下山田城
下山田城([立花城 周辺城郭])
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下山田城の口コミ情報
2024年08月17日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
福岡県の糟屋郡新宮町、久山町に跨る形で、標高367mの井樓山を中心に城郭を展開する立花山城♪その南東側の尾根、標高170mの地点に城郭を展開した【下山田城】の口コミとなります♪
立花山城周辺には、三日月山城塞群や、城ノ越山城砦群など多くの城郭が立ち並びます♪下山田城もその1つであります♪
この付近の南側には南北朝時代に足利尊氏VS菊池武敏が争った『多々良浜の戦い』があったり、戦国時代には立花山城を巡る攻防戦として、大友宗麟VS毛利元就が。更には戦国末期の岩屋城の戦い時には、立花統虎(後の立花宗茂)が立花山城に籠るなど、何度も攻防を繰り返し軍事的な緊張が漂ったエリアでもあります。
戦国時代には大友氏の筑前の支配拠点の1つとして、立花山城は非常に重要視されていて、建武年間以降、築城主である大友貞載が立花姓を名乗り、代々ここ立花山城を守ってきました♪この立花氏は『西大友』とも呼ばれたりしています。それ位、重要な城郭なのです♪ではでは同山系内の近い場所に立地する、下山田城の性格は?という事です♪
永禄11年(1568年)北部九州進出を狙う毛利元就に通じた立花山城の立花鑑載は、大友義鎮(宗麟)に叛旗を翻します。この前年には、大友配下にあった岩屋城・宝満山城の高橋鑑種と古所山城の秋月種実も毛利元就の後押しで叛乱を起こし、大友氏に対抗していました。筑前国は岩屋城・宝満山城の高橋鑑種と立花山城の立花鑑載の双璧が守っていた訳で、この離叛に対して大友義鎮(宗麟)は怒り狂い、戸次鑑連(後の立花道雪)らを将として、3万の兵を立花山城へ差し向けています。1度目のこの戦いの行方は、激戦の末、立花鑑載が自刃。高橋鑑種は降伏し、小倉城へ移封されています。
その後の立花山城は、田北氏や臼杵氏など大友方の武将が守っていますが、永禄12年(1569年)毛利元就方の小早川氏、吉川氏の両将に攻められ、開城しています。毛利方の城郭となった訳です。が、その後、元亀元年(1570年)大友宗麟は再び戸次氏、臼杵氏、吉弘氏らと共に反撃し、立花山城を奪い返しています。因みに戸次丹後守鑑連に立花氏を継がせ、あの立花道雪が誕生しています♪
取った取られたの争奪戦の末に生まれた城郭が、この下山田城であり、立花山城を攻める為の付城という訳です。
こんなに近くに城を置くの❓と思いますが、出雲国の赤穴瀬戸山城に対して、武名ヶ平城の同山系内に陣を引いた毛利氏ならば全然あり得そうです♪少し前の三日月山城塞群も、高橋三河守鑑種が守っていたとされていますが、もしかしたら…毛利方の可能性もあるのかも知れません。何にしても、下山田城には畝状竪堀群が残っていたりと毛利っポイ雰囲気が漂います。ただし、下山田城の大きさからしたら、立花山城を攻略するには余りにも城郭として機能が弱い気がするので、三日月山城塞群や城ノ越山城砦群など幾つかに部隊を分けて、応戦した事でしょう。何れにしても、時代によって、どちらの武将も入っていたでしょうし、戦国末期まで使用されたとは思いますが♪
2021年03月03日 薩摩守道雪⚡︎、
永禄期の毛利勢の立花山城籠城の際の大友方の付城であるともいわれている。
立花山山頂から南東に下る尾根上、新宮町と久山町との境の頂部に位置する。
馬責場から三日月山への周回路の途中の尾根から入りましたが、目印になるものがなく、少し迷いながらそれらしい所から入っていくと堀切が現れます。堀切は南北に細長い主郭を囲むようにそれぞれに残っており、主郭の東側には畝状竪掘、南側には横掘と土塁のような跡も残ってます。
立花山城にも峰続きで近く、攻城時の付城だけでなく、その後も篭城のために使われたのではと思われます。