片脇城(かたわきじょう)
片脇城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 福岡県宗像市田島字本村
旧国名
- 筑前国
分類・構造
- 丘城
天守構造
- -
築城主
- 宗像清氏
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 宗像氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、堀切、竪堀
指定文化財
- -
再建造物
- なし
周辺の城
-
許斐山城(福岡県宗像市)[5.8km]
蔦ヶ嶽城(福岡県宗像市)[7.5km]
岡城(福岡県遠賀郡)[9.4km]
立花城(福岡県福岡市)[16.4km]
猫城(福岡県中間市)[16.6km]
山鹿城(福岡県遠賀郡)[16.9km]
御飯ノ山城(福岡県福岡市)[19.2km]
笠木城(福岡県宮若市)[19.5km]
名島城(福岡県福岡市)[21.2km]
直方陣屋(福岡県直方市)[21.9km]
片脇城の口コミ情報
2023年04月11日 龍馬備中守【】
宗像氏貞公墓所[片脇城 寺社・史跡]
福岡県宗像市の【宗像氏貞墓所】♪戦国時代を駆け抜けた宗像氏貞公は宗像家本流であり宗像大社の大宮司様(第79代目)☆居城を蔦ヶ嶽城として宗像郡を統治した武将です♪
幼名を鍋寿丸と名乗った宗像氏貞☆
父は宗像正氏で文字通り宗像家の本流です☆父の代から周防国・大内氏に属し、父・宗像正氏が死去すると、その家督は父の猶子・宗像氏男が継ぎます☆が、天文20年に大内家・家臣だった陶晴賢の謀反によって大内義隆が討たれた『大寧寺の変』の際に宗像氏男は主君・大内義隆を守り奮戦しますが討死します…
此れにより宗像家の内部で家督争いが発生☆鍋寿丸(宗像氏貞)の相続を支持する一派は白山城に籠り対峙する宗像千代松(氏男の弟)を支持する一派は蔦ヶ岳城に立て籠もり交戦☆
主君・大内義隆を自害に追い込んだ家臣・陶晴賢は鍋寿丸の家督相続を支持☆鍋寿丸は、この争いに勝利し宗像大宮司に補任され、更には宗像総領を継いで行きました☆
因みに、大内義隆を自害に追い込んだ陶晴賢もまた、厳島の戦いで、毛利元就に自害に追い込まれていきます…そして興味深いのは、この戦いに宗像勢も参加したという説が残ります☆小早川隆景は宗像を騙り、厳島の陶軍の陣に兵を紛れ込ませたともいわれています☆※実際は、賀儀城の乃美氏が宗像水軍を装ったとも云われてます☆水軍衆も有した宗像氏です☆
鍋寿丸は1557年に元服し宗像氏貞と名乗り、大内氏の北九州所領を引き継いだ大友氏に従う事になります☆が、しかし、毛利氏が北九州に侵攻してくると、秋月氏らと共に大友氏を離反し毛利方に付いています☆
宗像の地を大友氏の支援を得た宗像鎮氏が襲撃☆宗像鎮氏は『鎮』の字を賜り第77代目の大宮司の子で大友家の支援を受けました☆襲撃された宗像氏貞は宗像を捨て逃亡しますが、安芸国・毛利氏の支援を受け所領を奪回☆何度も大友軍の立花鑑載・奴留湯融泉・吉弘鑑理・高橋鑑種・臼杵鑑速・立花道雪からの攻勢を受けますが、許斐山城、赤間表、長尾原、白山城、蔦ヶ嶽城、吉原里城で凌ぎ切りました☆その後毛利氏と大友氏の講和が成立すると宗像氏貞も大友氏と講和しました☆
その後、大友家臣・高橋鑑種が主君・大友宗麟に叛旗を翻すと宗像氏貞も同調☆更には秋月種実、筑紫惟門、大友一族の立花鑑載も同調しました☆これにより筑前・豊前は大混乱…☆大友氏🆚毛利氏は立花山城の攻防戦等、北九州各地で戦火を交えました☆
