稲光城
稲光城([笠木城 周辺城郭])
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稲光城の口コミ情報
2025年07月31日 大内周防守毛利
稲光城(いなみつじょう)は宮若市稲光地区にある丘城で築城年や城主、城番ともに不明の城です。
この稲光城が歴史の表舞台に登場したのが小金原の戦いです。小金原の戦いは後世につけられた戦いの名前で、この戦いで戦った立花方(大友方)では山東宗像表の戦い、清水原の戦いと呼び、対する宗像方は吉川庄の戦いと呼ばれていました(ここでは立花方の一次資料に従って清水原の戦いで以後統一します)。
清水原の戦いの背景として大まかな説明をすると天正九年(1581)に立花氏(居城は立花山城。宗像領の西側)が同じ大友方の毛利鎮実(もりしげざね。中国地方の毛利氏とは関係ありません)の籠る宗像領の東側にある鷹取山城に兵糧を送った帰り(11月13日)に宗像氏家中のものより襲撃された戦いです。立花氏と宗像氏は毛利氏が永禄11~12年にかけて北部九州を攻め撤退した後毛利方についていた宗像氏は大友氏と和睦を結んでいた関係であり、互いに婚姻関係を結んだり領土交換するなどして一時的な休戦状態になっていました。戦になったきっかけは一次資料から読み取ることはできませんが、この戦い以後は立花氏と宗像氏は対立し、他の反大友勢力と行動することになります(ただし宗像氏は毛利氏寄りの関係を持っており、龍造寺や島津と関係をもつ秋月氏とは必ずしも行動は一致していません)。
この戦いで戦場になったひとつが稲光城になります。宗像氏側では稲光城を「敵切寄」と記しており、これは大友方が元々あった城を接収し改修ないし陣地として構えていたことと推測されます(切寄は大友氏において城砦を再利用したものが多く見られる)。※「筑前の「切寄(きりよせ)」について」『九州の城 2』「北部九州中近世城郭研究会」より
稲光城のある稲光村は『宗像社第一宮御宝殿御棟上之置札』より天正6年に完成した本殿の造営に稲光村から動員されていたことから宗像領と考えられる。したがって稲光城も宗像氏の城であったことが考えられる。
城の縄張りであるが、稲光城のあるゴルフ場の造成の影響により断言はできないが現地で見る限り曲輪が3つからなっていたと考えられる。主郭を真ん中に置き、その南北に帯曲輪があったとされる。主郭のすぐ西に堀切がひとつ、そこからまた先に堀切がひとつある。
この堀切であるが、この地域を含む若宮庄の城は帯曲輪が主郭を囲み、堀切底部が帯曲輪と接続する。また堀切は竪堀をつけない仕組みになっています。
しかし、稲光城では主郭の周りに帯曲輪で囲んでおらず、また堀切と帯曲輪は堀切と接合せず単独の防御施設となっている。さらにふたつの堀切は両サイド共に竪堀となって麓に向かっている。
このことは他の若宮庄の城を築いた年との時間差や用兵術(ドクトリン)の違い、または若宮庄を支配していたと考えられる宗像氏とは別勢力によって構築されたことが考えられるが、推測の域を出ない。
稲光城は筑前の戦国時代の勢力を語る上で欠かせない城のひとつで清水原の戦い以後北部九州はより一層戦乱の渦に巻き込まれ、秀吉の九州平定まで戦が続くことになる。稲光城は再び戦場になった記録こそないものの宗像領の前線にあたり、広い宮若盆地に突出した丘城であることから見張りなどの役割などが想像できる。清水原の戦いの後すぐに鶇岳城や宮地嶽城を奪われ、宗像氏はその対応として田島(片脇城)・宮永(宮永城)の強化を強いられた(『無尽集 宗像氏貞書状写』「宗像市史史料編中世2 631」)。遺構こそほとんど残されていないもののこの城で起こった出来事をきっかけで戦乱に巻き込まれてしまったことに胸を痛まざるを得ないであろう。
写真
①帯曲輪
②堀切1(主郭側)
③堀切2(城外側)につながる竪堀
④道路の両サイドに堀切2
⑤堀切1と主郭切岸
⑥堀切1
⑦主郭
⑧主郭(左手に見える盛土は土塁か後世の造成の 際に盛られた盛土か不明)