米多比城
米多比城([立花城 周辺城郭])
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米多比城の口コミ情報
2021年11月09日 大内周防守毛利
米多比(ねたび)城と読みます。戸次鑑連(立花道雪)、立花宗茂に仕えた米多比鎮久を輩出した米多比氏の居城とされます。米多比氏はもとは近接する薦野氏(立花氏の家来の薦野増時を輩出)と同族の丹治氏でありました。戦国時代初期に米多比氏は山口を拠点に中国地方を支配していた大内氏に仕えていましたが、大内氏滅亡後は豊後の大友氏につくものと北に隣接する宗像氏につくものに分裂しました。結果、米多比の地は大友方についた米多比直知とその嫡子鎮久が治めました。
米多比城のある須賀神社からは古賀市筵内(むしろうち)にある鷺白城とその北側の旦の原、そして写真では木に隠れて見ないですが大友方と敵対する宗像氏の飯盛山城が眺めることができます。その直線距離約2キロ‼︎そして同じ大友方の薦野氏の城郭の小松岡砦から飯盛山城まで約1キロと目と鼻の先にありました。
1567(永禄10)年には目と鼻の先にある旦の原では立花鑑載(あきこと)、奴留湯融泉(ぬるゆゆうせん)率いる大友軍が旦の原を南下する宗像氏の一族の許斐氏備(このみうじつら)率いる宗像軍に奇襲を仕掛け勝利しました。この米多比城からはどのように見えていたのでしょうか?
ちなみに米多比の地域は米多比氏が治めていましたが、米多比城の城主は不明でなおかつ米多比城は記録に記載されていません。(いちおう江戸時代後期に書かれた筑前国続風土記拾遺には米多比城と思われる城の地名が出ています)
米多比城の山城部では畝状竪堀や主郭を全周する土塁が綺麗に残っているのでお勧めです。なお駐車場はなく、古賀駅からバスが1時間に1本ぐらい少し離れたところに止まります。