2.9km]
名島城(福岡県福岡市)[5.6km]
丸山城(福岡県糟屋郡)[6.7km]
高鳥居城(福岡県糟屋郡)[10.3km]
須崎台場(福岡県福岡市)[11.2km]
稲居塚城(福岡県福岡市)[12.0km]
波奈台場(福岡県福岡市)[12.2km]
許斐山城(福岡県宗像市)[12.6km]
福岡城(福岡県福岡市)[13.2km]
古野城(福岡県福岡市)[14.5km]

立花城の解説文



立花山城(たちばなやまじょう、りっかさんじょう)は、福岡市東区、糟屋郡新宮町および久山町にまたがる標高367mの立花山の山頂にあった日本の城。立花城(たちばなじょう、りっかじょう)と呼称される場合もある。

概要 

城は立花山(367m)の山頂に築かれ、大小七つの峰のうち一番高い井楼山(本城山)に本城が築かれた。本城の東は松尾岳、西は白岳といい、いずれの山頂にも出城があり立花山全体を要塞とした大規模な山城である[1]

沿革 

元徳2年(1330年)に豊後国守護の大友貞宗次男大友貞載が築き、この地に拠ったことにより立花氏を称するようにもなった。港町博多を見下ろす非常に重要な拠点であり、戦国時代には大内氏や毛利氏と大友氏の激闘地であった。

戦国末期の天正14年(1586年)7月末には、当時弱冠20歳の立花統虎(後の立花宗茂)がこの城に籠り、実父高橋紹運の岩屋城を落とした島津勢約4万の侵攻に徹底抗戦した。

豊臣秀吉の九州征伐の後、立花氏は筑後国柳川城へと移封となり、新たな城主として小早川隆景が入城する。城としての機能よりも経済的意義が求められるようになると、山城である立花山城は存在意義を失い、名島城築城後は支城に、その後黒田長政が慶長6年(1601年)に福岡城を築いた後は廃された。

なお福岡城の石垣は主に立花山城から石垣を移築して作られた。現在は山頂の本丸跡にわずかに石垣跡、そして古井戸跡が残るのみである。

参考資料 

  • 立花城興亡史
  • 筑前國續風土記
  • 九州諸家盛衰記

立花城の口コミ情報

2024年10月26日 あんどー主計頭
立花城



軽くハイキングのつもりで入ったのが大間違いめっちゃくちゃキツいです登山道までの舗装路がすでにものすごい急斜面で脚にきます笑そこから頂上まで40分ほどです尾根伝いの近隣の城まで探索する余裕はなくとっとと下山こんな急峻な城でも落城するんだから、武士は強い…

2024年08月17日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
下山田城[立花城  周辺城郭]



福岡県の糟屋郡新宮町、久山町に跨る形で、標高367mの井樓山を中心に城郭を展開する立花山城♪その南東側の尾根、標高170mの地点に城郭を展開した【下山田城】の口コミとなります♪

立花山城周辺には、三日月山城塞群や、城ノ越山城砦群など多くの城郭が立ち並びます♪下山田城もその1つであります♪
この付近の南側には南北朝時代に足利尊氏VS菊池武敏が争った『多々良浜の戦い』があったり、戦国時代には立花山城を巡る攻防戦として、大友宗麟VS毛利元就が。更には戦国末期の岩屋城の戦い時には、立花統虎(後の立花宗茂)が立花山城に籠るなど、何度も攻防を繰り返し軍事的な緊張が漂ったエリアでもあります。

戦国時代には大友氏の筑前の支配拠点の1つとして、立花山城は非常に重要視されていて、建武年間以降、築城主である大友貞載が立花姓を名乗り、代々ここ立花山城を守ってきました♪この立花氏は『西大友』とも呼ばれたりしています。それ位、重要な城郭なのです♪ではでは同山系内の近い場所に立地する、下山田城の性格は?という事です♪