毛利氏が北部九州から撤退すると大友氏に降伏☆講和条件として大友家重臣・臼杵鑑速の娘を大友宗麟の養女として更に妻としていきました☆講和のもう一つの条件として家臣の河津隆家の殺害を促され宗像氏貞は、やむなく河津隆家を殺害しました☆
殺害はしたものの、これを深く悔やんだ宗像氏貞は河津隆家の子供達を取り立て一門同様の扱いにしています☆
その後、秋月領の秋月種実は大友領への侵攻を開始☆一部の宗像家臣が立花勢の兵糧を強奪した事に立花道雪は激怒!宗像氏貞は謝罪に努めますが、怒り狂った立花道雪は軍を出し宗像氏への攻撃を開始☆宗像氏貞は一度は立花勢を撃退しますが、最終的には守りきれず、宗像領を捨てて逃亡…
側室兼人質として立花道雪の元にいた宗像氏貞の妹・色姫が宗像氏貞と立花道雪の対立に心を痛め自害☆立花道雪が病死すると、すぐさま反撃を開始し旧領を回復しましたが…豊臣秀吉の九州征伐前に宗像氏貞は急死します…
宗像氏貞の子・塩寿丸が亡くなり宗像氏貞の未亡人も去ってしまった為に家督は事実上、擬大宮司職(大宮司職に次ぐ職です)一族の深田氏栄が後を継ぎます☆
最盛期には宗像郡から遠賀郡・鞍手郡・糟屋郡の一部と島を支配する筑前国の有力な領主だった宗像家☆宗像家、最後の英傑、宗像氏貞公は鐘崎地区に眠っています♪墓所の入口には宗像氏の家臣・占部貞保の墓も鎮座しています☆占部貞保は宗像大宮司家の滅亡から黒田氏の入国までの過程を見届けた人物となります♪
宗像氏貞公の墓石は礫岩を使用しています♪
海の砂利らしいものが混ざっている氏貞公の墓石です☆鐘崎地区は海上交通の難所であったとされ宗像領の奥まった所に立地します♪更には船を作っていたとされる地区にもあたり、北側の玄界灘、海…♪色々な思惑が交差します♪宗像大社の中津宮、沖津宮のある大島から持って来たのかな〜??大島は攻められた際に何度か逃げ込んだ場所☆海の石を使用した墓石なんて妄想が走ります♪
2022年05月26日 大内周防守毛利
亀山城[片脇城 周辺城郭]
亀山城は西郷地区にあったとされる城郭です。亀山城は灰塚切寄と推定される城郭であり、西郷地区を支配する上で重要な役割を持っていたものと考えられます。
西郷地区は戦国時代の初め大内氏の直轄領であり、篠栗町にある畝状竪堀が多くあることで有名な高鳥居城の城衆の所領も西郷にありました。西郷には、河津、井原、深川氏などの家臣が存在し、大内氏滅亡後は宗像氏の家臣となっていき、西郷地区は宗像氏の領地に取り組まれていく。1569(永禄12)年、毛利氏が九州から撤退すると宗像氏は大友氏と和睦する。その和睦条件の一つに西郷地区の割譲と西郷を居所とする河津隆家の殺害を提示し、宗像氏貞はこの条件に応じ、西郷地区にいた大内氏旧臣を宗像氏に取り込んでいった。後にこの大内氏旧臣はその恨みから1581(天正9)年の鞍手郡での戦いを起こすことになる。
この西郷地区を治めた河津氏の居城がこの亀山城とされ、その周辺の遺跡からは戦国時代の遺跡(武家居館など)が見つかっている。亀山城は亀山神社や亀山古墳のある丘から東の打越山、法華寺山にあったとされていますが、今は遺構はなく、水路や道路がかつての堀跡を示すのみである。この亀山城は天正9年に灰塚切寄として大友氏の境目の拠点の城として整備され、足立対馬守と内田鎮家が番代にあたり、院内衆が在番することとなった。
写真
①亀山神社のある丘
②亀山神社(亀山古墳)
③堀跡とされる道路と水路
④堀跡とされる水路
⑤打越山と堀跡とされる道路
⑥法華寺山