永禄11年(1568年)北部九州進出を狙う毛利元就に通じた立花山城の立花鑑載は、大友義鎮(宗麟)に叛旗を翻します。この前年には、大友配下にあった岩屋城・宝満山城の高橋鑑種と古所山城の秋月種実も毛利元就の後押しで叛乱を起こし、大友氏に対抗していました。筑前国は岩屋城・宝満山城の高橋鑑種と立花山城の立花鑑載の双璧が守っていた訳で、この離叛に対して大友義鎮(宗麟)は怒り狂い、戸次鑑連(後の立花道雪)らを将として、3万の兵を立花山城へ差し向けています。1度目のこの戦いの行方は、激戦の末、立花鑑載が自刃。高橋鑑種は降伏し、小倉城へ移封されています。
その後の立花山城は、田北氏や臼杵氏など大友方の武将が守っていますが、永禄12年(1569年)毛利元就方の小早川氏、吉川氏の両将に攻められ、開城しています。毛利方の城郭となった訳です。が、その後、元亀元年(1570年)大友宗麟は再び戸次氏、臼杵氏、吉弘氏らと共に反撃し、立花山城を奪い返しています。因みに戸次丹後守鑑連に立花氏を継がせ、あの立花道雪が誕生しています♪

取った取られたの争奪戦の末に生まれた城郭が、この下山田城であり、立花山城を攻める為の付城という訳です。
こんなに近くに城を置くの❓と思いますが、出雲国の赤穴瀬戸山城に対して、武名ヶ平城の同山系内に陣を引いた毛利氏ならば全然あり得そうです♪少し前の三日月山城塞群も、高橋三河守鑑種が守っていたとされていますが、もしかしたら…毛利方の可能性もあるのかも知れません。何にしても、下山田城には畝状竪堀群が残っていたりと毛利っポイ雰囲気が漂います。ただし、下山田城の大きさからしたら、立花山城を攻略するには余りにも城郭として機能が弱い気がするので、三日月山城塞群や城ノ越山城砦群など幾つかに部隊を分けて、応戦した事でしょう。何れにしても、時代によって、どちらの武将も入っていたでしょうし、戦国末期まで使用されたとは思いますが♪

2024年08月14日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
三日月山(陣山)[立花城  周辺城郭]



福岡県の福岡市東区と糟屋郡新宮町、久山町に跨る様な形で、立花山城の南側に【三日月山城塞群】が存在します♪東西に伸びる尾根上には凸凹ピークが存在して、それぞれのピーク(最大標高272m)に砦(大きくは4つに分かれる)を構えています♪因みに、立花山城とは尾根で繋がっています♪

三日月山城塞群ですが、不明な点が多いです♪立花山城の支城群の1城と見るのが一番かなぁ?とは思いますが、この南側には多々良浜があります♪南北朝時代には、足利尊氏VS菊池武敏が争った『多々良浜の戦い』がありますが、戦国時代の永禄12年(1569年)立花山城を巡る攻防戦として、大友宗麟VS毛利元就が争っています。元々、1550年代から大友氏と毛利氏は豊前、筑前の二カ国を巡り度々戦いを繰り返してきました。(門司城の戦い)一度は室町幕府第13代将軍・足利義輝の仲介によって講和するも、永禄10年(1567年)秋月種実が毛利元就の支援を得て旧領回復の兵を挙げた事で、再び緊張状態が続きました。大友宗麟は挙兵した秋月種実と、これに呼応した大友氏の重臣・高橋鑑種を討伐に向け、戸次鑑連(道雪)、臼杵鑑速、吉弘鑑理の三家老に兵を与えて攻めさせましたが、休松の戦いで秋月勢の奇襲を受け、敗北しています。これにより筑前、筑後国衆が動揺し、特に筑前の大友方の重要拠点である立花山城の城主・立花鑑載が叛旗を翻した事で、大友勢は劣勢に立たされています。
毛利元就はコレを好機と援軍を送り、大友勢を筑前、豊前から駆逐しようと動き、大友勢は戸次鑑連ら3人の家老がこれを防ぐ為に、永禄11年(1568年)より毛利方の重要拠点となった立花山城に攻め寄せました。およそ3ヶ月に渡る攻城戦の末に、内応者の出た立花山城は陥落し、立花鑑載は自害。しかし、毛利元就も次男・吉川元春、三男・小早川隆景、重臣・宍戸隆家らを送り込み、肥前の龍造寺隆信と連携し大友方への圧力を強め、翌永禄12年(1569年)立花山城に攻め寄せます。一方の大友宗麟は叛旗を翻した筑前国衆の秋月氏を攻め、筑前国衆の動揺を鎮めようと動くも、その間に立花山城は再び陥落して毛利元就が押さえます。
立花山城を失いながらも筑前国衆の動揺を抑えた大友勢は、立花山城を再奪還する為に立花山城に迫り、一方の吉川元春ら毛利勢も城から打って出て立花山城の南側の多々良川付近で相見える事になっています。
結果的には1550年代から10年以上に渡って続いた大友氏と毛利氏の筑前・豊前における覇権争いは、大友氏が勝利する事で幕を下ろすのですが…多々良浜の戦いに見る様に、立花山城を拠点とした攻防戦が何度も行われている事から、立花山城が筑前にとってどれだけ重要だったか?という事が分かりますね。

余談ですが北部九州において、畝状竪堀群が非常に多い理由としては、間違いなく中国地方から度々侵攻に来ていた、大内氏、毛利氏の影響ですね♪

三日月山城塞群の歴史は不明な所ばかりですが、案内板には永禄年間(1558年〜1570年)頃に立花山城の出城として高橋三河守鑑種が守備をしていたとあります。
大友方が入ったり、毛利方が入ったりする事で、あれだけ巨大な城郭(立花山城)に三日月山城塞群(東西総延長3キロ)が形成されたのでしょう♪筑前国続風土記には、『立花山の南の方、立花山につづきたる山を鑑種陣といふ』と記されていて、立花山城が主城であり、三日月山城塞群は出丸、砦という事になります♪
三日月山山上の尾根を削平する事で多数の郭を造り出し、連続させています♪
個人的には、立花山城を落とす為に築かれた城塞群だったらとも思いましたが、やっぱり立花山城の支城群なのでしょう♪この南側、三日月湖を挟み城ノ越山城砦群が対峙します♪コチラの方が、対立花山城には合っているかな〜?因みに三日月山は、陣山とも呼ばれています♪

2023年03月13日 民部大輔ゆっぴ
立花城



登山口から25分程度で山頂に着けます。途中、石垣跡や曲輪があったと思われる平坦な尾根があります。なかなかの急登があり、攻め込む方は攻める内に疲れそう。立花宗茂ほ何人でこの山に籠ったのだろうか?あまり大人数が滞在できそうにない狭さです。博多湾を見下ろし、ここが岩屋城と宝満山城と連携した重要拠点なのが良く分かります。

2022年12月05日 panapit壱岐守
立花城



立花山登山口駐車場から1時間くらいで登れる、手軽なハイキングにちょうど良い山です。途中、城跡と思われる石垣が何箇所かで見れます。頂上からは福岡が一望できます。オススメのスポットです。

2022年11月06日 カツ
立花城



登山口に駐車場があり助かりました。麓の立花道雪のお墓は鍵がかかって直接お詣りはできませんでした。

2022年05月19日 大内周防守毛利
鷺白城[立花城  周辺城郭]



鷺白城(さぎしろじょう)と読みます。福岡県古賀市の北側の筵内地区にある城郭です。立花方の出城と考えられ、敵対する宗像氏が治めた飯盛山城とは旦ノ原を挟んだ小高い丘の上にあります。永禄10(1567)年9月に起きた宗像氏と立花氏が戦った旦ノ原の戦いでは筵内に大友方が陣を構えたとあるので、この鷺白城に陣をたてた可能性があります。この戦いでは旦ノ原では立花方の奴留湯融泉(ぬるゆゆうせん)の指揮のもと立花鑑載(たちばなあきこと)が筵内に布陣し、旦ノ原で宗像方を撃退、また新宮湊から上陸した宗像水軍を和白周辺で戦い撃退しています。