⑦打越山北側にある堀跡
⑧立花領と宗像領を分けた西郷川と法華寺山
2022年05月26日 大内周防守毛利
宮地岳城[片脇城 周辺城郭]
宮地岳城(みやじだけじょう)は宮地嶽神社の裏山の宮地岳にあります。宮地岳城は宗像氏の城郭の一つで、小樋蔵人に加え阿部藤七郎とともに城番を任せられ、また沿岸防備にもあたったとされています。
鶫岳城、飯盛城、亀山城とももに立花領に接する宗像氏の南側の重要拠点でありましたが、1581(天正9)年11月13日の鞍手郡での立花氏との戦い(小金原の戦い)で宗像氏が負けると、その翌日に戸次鑑連(戸次道雪)は宮地岳城を攻め、攻略し「宮地嶽切寄」として城郭を整備しました。大友氏における「切寄」とは「耳川の戦い以降の混乱期において境目の領地の拠点として既存の城郭を整備したもの」のことをいい、これには在地領主以外にも他の在地領主も動員されることから公的性格を持つものである。立花氏は宮地岳城奪取すると、すぐに切寄として対宗像氏の拠点としての役割を持つこととなった。鍋島飛騨守が番代にあたり、宮地嶽周辺の郷人に勤番を命じられています。
宮地岳城は単郭式の南北約100mの細長い形をしています。曲輪はきれいな平坦加工はなされておらず、曲輪の北側に一つ、南側に二つ堀切が設けられています。北側の堀切はかなりわかりづらいですが、登山道に向かって堀切から伸びる竪堀ははっきりとわかります。南側の二本の堀切は人の背丈ないほどの小規模です。曲輪の北側には鋭い切岸や腰曲輪が設けられています。境目の城の割には鶫岳城と比べるとつくりがかなり違い、土塁や畝状竪堀が存在せず、また曲輪の平坦加工の有無などがあります。宮地岳城のすぐ東側には冠山城という宗像氏の城郭があるため、宗像氏をむやみに刺激しないように城郭の整備は必要最低限のものにしたのでしょうか。
写真
①主郭
②、③南側の1番目の堀切
④切岸
⑤腰曲輪
⑥南側の2番目の堀切と南に伸びる尾根
⑦主郭の切岸と登城路
2022年01月24日 大内周防守毛利
宗像氏貞公墓所[片脇城 寺社・史跡]
宗像氏貞公墓所。墓石は礫岩のため読めず、側面に微かに天正、の文字があるそうですが読めず。そのため建立年月日すら不明。近くの承福寺には宗像氏貞公の位牌があります。
承福寺は宗像氏貞の父、宗像正氏の供養を行ったところであり、また承福寺には宗像氏貞肖像画もあります。
宗像氏貞公墓所には、重臣である占部貞保の墓や宗像氏貞の生涯を綴った記念碑も建っており、毎年3月4日に墓前祭が行われるそうです。
宗像郡域の石造物を調べると花崗岩、泥岩、凝灰岩と加工しやすく風化もあまりしない石材を使っているのに対して、宗像氏貞公墓石や山田事件の被害にあった山田局や菊姫、侍女たちの墓石は線刻しづらく、風化しやすい礫岩を使っているのはなぜだろうか?よくみると海の砂利らしいものが混ざっていることから宗像氏の本拠地の大島からわざわざ運んで墓石にしたのであろうか?また宗像氏貞公墓所のある鐘崎地区は海上交通の難所で宗像領の奥まったところで、なおかつ船を作っていたとされる地域(宗像市史より)なので宗像氏と縁の深い地域であったことが推測される。
アクセス
東郷駅から鐘崎行きのバスは出ていますが、道の駅や宗像大社、山田増福院、白山城や蔦ヶ嶽城の近くは一切通りません。宗像氏貞公墓所から宗像大社までは歩くと1時間かかるので、墓所最寄りの承福寺に車で行くのがベストです。海の道むなかた館ではレンタサイクル(クレジット払い)が利用できるのでこれを使っても良いかと。
写真
①正面②裏③右側面④左側面