鷺白城のある鷺白山は複数の峰がありますが、明確な城郭遺構はありません。熊野神社のある鷺白山の北側の峰には山頂にやや平坦な土地があり(熊野神社を建てるためにかなり削られています)、また鷺白山側には切岸らしき斜面があります。この熊野神社は1448年に今の位置に建てられ、1552〜1554年に再建したとされます。この時期には北西にある西郷地区ではこの時点において大内方であるとともに宗像氏と共同体制をとっており、また東側の薦野氏や米多比氏が大内側につくものと大友方につくものと分かれていた時期になります。

鷺白城を治めていたとされる院内党(筵内地区を支配)は立花氏の居城、立花山城の在番衆に任されており、また1581(天正9)年に起きた宗像氏、杉氏、秋月方と戸次系立花氏との鞍手郡の戦いで立花方は鶫岳城(つぐみだけじょう)を奪取するとともに、鶫岳城の在番に任されています。 このように院内党は立花山城や鶫岳城といった大友方の重要拠点の在番を任されることが多かったため、居城の鷺白城の整備に手をつける余力がなかったかもしれません。小高い山の上に柵や小屋だけを構えた城郭だった可能性があります。

写真
①熊野神社な説明碑
②鷺白山
③熊野神社
④鷺白山北側の峰の山頂の平坦地1
⑤熊野神社の鷺白山側の斜面
⑥熊野神社から鷺白山に続く尾根(土橋?)
⑦鷺白山北側の峰の山頂の平坦地2
⑧鷺白山山頂

2022年02月13日 織田上総介晃司
立花城

新宮町にある立花山登山口駐車場(立花口)を利用。広い駐車場で多くの方が停めておりました。

かなり広い城域で分岐も多くあるのですべてを見るのはかなりの時間が必要。
登山道マップや縄張り図で地区名を把握しないと迷子になりそうです。

今回、立花山ルートから分岐で石垣ルートを通り山頂へ。石垣ルートの登り勾配はキツイですが次々現れる石垣に足が進みました。

2021年11月09日 大内周防守毛利
米多比城[立花城  周辺城郭]



米多比(ねたび)城と読みます。戸次鑑連(立花道雪)、立花宗茂に仕えた米多比鎮久を輩出した米多比氏の居城とされます。米多比氏はもとは近接する薦野氏(立花氏の家来の薦野増時を輩出)と同族の丹治氏でありました。戦国時代初期に米多比氏は山口を拠点に中国地方を支配していた大内氏に仕えていましたが、大内氏滅亡後は豊後の大友氏につくものと北に隣接する宗像氏につくものに分裂しました。結果、米多比の地は大友方についた米多比直知とその嫡子鎮久が治めました。

米多比城のある須賀神社からは古賀市筵内(むしろうち)にある鷺白城とその北側の旦の原、そして写真では木に隠れて見ないですが大友方と敵対する宗像氏の飯盛山城が眺めることができます。その直線距離約2キロ‼︎そして同じ大友方の薦野氏の城郭の小松岡砦から飯盛山城まで約1キロと目と鼻の先にありました。

1567(永禄10)年には目と鼻の先にある旦の原では立花鑑載(あきこと)、奴留湯融泉(ぬるゆゆうせん)率いる大友軍が旦の原を南下する宗像氏の一族の許斐氏備(このみうじつら)率いる宗像軍に奇襲を仕掛け勝利しました。この米多比城からはどのように見えていたのでしょうか?

ちなみに米多比の地域は米多比氏が治めていましたが、米多比城の城主は不明でなおかつ米多比城は記録に記載されていません。(いちおう江戸時代後期に書かれた筑前国続風土記拾遺には米多比城と思われる城の地名が出ています)

米多比城の山城部では畝状竪堀や主郭を全周する土塁が綺麗に残っているのでお勧めです。なお駐車場はなく、古賀駅からバスが1時間に1本ぐらい少し離れたところに止まります。

2021年11月09日 大内周防守毛利
米多比城(山城部)[立花城  遺構・復元物]



米多比城を構成する一つの山城部です。山城部は主郭が2段に分かれており、南側の高いところがI郭、北側の一段下がったところがII郭。II郭の南側はI郭から高低差を利用し横矢をかけることができるような位置関係にあると考えられることから、その箇所以外の全ての方位に畝状竪堀が設けられています。

I郭の南側は尾根を分断するように堀切が大きくつくられています。またその堀切をつくるために出たであろう土は堀切の南側に土塁をつくったものと考えられ、西側に伸びる堀切を構成している。

主郭の周りにはほぼ土塁が全周する形で残されています。特にII郭の北東には土塁を開口し、虎口がつくられています。虎口の前面には張り出しが設けられ、主郭と畝状竪堀の間にある横堀に接続されています。張り出しの南側には2条の竪堀がつくられていますが、張り出しの正面となる東側は自然地形の斜面となっています。

II郭の北側の畝状竪堀の外側には緩斜面が設けられ、さらにその北側の斜面は切岸と考えられ斜面がきつく、虎ロープをつたわなければ上り下りができないほどです。

 

2021年08月26日 虹雷 大宰大弐 サンダー
立花城



先日の大雨の影響で石垣方面が土砂崩れのため立ち入り禁止になってます。頂上まで所々足場が悪く、岩の上は特に滑りやすい所があるので注意が必要です。現存する井戸には、しっかり水が溜まってました。

2021年03月03日 薩摩守道雪⚡︎、
下山田城[立花城  周辺城郭]



永禄期の毛利勢の立花山城籠城の際の大友方の付城であるともいわれている。
立花山山頂から南東に下る尾根上、新宮町と久山町との境の頂部に位置する。
馬責場から三日月山への周回路の途中の尾根から入りましたが、目印になるものがなく、少し迷いながらそれらしい所から入っていくと堀切が現れます。堀切は南北に細長い主郭を囲むようにそれぞれに残っており、主郭の東側には畝状竪掘、南側には横掘と土塁のような跡も残ってます。
立花山城にも峰続きで近く、攻城時の付城だけでなく、その後も篭城のために使われたのではと思われます。


2021年01月07日 大内周防守毛利
城ノ越山城砦群A[立花城  周辺城郭]



城ノ越山城砦群A、Bは立花山城の南側、御飯ノ山城の北側にある橿日岳から城ノ越山にかけて存在する城砦群です。御飯ノ山城の方が距離的に近いですが、城ノ越山城砦群Aは、立花山城をめぐる大友氏と毛利氏の戦いにおいて築かれた陣城と考えられること、また『拾遺』「老ノ山古城」において御飯ノ山城と城ノ越山城砦群Bが並列して記載されかつ城館に関わりを持っているが城砦群Aに関して記述が無いことから、城砦群Aは立花山城周辺城郭に登録させていただきました。
 城砦群Aは橿日岳を中心に北西から南東にかけて細長く伸びており、距離は近いですが城砦群Aの東側、城ノ越山を中心に城ノ越山城砦群Bの曲輪が北西、北東、南東に伸びていると考えられます。

 城砦群A、B共に曲輪の下、切岸の下をそれぞれの曲輪を繋ぐようにして犬走りが設けられています。また城砦群Aは城砦群Bよりも多くの畝状竪堀が設けられています。(写真の写りが悪いのですが)畝状竪堀は場所によって少しつくりが違うようで、城ノ越山城砦群の縄張り図(福岡県教育委員会『福岡県の中近世城館跡Ⅱ』より。HPよりPDFで閲覧できます)のa5(1枚目)は上端に犬走りを設け、空堀状にしているように見受けられましたが、a0(2枚目)、a1(4枚目)は切岸上に畝状竪堀をつくり、上端部は何も設けずにそのまま切岸から土塁を築いているようでした。
 頂上付近で細長く伸びている曲輪は堀切はあるものの深く断ち切っていないです。
 a0からa1にかけて連なる腰曲輪やa3北側の腰曲輪は岩盤を削って城壁にしたり、また岩盤を削った上に石垣を積み重ねたものが見られました(3枚目)。
 完全な石垣づくりは見られませんが、土塁•石塁や畝状竪堀、堀切、竪堀など多種多様な防御施設を見ることができる素晴らしい城郭でした。

 ただしa2はツタが茂っていることと真新しいイノシシの糞があり、a3とa3bの間にある堀切にイノシシがいたことから注意が必要です。香椎ルートで登ると途中竹藪を歩くので特に春先は気をつける必要があると思います。

 城ノ越山城砦群への行き方は城ノ越山や橿日岳の山登りのサイトを参考にするといいと思います。(間違って13仏ルートは通らないように。13仏までは道が良いもののそこから先は倒木•竹多数あり道が分かりづらいです)
 

2020年08月30日 眞田左衛門佐十兵衛
立花城



新宮町の登山用駐車場(約30台)を利用出来ます。すぐに急斜面になりますが、約30分で一気に登れます。家族連れも多く登山道も整備されていて、初心者でも大丈夫です。駐車場から1300mで標高350m程登るイメージです。
初めての方は立花山ルートがおすすめです。他に修験坊の滝ルート(途中から沢を登る)と立花山ルートから途中石垣跡の看板から右手を登ると石垣が途中所々見られます。個人的におすすめは、石垣跡ルートから山頂を目指して、立花山ルートで古井戸、屏風岩経由で下りるルートが良いと思います。
汗をかきながら山頂(本丸)へ行った時の眺めが最高です!!海の中道、福岡市内から福岡空港まで丸見えです。

2020年06月07日 眞田左衛門佐十兵衛
立花山登山道駐車場[立花城  駐車場]

約30台位駐車出来ます🚗

2016年10月12日 カーネル
立花城

鹿児島線の福工大前駅からコミュニティバス[山らいず線]で立花小で下車

そのまま進行方向にバス通りを進むと六所神社に登山道地図があります
さらに進み、梅岳寺で立花雪道のお墓参りをしてから坂を登れば登山口に着きます

登山道は普通の山道で、しばらく進むと石垣への分岐がありますがここは直進し、時間に余裕があれば大クス(城とは関係ありません)まで往復します
戻って登ると今度は井戸への分岐。井戸へは30秒で行けます

松尾岳への分岐を素通りして山頂の本丸です。ここまでバス停から1時間

松尾岳への分岐まで戻り、縦走路を進むと途中の石垣の分岐と合流し、石垣が2か所あります。石垣はかっこいいです

先へ進んでから下原方面に下って下原バス停から香椎駅に帰りました。だいたい2時間くらい。2回行きましたが2回とも雨だった

歩き計画されている方の時間目安になれば幸いです

2012年11月09日 きたろう三世
立花城

立花道雪の墓がある梅岳寺から矢印に従って行けば登山口と駐車場がある。山頂までは30分程度で、中腹あたりから井戸などの遺構が見られる。主郭からは諸勢力の争奪戦の対象になった博多湾や、支城の名島城跡が見下ろせる。主郭から松尾山方面に10分程下ると石垣やはっきりした曲輪跡に出る。

立花城の周辺スポット情報

 大つぶら(遺構・復元物)

 小つぶら(遺構・復元物)

 大一足(遺構・復元物)

 小一足(遺構・復元物)

 石垣跡(遺構・復元物)

 石垣跡(遺構・復元物)

 石垣跡③(遺構・復元物)

 石垣跡④(遺構・復元物)

 古井戸(遺構・復元物)

 松尾山(遺構・復元物)

 イバノヲ・大タヲ(遺構・復元物)

 馬責め馬場(遺構・復元物)

 米多比城(山城部)(遺構・復元物)

 松尾山城(周辺城郭)

 三日月山(陣山)(周辺城郭)

 城ノ越山城砦群A(周辺城郭)

 米多比城(里城)(周辺城郭)

 米多比城(周辺城郭)

 岳越山(周辺城郭)

 四万(しまん)城(周辺城郭)

 古子城(周辺城郭)

 下山田城(周辺城郭)

 鷺白城(周辺城郭)

 三日月山城砦群 その2(周辺城郭)

 三日月山城砦群 その3(周辺城郭)

 三日月山城砦群 その4(周辺城郭)

 梅岳寺(寺社・史跡)

 トイレ(トイレ)

 立花山登山道駐車場(駐車場)

 屏風岩(その他)

 白岳(その他)

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